「解釈学・系譜学・考古学」を読解する――永井均の「幸福論」

『青い鳥』の啓示

①自分の生を最初から肯定できるということが「真の幸福」の根拠であり、われわれはそういう物語をいつも追い求めている。
②「もともと鳥は青かった」というのは歴史の偽造ではないか――このことへの理解が「真の幸福」を明確に定義する。

解釈学の誤記憶不可能性

・解釈学的探求とは、自分の人生を成り立たせているといま信じられているものの探求である。
・(現在の)自分の人生を成り立たせている記憶が虚構であるはずはなく――もしそうなら自分自身が虚構となってしまう――自己解釈の変更が仮に起こったとしても、それは記憶の変更と一体化している。

系譜学とBlue Bird Structure

・系譜学は――そう信じられてはいないが――じつは現在の生を成り立たせている過去を明らかにしようとする。
・外部の視点から眺めれば、彼らの人生は虚構でありうる。
・不幸であったという事実こそが――彼ら自身には気づかれない形で――最も決定的な影響を与えているのかもしれないではないか。
・「もともと鳥は青かった」という解釈学的意識に抗して立ち上がる系譜学的認識は、「いつから鳥は青くなったのか」という時間経過の素朴な表象における時点ではなく――それは解釈学の領域である――「もともと鳥は青かったということにあとからなった(Blue Bird Structure)」という時点――記憶内容には刻まれていないものの、それを成立させた当のものではあるような過去――を問う。

系譜学の解釈学化

・系譜学的探索が新たに納得のゆく自己解釈を創造したとき、系譜学は解釈学に転じうる。
・「青い鳥と共にすごした楽しい幼児期の記憶」に代わって「青くない鳥と共にすごした悲しい幼児期の記憶」が確かな実在性を持つに至る。
・解釈学的意識という単線だった記憶の時間系列は、系譜学的認識によって複線化され「乗り換え」可能となる。

「乗り換え」不可能な過去――考古学

・「真の幸福」を実現させるための、決して解釈学に転じない過去への視線として、考古学が要請される。
・考古学的視点はこれまでの時間系列を否定する。つまり、過去がいま存在している視点との関係の中に位置づけられることを拒否する。
・鳥は青くも青くなくもなかった――本当は幸福であったとか、じつは不幸であったとか、そういう問題意識そのものがなかった――ということである。
・ここで時間系列は謂わば無限化される。それは、考古学とは現在への意味上のつながりを持たない過去――意味連関の欠けた単なるエピソード(個的事実)――を掘り起こす営みである、ということである。

「過去の救済」と「真の幸福」

・「過去の救済」とは、過去を解釈学――あるいは転化し(乗り換え)た系譜学――の内部に包み込むことではない。
・それ(ら)は過去を決定的に殺そうとする意志であり、過去の過去性はその営為によって死ぬ。
・過去は現在を意味づけるためにあるのではない。それは現在との関係抜きに存在したはずである。
・考古学的視線とは、視線を向ける――現在へのつながりを見出す――ことができないもの(隔絶された過去)に対する、不可能な視線の別名なのである。
・現在には、それがたまたま現在であるという事実以外に何の意味もなく、過去はただ忘却されることで――現在と決定的に隔てられることによって――救済される。
・「真の幸福」とは、考古学的視線によって為される「過去の救済」に他ならない。

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