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病歴①:初発時のこと

腫瘍が私の持病となって、10年以上が経つ。
ある人が、がん患者はなんでこうなったかと後悔するということをツイートしていた。
私も後悔していることがある。腫瘍になったことは防ぎようがなかったかもしれないが、こんなに再発を繰り返す事態は避けられたのではないか。
自分自身の無知と臆病が、現状をもたらした。私はそう考えている。
だから、これまでの経緯を改めて文章にしておこうと思う。
誰かが、似たような状況になった時に、思い出してもらえると嬉しい。

卵巣は、内部を画像で診断することが難しいと教わったことがあった。
中には卵子という、これからどんなものにでも変化しうる細胞がたっぷりと入っている。
そこで異常事態が起こった場合、なかで何が発生しているか、わからない。
だから、卵巣の腫瘍は摘出することが基本であると教わった。未成年であろうと。
教わっていたはずだった。

12年前だったか。春頃だったと思う。
父が一度は行ってみたいというイタリアに、家族で旅行に行こうかと話し合っていた。行先は、ローマ、ヴェネツィア、フィレンツェ。旅程も決めて、宿も手配して、準備を進めていた。
その日、仕事中に腹痛がした。左下腹部。息が止まるような、腹を抱えてうずくまるような、激烈な痛みだった。
そこにある臓器は、大腸か卵巣と、素人頭で考えた。ストレスで過敏性腸症候群になることはこれまでもあったが、そういう下痢を伴うような痛みとは違っていた。排卵痛を何倍にもしたような痛みだった。
ほどなくして痛みは引いたが、私の職場は医療機関であるので、医師にひどい痛みがあったことを話した。
医師は真剣な顔で、今すぐ早退して救急病院に行くように言った。私が戸惑っていると、「救急車を呼ぶぞ」と言われた。
救急車を呼ぶか、今すぐタクシーで救急病院に行くか。
職場に救急車でお迎えに来てもらうなんて恥ずかしすぎる。
私は早退し、自分の運転で救急病院に行くことにした。

近所の救急病院で、腹部エコーをしてもらい、左側の卵巣が腫れていると指摘された。
日を改めて、近所の婦人科クリニックに受診。やっぱり左側の卵巣が腫れていた。
二週間、安静にするように言われた。

卵巣の大きさは、通常2-3cm。いわば、ウズラの卵。
私の卵巣は、この時、5cm程度に腫れていると指摘された。おおむね、ニワトリの卵。

安静にすることで、腫れがひいたらよいと言われて、仕事を休んだわけであるが、私は安静にしなかった。
家にいたら家にいたで、家事の手伝いや、家族の運転手役などをしてしまい、家族も気晴らしに外に誘い出したほうがいいと考えたらしく、積極的に外出してしまった。
私も家族も、医師の言う「安静」の意味を、正確に理解していなかった。
この頃、歩くたびに、ずきんずきんと腹部に痛みを感じていた。歩くスピードも距離も通常通りとはいかず、父のために企画していた海外旅行もキャンセルした。
二週間が経ち、再び婦人科クリニックに受診した時、卵巣の腫れは小さくなっていたが、正常のサイズには戻っていなかった。
ニワトリの卵が、烏骨鶏の卵ぐらいにはなったんだろうか。
それでも、腫れが一応は小さくなったので様子を見てくださいということになり、私も仕事に復帰した。

それから一年間、体調は安定せず、だましだまし過ごした。
上から自分の腹を見下ろせば、手のひらのくぼみにおさまるような膨らみが左側にあった。
痛みを感じることはしばしばあったが、私には危機感がなかった。
だから、一年後に再びひどい腹痛のために婦人科クリニックに受診した時も、休めばなんとかなるんだろうぐらいの軽い気持ちだった。
ところが、婦人科クリニックでは、「このまま入院してください」と言われた。「帰すわけにはいかない状態です」と。
卵巣は9cmを超える大きさに腫れていた。となると、ガチョウの卵?
急いで家族に連絡し、そのまま本当に入院になった。

手術を勧められたが、なかなか決断をつけられなかった。
ある民間病院では腹腔鏡手術が受けられるという。大学病院では開腹手術になるという。
どちらも手術である。手術というイメージそのものが怖くて、自分とは無関係のもののような、他人事ですませたいような、現実感のないものだった。
私が入院したのは木曜か金曜か、週の終わり掛けで、主治医とは月曜日に改めて話し合って決めましょうということになった。
主治医が休みの土曜日、他の医師が丁寧に診察してくれた上で、卵巣が破れて出血が始まっており、そのクリニックではどうにもできない、今すぐ手術を受けたほうがいい状態であると言われた。
それでも、私は決めかねた。主治医との打ち合わせをどうしたらよいのか、わからなかった。

そして、日曜の夜、激痛で目が覚めた。目の前に星が飛び散るというのは、こういうことか、と思った激痛だった。
私の卵巣がついに破裂したのだった。
それまで遠慮していたナースコールを初めて使ったと思う。
鎮痛剤を注射してもらいながら、朝まで様子を見ることになった。
30分ごとに血圧や心拍数を図るように機械が設定されて、そのたびに細い紙に印字されて、夜明けまでにその紙が切れてしまったのを覚えている。
朝になり、床にとぐろをまいた紙のテープに、医師か看護師かが驚いていた。

クリニックから病院へ、主治医が付き添って救急搬送された。
転院後の治療や診断に関わるからと、鎮痛剤は使わないと説明された。
救急車と共に家族が呼ばれたが、もしもの時に注射するために、医師が同乗したのだったと憶えている。
自力歩行ができず、布製の担架ごとキャスターに乗せられて診察室まで運ばれた。
身体を横にすると、横隔膜のあたりがあぶられるように痛んだ。実際に体液が触れることで、炎症を起こすからだ。
痛くて痛くて泣き叫ぶほどだった。恥ずかしいと言っていられないほど、痛かった。
MRIの時が一番つらかった。
あんまり痛くて、麻酔をしてもらった時にはほっとした。「すごーい」と思わず言った気がする。そのまますぐに意識をなくしたが、麻酔医がこの日、一番かっこよかったと思っている。

救急搬送からの緊急手術。卵巣が破裂してしまっていたので、腹腔鏡手術を受けることができた。
卵巣が腫れたままでは、開腹手術ではないと摘出できなかっただろう。
体内で1リットル近く出血していたという。その意味を、数ヶ月後に健康診断を受けたときに内科医に「よく死ななかったね」と言われるまで、私はわかっていなかった。

この時の入院は一週間ぐらいだったと思う。
手術というイメージから裏腹に、腹腔鏡手術は身体のダメージは少なかった。
1cmほどの小さな傷が3つか4つ。今見ると、跡もわからない。
貧血がひどくて退院後もしばらく自宅療養したが、手術って意外と楽だと勘違いをした。

退院後に、一度、手術を受けた病院に受診し、説明を受けた。
体内は水洗いしたから大丈夫、と。
フォローは近医でよいと言われて、そこでの診療はそれで終わりになった。

その後、それまで通っていた婦人科クリニックに行ってみたが、そこでは腹部エコーはできるがCTはなく、手術をした病院からの診療情報提供書があったわけでもなかったので、定期的なフォローを求められても困ると遠回しに言われた。
それに、産科の患者さんが多い場所だったので、私も待合室の居心地が悪かった。
それで、なんとなく、行かなくなった。

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