生きづらさと向き合う ~場面緘黙症の私の場合~①-3

 場面緘黙症だった私が何に苦しみ、何を考えていたかを幼少期から順に掘り起こしていく。
 今回は小学生~中学入学。

 今回はまず家庭環境の変化から書こう。私の実家はもともと家族経営の小さな農家だったのだが、父に代変わりをして規模が大きくなり、私が小学4~5年生のころに法人化した。従業員を雇うようになり、たとえ自宅の敷地内でも見知らぬ人が出入りするようになった。また、当時はまだ携帯電話がない時代、農作業で家にいない母親に来客や電話対応を任されるようになった。それが、とても苦痛だった。
 人に会わないように自室にこもっていても、電話が鳴れば、来客を知らせるチャイムが鳴れば出なくてはならない。出れずに聞こえなかったふりをして、のちに母に知られれば「使えない子どもだな」と言われた。私が来客対応できないので母が家にいると、父が「従業員さんたちが働いているのに、なにをしているんだ」と母を怒鳴った。私が安らげる場所は一体どこにあるのだろう。いつしか「おとなになったら絶対に一人暮らしをするんだ」と強く思うようになった。

 小学4年生のときに担任教師が変わったが、やはり話せない私を責めることはなかった。そのころの私は相変わらず一言も話せなかったが、嫌々ながらも学校に通い続けたことで「やってみたらなんてことなかった」という経験を重ね、少し大胆になっていた。合唱のとき声を出さずとも口を動かして(先生にそう指導された)みたり、苦手な水泳も平泳ぎならいくらかマシに泳げるので休まず練習していたら先生に褒められたり。
 その成長を見ていてくれたのだろう、ある日担任の先生に「声を聞かせてくれないか」と言われた。ちょうどその頃、絵画コンクールに出展する絵が完成していなかったため、私を含め何人か居残りをしていた。帰宅時は全員、先生に車で送ってもらっていたのだが、私の家は一際遠いため常に最後になる。そのときに国語の教科書を音読してみようと提案された。私は深く考えず「それくらいできる」とすぐに頷いた。
 結果は、ただモジモジしているだけで一言も話せなかった。気恥ずかしくてたまらなかった。そこで私は自分なりに話せない理由を、「急に話して相手に『そんな声だったんだ』などとビックリされるのが嫌だから」と考えた。なにか大きな環境の変化さえあれば話せるはずだ。例えば、今の「話せない私」をまったく知らない人しかいない場所へ行けば……。

 結局、小学校でも一言も話さずに卒業し、村にひとつしかない中学校へ入学。村にふたつある小学校の生徒が合流するので、クラスのちょうど半分が「話せない私を知らない人」になった。が、入学初日の自己紹介でも変わらずモジモジするだけで、私はその日のうちに「話せない人」と認識された。
 しかし、中学の担任教師は今までの教師とは違った。その当時は熱血教師という括りに分類されたのだろうが、今のご時世ならば体罰教師・モラハラ教師として問題になっていたかもしれない。生徒を蹴る、ボールを投げつける、物を投げる、生徒の顔立ちを貶めて笑いを取る、……思い出すのもおぞましい、そんな先生だった。
 私の話せないという症状に対しても、もちろん厳しかった。返事をするまでじっと待たれたり、わざと声を出さなくてはできないこと(体育の授業で柔道の審判など)をさせられた。
 ある日、「おとなになれば話せるようになる」という小学生のころの校長先生の言葉を信じていた私は、毎日の宿題である日記に将来の夢を何気なく書いたのだが、「まずは話せるようになるのが先だろ!!」と殴りつけるような強い文字のコメントが返ってきたときは、実際に殴られたようなショックを受けた。
 次第に、私が話せないのは甘えているからだ、根性が足りないからだと思うようになった。話せるようにならなくてはと焦るようになった。

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