セラピストたち
抗がん剤治療を受けるにあたり、前もって髪を切りに行ったとき、美容師さんはその時の私に必要な手技を行い、助言をくれ、勇気をくれたセラピストだった。
その人はセラピストを名乗っているわけではないし、そのように自分のことを考えていないだろう。
それでも、その時のその人との会話は、私にとってセラピューティックだった。
専門職は同業者という感覚が私にはある。
職業にかかわりなく、誰でも、どこかしら、なにかしら、セラピストになることがあるのではないか。
ほんの一瞬、いつか、どこか、誰かとの関わりが、セラピューティックに機能することがある。
特に、接客やサービス業は、人と接する仕事である以上、そういう機会は起きやすいだろう。
ただし、対人援助職ではない人の場合、そんな営みは無意図的に偶然に生じる。
対人援助職は、企図して行っている。その違いは大きいけれど。
6年前、腫瘍が再発した時の手術は、今回の再々発で受けた手術よりも大変だった。
痛みが大きく、身動きできない時間が長く、私は歩くことが苦手になった。
腹をかばって歩くうちに姿勢は崩れ、歩幅が小さくなり、筋力が落ちて、ますますふらつきやすくなった。
歩きづらいから、歩かない。それで、ますます、歩けなくなる、という、悪循環が起きていた。
それをなんとかしなければならないと思い、ハンドメイドでオーダーメイドの靴を作る職人さんのところに行ってみた。
「歩くことが楽しくなる靴をお願いしたい」と言うと、若い職人さんは笑顔で「もちろんです」と快諾してくれた。胸が温かくなったことを覚えている。
私の足型を取り、歩く癖を観察し、デザインを決めてくれた。
最後の仕上げのインソールの調整によって、歩きやすさがまったく変わった時にはびっくりして興奮した。
理学療法士と一緒に勉強会もするという人だった。
その人もまた、その時の私にとって、セラピストだった。
あるいは、あるホテルのレストラン。傷ついた気分になった時には、必ずといって行く店があった。
顔馴染みのホテルマンたちは、私が高いものは頼まない客だとわかっていても、いつも居心地よくしてくれた。
私や家族の好む席に案内してくれ、好きそうな料理を勧めてくれたり、待ち時間にささやかな楽しい会話の相手をしてくれたり。
彼らは、「あなたは大事な人(客)ですよ」という体験を提供してくれるスペシャリストだと思う。
大事な人ですよと扱ってもらう体験は、自分は大事にしてもらえる人なんだ、自分でも自分を大事にしてあげてよいのだと教えてくれたり、思い出させてくれるものだ。
傷ついた、やさぐれた気分の時というのは、自分が大事にされていないと感じた時と相場が決まっている。
だから、そういう大事にしてもらえることがわかっている場に行くことで、私の自己愛は修復され、エネルギーが充填され、また頑張ることができる。
とりわけ、悲しくてつらくてたまらなかった寒い日の、カフェ・コン・レーチェは忘れられない。
お店の名前が変わり、スタッフも随分と入れ替わり、好きな献立も消えたけれど、それでも、そういうお店をいくつか持っておくことは、なにがあるかわからない毎日を乗り切るために必要だ。
付け加えて、ホテルマンたちの接客の態度は、私としては見習う部分が多かった。
どうすれば、あなたは大事な人ですよと、言葉にせずに伝えることができるか。
どのようにすれば、大事にすることができるのか。
そういう仕草や振る舞いのレベルで、参考にさせてもらってきたことが多々ある。
あなたは大事な人である。そのことを体験してもらう。
対人援助職、心理職として、心がけていることの一つだ。
誰かにしてもらったことを、自分の力にして、ほかの誰かに返していく。それを恩送りというそうだ。
小説やミュージシャン、スポーツ選手たち。彼らは、一冊の本、一回のライブ、あるいは、一つのプレイで、いちどきに大勢の人を勇気づけたり、元気づけることができる。
そんな大掛かりの魔法は、うらやましいが、私には使うことはできない。
私が営むことは、もっとささやかで、ひっそりとしている。
目の前のただ一人に向かい合い、その人のために役立つような働きかけを探り、差し出すことだ。
それは、背中にそっと手を触れるような、かすかな支えでしかないかもしれない。その人の存在の重みすべてを支えるには足りない、頼りない支えでしかないかもしれない。
けれども、私の背中をいくつもの小説や音楽、幾人もの人たちの言葉が支えてくれているように、私の言葉もいくつかのうちの一つになれたらいいいと思う。
ほんの少しのぬくもりを、恩送りしていけたらいいなぁと思う。
これからも。
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(2020/1/23追記)最初に使っていた招き猫の後ろ姿の画像がいつの間にか使えなくなっていました。
そこで、ダラズさんという絵本を描いていらっしゃる方のイラストを使わせていただきました。
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