報われない君が好き

最近、好きなもの(人)が増えて、ふと我に返る。なぜ、私はそれが好きなのだろう?

単純に、カッコイイから・美しいから。自分の感性によって心に響いたからという、つまり、「好きだから好き」としか言いようのない理由のものも多い。例えば、つい最近、初めて観劇した宝塚歌劇。中国の俳優レオ・ローさんやニエ・ユエンさん。競馬のレースやサラブレッドの馬体。荻原井泉水の俳句「月光ほろほろ風鈴にたはむれ」。緑色や青色や黒色。これらは基本的に、好きな人も多く理解もされやすい。

その一方で私は、大多数の人には好かれないキャラクターに惹かれやすい。『遙かなる時空の中で3』という女性向け恋愛ゲームに登場する、有川譲はもっとも代表的な存在。彼はヤンデレとか重いとか変態とかメガネとか、ネタキャラ扱いされることが多い。が、私はそういった扱いに心を痛めてしまうくらいには真面目に真剣に本気で彼が大好きだ。

彼のことも最初は、一目惚れだった。公式サイトの登場人物紹介ページにいた彼の外見が、ただひたすら「カッコイイから好き」だった。しかし、実際にゲームをプレイすると、その“好き”がいつの間にか厄介な形に変貌していた。

彼は主人公の幼馴染で、物心ついたころから主人公を一途に想い、口うるさいほど心配をして世話を焼いて尽くしてきた。けれど主人公にとってはそれが「当たり前」で、決して想いに気づくことはなく、譲の兄の将臣と交際を噂されるほど仲が良い。もちろん、“有川譲ルート”に入れば彼の想いを成就させられるが、私は「報われない不憫な彼」が好きすぎて、むしろ将臣ルートに入って彼を傷つけて勝手に胸を痛めるという、自虐行為をして快楽を得る。

これは嗜虐心があるのではなく、あくまでいじめる対象は自分。好きな人のために心を痛めることが好きなのだ。そうすることでその存在を強く、より身近に感じることができる気がする。つまり、そうした付け入る隙というか、同情させてくれる悲しい、報われない不憫な部分を持つキャラクターやエピソードが好きなのだ。我ながらとても危ない、厄介な嗜好だ。

他にも、中国の時代劇『瓔珞』の高貴妃。彼女は自分の利益のために赤子の命さえも奪おうとする、極悪非道な悪の華……清々しいまでの悪女として登場する。しかし、実は彼女は幼いころに実母を亡くし、その悲しみに浸ることなく再婚した父と、自分を冷遇する継母への憎しみを原動力に、なんとかして成り上がろうとあがいてきた、“不憫な”少女だった。しかし、貴妃という後宮のNo.2にまでのしあがって、夫である乾隆帝に愛を求めるものの、政治的な問題で父親が足かせとなって得られなかった。徐々に歯車が狂い始めた彼女の最期はとても呆気なく、自業自得の滑稽ささえあるけれども、どこか美しく、悲しい、清々しいものだった。たまらない。

もうひとつ、荻原碌山の『女』。中学生の時、美術の時間でデッサンをしたとき、自分なりに上手に描けた自負があり、それがきっかけで『女』自体も好きになった。それがたまたま近くの美術館の特別展で展示されるという情報を得て、改めてその作品について調べた。すると、この『女』は、碌山が決して許されない恋をした相手がモデルだという。あろうことか尊敬する先輩の妻であり、多忙な先輩に代わって面倒を見ていた子どもたちの母親でもあるその女性に、碌山は苦しい恋をしていた。その苦しみを芸術に昇華させたのが、この『女』だという。そして碌山は、この作品が完成した年に急逝した。想いは報われないまま、この作品にギッチリ詰め込まれている。考えるとぞくぞくする。なんとかして自分の眼で観たいものだが、体調が悪くていまだ美術館に行けていない。

昔は、王道のストーリーや人気のキャラクターではなく、悪役だったり胸糞悪いエピソードを積極的に好むのは、明確な理由がなく、「好きだから好き」だと思っていた。

けれども年を重ねて好きなものが増えた今、それらを分析してみると、やけに複雑で厄介で、自分の心はそこまで単純ではないのだな、と感じる。しかし、それを明確に「これがこうだから好き」と説明できると、他人にも魅力を伝えやすい。それを理解してもらえるかはまた別の問題ではあるが、もしかしたら共感を得られるかもしれないし、誤解を解けるかもしれないし、一層好きになってもらえるかもしれない。それはとても有益ではないだろうか。

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