見出し画像

書籍『ニュー・ダッド:あたらしい時代のあたらしいおっさん』

木津 毅 2022 筑摩書房

入院初日、真っ先に読んだのがこの本だ。
一章はずっと前に読んでいたのであるが、ようやくゆっくりと読む時間を持つことができたのだ。
読んでいて楽しくなるし、嬉しくなるし、心が優しくなって、にんげんが愛しくなるような、そういう人をハッピーにする本だと思う。

フェミニズムは、男性性を批判したり、男性的な文化や価値観を語る言葉はいっぱい持っているけれど、男性の魅力や理想像を語る言葉は少ない、と思う。
女性の魅力や理想像を語る言葉は、旧来のミソジニーなものは腐るほど溢れているし、それらへのカウンターとしてフェミニズムの中からも紡がれてきた。
見る性/見られる性なんて二分法があるけれど、それが性別に固定して振り分けてきたから、見られる性である女性を客体的に語る言葉は多いけれども、見る性である男性を客体としてどのように見るべきだろうか。

私が大学生だった頃、男性の身体がどのように性的に魅力的か、どのようにその魅力を味わうのかを教えてくれたのは、ゲイの人のエッセイだった。
それ以来、男性の魅力を見出すことにおいて、ゲイの人たちの眼差しが、私の先生である。
そんな風に思ってきたから、この本がTwitterのタイムラインに流れた時、買わなくちゃ、と思った。

時代を経るにしたがって、男性にとってどのような男性であることが適切であるのか、非常に難しくなってきていると思う。
多様性というのは、唯一のお手本をぽいっとしちゃうようなもので、間違いのない生き方をしようとすればするほど、戸惑うことになる。
多かれ少なかれ、これまでの伝統的で保守的で家父長制的な男性性を内在化しているものだし、そこを否定されると居心地が悪かったり、古き良きものに魅力を感じる心性だってあったりする。
それに、私だっておっさんが好きである。

そこで著者が打ち出してきた「ダッド」という概念が面白い。
著者は音楽や映画、ドラマなどに詳しい人であるので、いろんな作品を引き合いに出しながら、「おっさん=古いもの、いまの社会の悪しき土台を作ったもの」を超える男性像を示していく。
今、セクシーなのは鍛え上げた肉体ではなく、そこに年齢相応な「ちょっと脂肪が巻いているぐらいだからこそちょうどいい」(p.19)。
ですよね!?
まず、そこに食いつく。著者とがしっと握手をしたくなる。
私はヒゲと胸毛にはあんまり魅力を感じませんし、不健康になりすぎない程度の体重管理はできていたほうがいいとは思いますが、華奢すぎるのも苦手だし、かといって鍛え上げられすぎていても見て楽しいけど近寄りたくないわけで。
あんまり個人の性癖をひけらかすのは恥ずかしいのでやめておこう。

ともかく、そんなおっさん達の、強くあらねばの呪いに疲れ果てた末に、ようやく、痛みを抱えていたり、弱さを見せることができたりすることが取り上げられつつあることを、著者に教えてもらった。
ことに、それがパートナーシップの中ではなく、子どもとの関係で露呈していくところを、著者は着目しているように感じた。
仕事人間、あるいは、仕事に挫折したダメ人間であるために、子どもと疎遠になっていた男性が、子どもと関わる中で、より成熟した父性を持った人になりうる。
もちろん、著者は「実際に『父』になることが男としての理想であり、完成形だと思っているわけではまったくない」(p.82)。
「僕が『ダッド』という言葉を使って考えているのは、必ずしも子どもを実際に持つことでなくて、たぶん、より良い次世代への想像を働かせることだ」(p.87)という。
とても素敵で、読みながら私もわくわくした。自分も子どもを持つことがなかった人間であるが、次世代のためにできることを考えることは忘れずにいたい。

著者が素敵だと思った人たちを次々に紹介するものだから、素敵な言葉があちこちに出てくる。

誰かに抱えきれない罪があり、それに罰が与えられて解決するのではない。罪を抱えたままで、何も簡単に解決しない人生を生き続けるのだ。少しずつ、ほんの少しずつ良くなろうと、もがき苦しみながら。

pp.138−139

そこにはもう男性であるとか、女性であるとか、本当は関係ないのだと思う。
あらゆる立場を超えて、どのように対話を続けられるのだろうか。
どのように成熟していくことで優しくなれるだろうか。
そんな人間全体の話だった。

サポートありがとうございます。いただいたサポートは、お見舞いとしてありがたく大事に使わせていただきたいです。なによりも、お気持ちが嬉しいです。