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空き家の子供 第4章 過去・夏(2)

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第4章 過去・夏(2)

 聡子が絵を描く準備をする間、慶太はポケットに手を突っ込んでうろうろし、空き家の様子を眺めていた。
「なんかここ、くせーなあ」と慶太は言った。ぷらぷらと歩き、近くにあった石の筒を覗き込む。井戸のようだ。
 井戸に向かって、慶太は「あーっ!」と大声をあげた。反響させようとしたようだが、思ったほどの効果はなかったようだ。つまらなそうに、井戸から離れる。
「どっかに死体でもあるんじゃないか?」と慶太は言った。
「やめてよ」
 ぞっとして、聡子は振り返った。
「これは草の匂いよ。それに、たぶん木の実の匂い。ここでは、熟しても収穫する人がいないからね」
「ああ……そうかなあ」
 そう言ったものの、どこかに野良猫の死骸くらいあるかもしれない、と聡子は思った。不用意に藪の中に踏み込まないようにしなければ。
「でもさあ、幽霊はいるはずだぜ」
 そういえば、抜け穴の話を聞いた時、慶太たちはここが心霊スポットだという話をしていたのだった。
「聞きたくないよ。やめて」
「友達の山崎って奴の話だけど……」
「知らないよ。やめてってば」
 聡子が嫌がれば嫌がるほど、慶太は面白がって話を始めた。
 聡子は溜め息を吐いた。まったく男子ってものは、いつもこうだ。

 慶太の友達の山崎という奴の、中学生の兄貴の話だ。
 雑種犬ムックの首輪にリードをつけて、糞を持ち帰るための小袋を片手に持ち、午後八時過ぎ、山崎の兄の方、隆史は勝手口から外に出た。ムックは嬉しそうに激しく彼を引っ張った。
 犬の散歩は兄の役目、というのが彼らの家の絶対的ルールだったが、隆史はいつも面倒臭くて仕方がなかった。その夜もこっそり弟に押し付けようとして、バレて父親にどやされる……といういつものパターンを経た後だった。
 雨が降ろうが雪が降ろうが、明日試験でも宿題がまだでも、朝晩の散歩は隆史の役目と決まっていた。小さい頃、犬を飼って欲しいとねだったのは隆史で、絶対に散歩に行くからという約束で飼ったのだから、それを破ることは許さない。というのが父親の言い分だった。弟が約束をしなかったのはその頃まだ赤ん坊だったからで、それだけの理由で散歩を免除されるなんて不公平だ……と隆史は主張したが、取り合ってもらえなかった。
 子犬の頃はころころしてかわいかったムックは、近頃はすっかり大きくなって、まるで隆史の言うことを聞かない。はあはあ舌を出しながら、嬉しそうに走っていくが、隆史の行きたい方向にはまるで向いてくれなくて、マイペースに行きたい方向に向かっていく。ぐいぐいリードを引っ張るムックに抵抗するのも面倒で、隆史はうんざりしながら犬の後ろについていった。
 気がつけば、隆史とムックは空き家のある路地に来ていた。角の家の向こうに盛り上がった大木の影。月の昇った夜空をバックに、黒い雲のようにそびえていた。
 いつもなら、路地には入らない。この先の通りまで回っていくのがいつものコースだ。だが隆史は早く散歩を終わらせて、帰ってテレビを見たかった。ショートカットのつもりで、隆史はムックを路地へと引っ張った。
 路地の角には常夜灯があって、数匹の蛾が光に群がり、電灯にバタバタとぶつかっていた。その先の路地には明かりもなく、木の陰に覆われて月の光さえ届かない。ずっと機嫌よく走ってきたムックは、路地に入って少し進むと、あまりの暗さにたじろいだのか、歩みを止めた。
「なんだよ。おい、行くぞ!」
 空き家の門の少し手前、崩れそうな板塀の前。後ろの常夜灯の光も、前方のアパートの灯りも届かない、ちょうどいちばん闇が濃いあたり。そこでムックは立ち止まってしまった。何か見えているように空き家の塀の方をじっと見つめ、引っ張っても前へ進もうとしなかった。
「なんだよ、なんで止まっちゃうんだよ?」
 隆史は力いっぱいリードを引いたが、ムックは踏ん張って動かない。
「早く帰ってテレビ見たいんだよ。さ、行くぞ!」
 それでもムックが動かないので、隆史はうんざりした。引っ張るのを止めて、ムックが見つめている塀の隙間に目を向けた。
 古い家ばかりのこのあたりだが、中でも空き家は特に古い。板塀は黒く煤けてささくれ立ち、長年の雨水を吸って、木目と違う奇妙な黒い染みの模様が、板の表面に現れていた。
 隙間の向こうには生い茂った雑草の草むらが見えた。庭の暗がりからは、コオロギなどの鳴く虫の声がひっきりなしに聞こえていた。なんとなく、隆史は耳を澄ましていた。そうしたら、聞こえた。
 いーれーてー……
 あーそーぼー……
 子供の声だ。女の子の声……。
 声自体は、変なものじゃない。普通に、女の子が友達に呼びかける声だ。だが、この夜のひと気のない路地、住む人もない空き家の前では、これはあまりにも不自然だった。
 それとも、幻聴だろうか。音を立てないようにじっとして、隆史はもう一度耳を澄ました。
 いーれーてー……
 あーそーぼー……
 また聞こえた。今度ははっきり、塀の隙間の向こうからだ。つまり、空き家の敷地の中のどこかから。
 隆史はぞっとした。そんなこと、あり得ない。誰か子供が空き家に忍び込んで、遊んでる? そんな馬鹿な。塀の隙間から見える、空き家の敷地は真っ暗だ。こんな暗闇の中で平気で遊ぶ子供なんている訳ないし、いるとしたらそれは。
 いーれーてー……
 声が少しずつ近づいている、今や塀の向こう側すぐのところまでやって来ている、ということに気づいて、隆史はムックのリードを思い切り引いて走り出した。幸いにも、今度はムックもついてきてくれた。土の道を抜け、アパートの前も抜けて、後ろも一切見ずに隆史はムックを引っ張って走って逃げた。
 ムックのウンコもそこそこに、隆史は家までの道を走り通しに走った。

 慶太は得意げに話を終えたが、聡子があんまり聞いていないのに気づくと「ちぇっ」と舌打ちして離れていった。聡子は絵を描く場所を決め、バッグを開けて2Bの鉛筆を取り出していた。
「おい、幽霊が出るかもしれないぞ!」と慶太は言った。
「いいよ、別に」
「なんだよ、怖くないのか?」
「別に」
 聡子は上の空だった。バッグを閉じて地面に立てて置き、自分はその上に腰掛ける。スケッチブックを開いて膝の上に置いた。
「おい」
 聡子が答えないので、慶太はもう一度、「おい、平井ってば」と言った。
「なに?」
「俺は行くよ。もういいんだろ?」
「うん、いいよ。抜け道を教えてくれてありがとうね」
 ちらっとだけ振り向いてすぐまた向き直り、聡子は空き家をじっと見つめた。
 慶太はまだポケットに手を突っ込んで、眺めていた。
「あのさあ」と慶太は言った。
「なに?」
「誰かに見つからないように気をつけろよ。見つかったら、俺が怒られるんだからな」
「うん、気をつける」
「路地の方にはあんまり近づくなよ。それと、そっちの明るいところはアパートの二階から見えるから行くな」
「わかった」
「帰る時は、板を立てかけて穴を隠すんだぞ。見つかったら、塞がれちゃうかもしれないからな」
「うん」
 聡子は鉛筆を走らせていった。もう慶太の方が見もしない。
「お前、本当に変わってんな」
 聡子は答えなかった。集中しているその横顔をしばらく眺め、やがて慶太は戻っていった。

 聡子は時間を忘れていた。鉛筆で、木々に囲まれた空き家の風景をほぼスケッチし終わっていた。次は絵の具を使って描いてみたい……と思ったところで、絵の具を溶くための水がないことに気づいた。我に返り、スケッチブックを膝から下ろして地面に置いて、うーんと伸びをする。ずっと同じ姿勢でいたので、体が固くなっていた。
 立ち上がって、こわばった腕を伸ばす。同時に、プーンと音を立ててまとわりつく蚊を叩いた。これだけ藪が多くては当たり前だが、この場所は蚊が多かった。顔も腕も足も、既にあちこち刺されてしまった。蚊に刺されることも厭わずに、絵に没頭していたのだ。
 聡子は腕をボリボリと掻いた。次に来る時は、スプレーか蚊取り線香が必須だろう。
 きょろきょろと辺りを見回して、聡子は水を汲める場所がないか探した。まず、井戸に近づいていく。覗き込んでみたが、水面はあるとしてもずっと深いところにあるようで、暗闇しか見えなかった。本来ならあるはずの、水を汲み上げるポンプのような設備も見当たらない。井戸を離れ空き家の方に近づいて、家の周りを探してみる。
 じきに、地面から突き出した水道の散水柱を見つけた。喜んで蛇口を捻ってみたが、一滴の水も出ない。それはそうだ、水が出る状態である訳はない。
 どうしよう。慶太のところで借りようか。ペットボトルを持って来ればよかった。聡子は思いを巡らせ、それにしても今は何時だろうと思った。
 スケッチに没頭して、すっかり時間を忘れていた。時計は持っていないし、ここには当然時間がわかるものなんてない。陽はほぼ真上にあるが、既にお昼はかなり過ぎているようだ。
 太陽を見上げると、聡子はふらついた。よろけて、倒れそうになったがなんとか踏み止まる。考えてみれば、夏の日中に水も飲まず、休憩もせず絵に集中していた。楠の木陰のおかげで直射日光は浴びていないが、それでも熱射病かもしれない。
 聡子が恐れたのは、病気になったり倒れたりして、ここに来たことがバレてしまうことだった。まだまだ描きたい絵はたくさんあるのだ。ここに来られなくなったら大変だ。続きはまた明日……大丈夫、夏休みはまだまだ長いのだから。
 絵は切り上げることに決めた聡子だが、なんとなく立ち去り難く、建物の近くにぶらぶらと寄っていった。
 干上がった散水柱の向こうに、平屋の部分が横に長く続いていた。庭に沿った一面は縁側になるのだと思われたが、今はすべて雨戸が閉められている。
 家全体が屋根の重みに耐えられずひしゃげていたので、雨戸と雨戸の間には隙間が空いていた。入っていけるほどの隙間ではない。隙間を覗き込んでみてもただ暗闇があるだけで、家の中の様子はまるで見えなかった。
 雨戸の横には勝手口と思われる扉があった。台所に通じているのかもしれない。あまり頑丈そうでない木の扉で、表面の板が剥がれて反り返っていた。掛け金には大きな南京錠がかかっていた。
 勝手口より先の壁際には、古い板や木箱、空き瓶の入ったケースなどが乱雑に積まれていた。ずいぶん古そうなビール瓶やジュースの瓶がある。割れたガラスも草の中に散らばっていて、危なっかしくて近寄れなかった。壁には格子の入った窓があり、中を覗いてみたかったが、そばまで寄ることができなかった。
 セミは鳴き続けていた。草むらを歩くと、たくさんのバッタが驚いて飛び跳ねて逃げていった。小さな生命の気配は無数にあったが、空き家が発しているのは、それを上回る大きな不在の感覚だった。
 あるべきものが、ないという感覚。家なら人が住んでいるはずなのに、誰もいない。誰もいないまま何年も、時間だけが積み重なっている。
 聡子はふと、自分がこの空き家に惹かれる理由がわかった気がした。ここでなら、あるはずのものがない「不在」であるとか、ただ無言で積み重なった「時間」のような、形のないものが絵に描けるかもしれない。難しくて、とても人には説明できそうになかったけれど。
 ゴミが散らばったあたりから先、藪は更に深さを増していた。完全につる草に覆われた立体物が庭にあり、いったいそれがなんなのか、聡子はしばらく首をひねった。やがて、おそらく物干し台らしいと思い当たった。元となる台や竿は完全に緑に覆われてしまって、正体不明のオブジェみたいになっていた。
 平屋の建物はそこで直角に折れて、奥へと続いていた。裏側には、家に沿って木材を組んだ庇が取り付けられ、トタンの波板が屋根として渡してあった。この囲いのおかげで、このあたりでは家も緑の侵食を免れているようだ。その代わりに、庇にはつる草がしっかりと絡みついていた。這い上がる緑が視界を遮り、トタン屋根の下はひどく暗く沈んでいた。
 家と庇、それに草木が作る暗いトンネルを、聡子は覗き込んだ。暗くて、目がチカチカするみたい。暗がりをじっと見ていると、家の中から、声が聞こえた。
 微かな声。聞こえるか聞こえないかの、ギリギリの声。ほとんど気のせいかと思ってしまいそうな。だが、確かに聞こえた気がした。
 それはたぶん、子供の声だった。子供が、遊んで欲しくて呼びかける声。
 いーれーてー……
 あーそーぼー……
 まさか。
 聡子は首を傾げた。慶太の話なんて怖くないと言っていたけど、実はめいっぱい影響されていたのだろうか。話に出てきたのと、同じ声を聞いてしまうなんて。
 それとも、どこか遠くから聞こえた本当の声だろうか。通りで遊んでいる子供の声が、風向きの加減か何かで、空き家からのように聞こえたのか。
 そこにじっとして、聡子は耳を澄ました。しばらく待っていたが、セミの声以外には何も聞こえない。
 急にそこにいるのが怖くなってきて、聡子はあたふたとその場を離れた。
 物干し台の横を通り、元の場所に戻っていく。楠の木の根元に置かれた、画材のバッグやスケッチブックを目にすると、聡子はなんとなく安心した。現実と接点のある場所に、戻ってこれた気がした。そうしてみるとまだ帰るのはもったいないと思えて、聡子は今度は洋館の方へ向かっていった。
 洋館の正面の入り口に向けて、レンガを組んで作った数段の階段があった。聡子はそこを登って、ボロボロの木戸の残骸越しに、中を覗き込んだ。
 部屋の中には、家具や調度の類いは何も残ってはいない。落ち葉が大量に床に入り込み、外の地面と変わらないような様相になっている。ただ、いくらか残った壁紙の模様だけが、そこが快適な洋間であった頃を忍ばせた。壁紙は花の模様だった。外から侵入してきた本物のつる草がその上を這って、人工と自然が拮抗しているようだった。聡子の見る限り、自然の勝ちは揺るぎないものに見えた。
 木戸の側に立って、聡子は更に奥の暗がりに目を凝らした。木の影の隙間から届く光は奥まで照らさず、部屋の半ばより深いところは暗闇に近い。奥の壁に、重厚そうな木の扉があるのが辛うじて見えた。完全には閉ざされず、僅かな隙間が開いている。隙間の向こうは、それこそまったくの暗闇だ。あそこから更に奥へ、雨戸に閉ざされた日本家屋の部分にも入っていけるのだろう。洋風と和風の繋ぎ目の部分は、どんなふうになっているのだろう。行って、ちょっと覗くだけでもやってみようか……聡子がそう思って体を浮かしかけた時、
 ズシン、と奥から音が響いた。
 聡子はドキドキしながら、そっと耳をそばだてた。息を殺して、耳に意識を集中したが、音はそれ以上は聞こえてこなかった。
 何の音だろう。何か、重いものが落ちたような音だった。どこか空き家の奥の方で、積まれたガラクタか何かが落ちたのだろう。ただ単に、自然に。それだけのことだろう。
 だが聡子は、閉ざされた暗闇の中で蠢いている何者かのことを、想像せずにはいられなかった。
 自然と、また聡子はさっきの慶太の話を思い出した。さっき聞いた時は馬鹿馬鹿しく思えて、話半分にしか聞いていなかったけれど、今この暗がりの中に立ってみると、ずいぶんリアルな話だった気がするのだった。
 さっき聞こえたように思えた子供の声と、関係があるのだろうか?
 ドアの向こうの闇を、聡子は見つめた。
 闇の奥から、また声が聞こえてきた。
 いーれーてー……
 あーそーぼー……
 女の子の声だ。間違いじゃない。
 気のせいじゃない。確かに、聞こえた。
 このドアの向こう、暗闇の奥から聞こえたのだ。
 もうずっと日の光を浴びたこともない閉ざされた闇の中に、子供がいる。生身の子供であるはずがない。
 つまり、幽霊だということだ。
 自分自身の連想に、聡子はぞっとした。
 闇に目を凝らす。何も見えないが、何か風が動いた気がする。闇のずっと奥の方で、何かが動く気配。
 今度は、ミシリ、と音がした。たぶん床板が軋む音だ。続いてまたミシリ。明らかに空き家の奥から聞こえる。何かが歩いている。
 近づいてくる。
 くるりと後ろを向いて、聡子は逃げ出した。
 楠の根元まで走って逃げて、慌てて画材を拾い集める。ちらちらと洋館の入り口に目をやった。今にも、聡子を追って何かが闇から出てくるような。早く、早く。掴んだ鉛筆が汗で滑り、木の根の間にはまり込んだ。焦って指を突っ込むが、なかなか上手く掴めない……。
 その時に、何かが格子戸の隙間を抜けて飛び出してきた。何か小さなすばしこいもの、白と黒のしなやかな毛玉。
 猫だった。聡子は、全身の力が抜けるのを感じた。
 猫はレンガの階段を悠々と降りてきて、聡子に気づくとじっと睨んで、にゃーおと小さな声で鳴いた。
「なーんだ」と聡子は声に出して言った。「脅かさないでよね」
 猫はまた風のように走り去った。草薮に飛び込み、ガサガサとあちこちの草を揺らす音を立てながら、やがてどこかに見えなくなった。
 考えてみれば、空き家に入り込んで音を立てるのは猫に決まってる。得体の知れない怖いものを思い浮かべる前に、当然猫だと思い当たるべきだったのだ。だが、ついさっきに感じた恐怖は強烈で、嫌な汗をいっぱいかいていたし、まだ心臓が激しく跳ねていた。
 それに、あの声。あの声も、猫の鳴き声を聞き違えたなんてことがあるだろうか?
 どうにか落ち着きを取り戻し、聡子はスケッチブックを取り上げた。今日の成果のスケッチを眺める。張り出した葉陰の向こうに佇む、崩れかかった空き家の姿が、なかなかいい感じに描き留められていた。
 聡子は満足した。これから毎日ここへ来てたくさん描けば、もっともっといい絵が描けるだろうと思えた。
 今はまだ、古く汚い廃屋の絵でしかない。でも、もう少し上手に描ければ、薄汚れた外見の影に隠れたきれいさを、聡子が感じているこの感じを、絵にすることができるだろう……。
 絵の細かい部分をチェックしていて、聡子はふと目を留めた。洋館の二階の窓のところ。聡子は、窓の向こうに影を描き込んでいた。現実の、目の前の洋館と見比べる。二階の窓に目を凝らしたが、絵に描いた影に当たるものは見当たらなかった。
 これはなんだろう。私は何を描いたんだろう。
 光線の具合か何かで、ちょうどこの部分を描いた時にだけ、こんな影ができていたんだろうか。
 だが……影は人影に見えた。二階の窓から、聡子の方を見下ろす人の姿に見えた。
 それも、子供の人影だ。
 いーれーてー……あーそーぼー……さっきの声が、耳の中で再生された。
 聡子はバッグを掴み、スケッチブックを閉じて、塀の穴に向けて駆け出した。

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