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病歴⑦:抗がん剤治療に向けて

前回の記事に書き忘れたが、退院前の術後治療についての話し合いの場で、医師からは抗がん剤の作用と副作用の説明と、抗がん剤では腫瘍は減らせるが消えないことも説明された。
抗がん剤がどんな風に作用するのかと言えば、その時の説明を覚えている通りに書くが、細胞分裂が活発な場所に作用するのだそうだ。細胞分裂が活発な場所は3か所。1つはがん細胞、2つ目は毛根、そして、3つ目に骨髄である。
がん細胞の細胞分裂を、抗がん剤は邪魔して、遅らせる。そういう追いかけっこをする。しかし、それはがん細胞を殲滅することではない。
だから、大きな副作用としては、髪が抜ける。赤血球や白血球の減少が起きる。血液の状態が悪くなれば、輸血が必要になることがあるという。また、神経障害もメジャーな副作用である。
その場では、髪が抜けることのほうが意識に残った。

私が入院していたフロアでは、給湯器が置かれて、見舞いの家族と過ごせるようなちょっとしたスペースがあった。
そこには、医療用ウィッグのパンフレットや、ネイルケアの見本などが置かれていた。
早速、そこのパンフレットを一通りもらってきたものの、開いていると気分がますます沈みこみ、情報がちっとも頭に入らなかった。
アッシュブロンドのショートとか、シルバーのボブとか、そういうのならまだしも……。
今は考えなくてよいのではないかとパートナーに止めてもらったことを憶えている。

その翌日、私は一旦、退院した。
開腹手術のための入院が、11日間。
私は短くてびっくりした。前回の手術の時は3週間ぐらいの入院だったし、それでも早いと言われたのに。2か月ぐらい入院するものじゃないかと言われたりもしたのに。
予定通りの11日間。次の週には抗がん剤治療の初回のために再び入院するのだから、ずっと入院させてくれてもいいんじゃないかと思ったりしたが、容赦なく退院の運びとなった。
安納芋のスペシャルポタージュや、紅玉リンゴのスペシャルスープを食べそびれたことが、とても残念だった。

退院したその翌日に、私は行きつけの美容院に行き、髪を切ってもらった。
この時のことは、まさにその日に記事を書いているので、そちらを読んでもらうほうが臨場感があると思う。

自分でも読み返してみたが、その時、その場で書いたものに、付け加えることは難しいなぁ。
この記事が『セラピストたち』という記事のもとになっているし、この一連の病歴を書いてみようと思ったもとになっている。
手術して間もない頃だったので、自分で運転して街中まで出かけて行ったのだが、シートベルトを締めるのも、駐車場から美容院まで歩くのも、結構、気合と根性だった。
我ながら、よくやった。さすが、無謀自慢。

この時のアドバイスで覚えているのは、医療用ウィッグを扱う店舗は、店舗なのである程度の在庫があること。
だから、前もって予約したりしなくても、必要を感じた時に行けばよい、ということ。
また、髪が抜ける前にウィッグを購入した場合、髪が抜けてしまうと逆にフィットしなくなるので、抜けてからでよいのではないか、と教えてもらった。
餅は餅屋とはよくいったもので、具体的な情報をもらえたことは随分と心強かった。

この美容院に行けたことのほかにも、退院できてよかったことがある。
ひとつは久しぶりに我が家の猫たちを撫でられたこと。彼らとのんびりと過ごす時間は、自宅療養だからこそ、満喫することができている。
もうひとつは、やっとぐっすり眠れたことだ。退院してきたその晩も、その後も、こんこんと眠った。いつもの不眠がどこかに行ったように眠った。
もともと不眠がちであったから気にしていなかったが、入院中は、やはり緊張していたのだろう。
病気と治療への不安もあった。未来への不安もあった。横になれば考え事をしてしまうので、0時になるまではスマホで何度も同じ読みなれた好きな小説を読んだり、TwitterのTLを追いかけて、頭をいっぱいにして考えないようにしていた。
0時を過ぎたら睡眠薬を使い、とりあえずは入眠し、6時には廊下がにぎやかになるから覚醒、離床。
冬場ということもあり、夜明けを毎日のように見ることができた。

退院して5日後には再び入院することになっていた。
近づくにつれて、不安や緊張が高まっていった。
抗がん剤というものに、怖いイメージしかなかったのだ。

私がこの一連の病歴を書くときに、二人の伯母が出てくる。
一人は、私より先駆けること数か月、2019年に婦人科がんで手術と抗がん剤治療を受けた人。
もう一人は20年前に、乳がんを経て、胃がんになり、余命半年ともたずに死亡した人。
この後者の伯母は、抗がん剤治療を受けていたがそのつらさにギブアップした。
とても我慢強い人であったから、そう言えば、当時の抗がん剤治療は入院して行われていたのであったのだけども、周りの人の気持ちを考えて、つらいと言い出せずにいた。
それを聞き出したのは私で、私が今の仕事を選ぶ背中を押すような体験となったわけであるが、もう嫌だと医師たちに伝えるために、点滴を自分で抜いてみせたという。
なかなかの度胸の人でもあった。
そして、それぐらい怖くてつらくてしんどいもの、という印象が、抗がん剤に伴うようになった。

私自身は、その怖くてつらくてしんどいものに、どのように取り組めばいいのか。
怖くて怖くてたまらなかった。
安定剤や抗うつ薬、睡眠薬。手持ちの薬を総動員で、再度の入院に臨んだ。

 *****

NHKで「心の傷を癒すということ」というドラマを観ていた。
主人公は2000年にがんを発症し、抗がん剤治療をいったんは受ける。当時の抗がん剤治療は、とてもつらいものだった。命がけですると言われるぐらいのつらさだった。
伯母と同時期の話で、思い出さずにいられなかった。
私の親戚や職場の上司にも、通院で抗がん剤治療を受けていること、短時間ながら復職していることに驚かれた。彼らは、その頃の抗がん剤治療のつらさを知っている人たちだから、なおさらなのだろう。
ありがたいことに、だから、現在も私への要求水準は低く、とにかく自分第一でいいと言ってもらえる。
抗がん剤治療は、この20年で進化しているのだ。薬剤そのものの進化もあると思うのだが、様々な副作用に対して、どう対処すればよいか、知見が積み重ねられ、進化しているのだ。
私が今、しんどいけれどもやり過ごすことができているのは、亡くなった伯母をはじめとする数多くの先輩たちの経験が活かされている。
私は多くの方に、支えられ、守られ、生かされている。

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