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Pentas(non-no渡辺編)①

朝早く、いつもなら通らない時間帯に最寄り駅に向かって歩く私はふと足を止めた。最寄駅のそばにある小さな花屋さんが開店前の準備をしていた。そうか、花屋さんって朝早くからお仕事が始まるんだよなぁ、と自分の今の忙しさと重ねてしまった。毎日こんな時間から働く花屋のお兄さんの後ろ姿を遠目から見て、私は少しだけ元気をもらった。なぜ私がこの日、いつもと違う時間にそこにいたかと言うと、この日から新しいプロジェクトが始まるからだ。私自身が企画した訳でも、責任者になる訳でもなく、たまたまメンバーに選ばれただけで多分特に期待されている訳ではない。ただ、期待がないからこそ、少しでも爪痕を残せないかと密かに思うこともある。プロジェクトスタートの今日は、気合を入れるつもりでこの時間にこの道を通っていた。実際、出社するとまだ誰も来ていなかった。自分の仕事前のルーティーンをこなし、プロジェクト会議の準備を始める。・・・これから毎日忙しくなりそうだ。

覚悟はしていたが、やはり毎日多忙を極めた。朝早く出社、毎日夜遅くまで残業が続いた。上司や同僚には恵まれていて、共に頑張れる環境があることはありがたかった。仕事の内容自体はやりがいもあるし、期待されてなかった私を頼って任せてくれることもある。期待される喜びを初めて味わった。その期待に応えたかった。しかしその生活が続くにつれ、なかなか上を見て生きることが苦しくなってくるもので、足元ばかり見てしまう自分に気づくことができなかった。

また今日もいつもの時間にこの道を通る。以前までは「いつもより早く」通っていたこの道だが、それが「当たり前」になってしまった。今日も開店準備をする花屋さんの前を通る。車にはたくさんの花が乗っていた。大きなバケツに入ったその花たちを、店員のお兄さんが1人で降ろしている。・・・花屋さんって力仕事だよなぁ。

ーーバシャッ・・・

ボーッとしていた私も悪いのかもしれないが、衝撃すぎて声も出なかった。気づいた時には花屋のお兄さんが慌てて謝りにきた。足元を見ると花が入っていた大きなバケツが派手に倒れ、私の足にその水がしっかりとかかっている。最悪だ。プロジェクトのために買ったまだ新しいパンプスだったのに。

「すいません!ごめんなさい!大丈夫ですか!?」

誤りにきたお兄さんは、思ったより若かった。自分と同じくらいか、もしかしたら年下かもしれない。これが、彼との出会いだった。


その日は本当にツイてない一日だった。花屋事件のおかげで電車を1本逃し(それで遅刻する訳ではないが)、仕事では取引先との連絡ミスがあり、お昼に食べたかったキッチンカーのお弁当が目の前で売り切れ、帰りの電車は事故でダイヤが乱れ・・・と、こんなにも悪いことが続くのかとちょっと笑えるくらいだった。おかげでいつもより帰る時間が遅くなってしまったが、もうどこの店も閉店している時間帯に、あの花屋は灯りがついていた。

「まだ開いてるの?」・・・と思わず声に出してしまった。はっとして黙り、そっと店の中を覗く。店の入り口には「CLOSE」の文字。作業台と思われる場所に、朝のお兄さんがいた。・・・私より長く働いてるじゃん。お疲れ様です。と心の中で呟いた。すると突然そのお兄さんが振り向き、目があってしまった。お兄さんは私の顔を見るなり慌てた様子で店の外にいる私のそばまで走ってきた。

「朝の、お姉さんですよね!?本当に申し訳ありませんでした。あれから大丈夫でしたか?」

「あ、はい、大丈夫・・・でもなかったですけど」私は少し笑ってそう言った。

「大丈夫じゃなかった・・・?そりゃそうですよね、うわー、ほんっとうにごめんなさい!どうしよう・・・あっそうだ、ちょっとお時間あります?良かったら中どうぞ」

・・・早口言葉かな?と思うくらいのスピードで一気に捲し立てた言葉に私は返事が出来なかった。彼はそんな私にお構い無しで店のドアを開けた。素直に従った。

閉店後の花屋は、花の数は少ないものの花屋独特の匂いがした。「ここどうぞ」と、彼は作業台のそばの丸椅子に促した。私は少しだけ頭を下げてそこに腰掛けた。

「・・・こんな時間までお仕事ですか?」

作業台の奥から何かを取り出そうとしていた彼が振り返り、ははっと笑った。

「あ、ごめんなさい。そうです。でも僕はここにいるのが好きなので、勝手にやってるだけです。」

・・・なんで笑ったの?と心の中で思った。

「お姉さんだって、こんな時間までお仕事だったんですよね?」と彼は笑った。あ、そうか、お互い「こんな時間まで」仕事してるのか。

「・・・そうですね」と私も笑った。

彼が作業台の奥の棚から取り出したのは、ミニブーケだった。

「・・・かわいい」

思わず言葉にしてしてしまい、慌てて口を噤んだ。彼は優しく微笑み、そのブーケの飾りを全て解いてバラバラにした。

勿体ない。と心の中で呟いた。

静かに彼の作業を見守ることにした。手際よく、器用に動くその指先をじっと見つめた。スピード感のある動きの中でも、花に対する優しさや丁寧さが垣間見られた。彼自身が、とても穏やかな気持ちで作業をしているのだろう。この場には暖かい空気が流れている。

「できた。はい、これ。今日のお詫びです。」

そう言って彼が小さなブーケを差し出した。先程バラバラにしたものよりも少し小さい。でもそこにはなかった白いガーベラが輝いて見えた。

「わぁ、かわいい。あ、でもお金払います!」

慌てて財布を取り出そうとすると、彼は微笑んで私の手を止めた。

「これはお詫びですから。受け取っていただけますか?」

この人の空気感に、完全に飲まれている。




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