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空き家の子供 第21章(終章) 現在・春

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終章 現在・春

 そして十五年が過ぎ、私は今も聡子の体の中にいた。
 新しい空き家になった我が家の前で、私はしばらく放心状態だった。肺が落ち着き、鼻血が止まるのを待ってから、私は携帯でタクシーを呼んだ。タクシーが着くと、杖を失った私は這いずりながら植え込みの影から現れた。タクシーの運転手は幽霊でも見たような顔をしたけれど、落ち着きを取り戻すと私が乗り込むのを手伝ってくれた。
 タクシーの窓から、最後に私は空き家を眺めた。あの子が……聡子が、そこから出て来ようとする気配はなかった。出るつもりもないのだろう。あの子は、自分の家に帰ったのだから。
 おばあちゃんも、お父さんもお母さんも、そしておうちも、聡子はみんな取り戻した。聡子にとって、こんなに満足なことはないはずだ。
 ハッピーエンドだ。安心して、私は空き家を後にした。

 心配事から自由になって、穏やかな時が過ぎていった。この解放感はあの時と同じだ。聡子を空き家に閉じ込めて、聡子の体を手に入れたあの時。暗いカビ臭い闇を後にして、明るい日差しの中で私の人生は始まった。十五年を経て空き家が壊され、聡子が外に出てきてしまったけれど、今回もまた私の方が上だった。
 私は笑った。心の底から笑いが溢れた。ニコニコ笑いながら道を歩くと、知らない人が私を見て微笑みを浮かべる。軽く会釈をする人もいた。
 少しずつ寒さが緩む三月の​通りを、私は新しい杖をついて軽快に歩いた。リハビリのために毎日たくさん歩くことを奨励されていたが、それも苦にならない。マンションを出て川沿いの道を行き、いくつもの橋を越えていく。川沿いは桜並木になっていて、日々つぼみがほころんでいく。私は毎日、長い時間歩いた。
 病院では、澤田さんが私の回復ぶりに驚きを見せた。
「すごいですね!」と澤田さんは言った。「驚異的な回復ぶりですよ。毎日リハビリ頑張りましたね。辛くなかったですか?」
「あ、辛くなかったです。むしろ、少しずつ体のコントロールが効くようになっていくのがゲームみたいで、楽しくて」
「最初のうちは、まるで自分の体じゃないみたいに思えるんですよね。それがだんだん、自分の体になっていく」
「そうです、そうです」私は笑った。「他人の体に入ったみたいで。そういうの、私結構得意みたいです」
「そんなの得意な人います?」と澤田さんも笑う。
「得意なんですよね、それが」と私も笑いが止まらなくなる。
 二人してひとしきり大笑いして、周りの看護士さんたちもつられて笑い、診察室は楽しいムードに包まれた。
 杖も必要なくなった。退院後に復帰した仕事はずっとリモートワークにしていたが、久しぶりに会社にも出かけていった。職場の人たちははじめのうち、私への接し方を測りかねている様子だった。何しろ、全国ニュースになる悲劇の主人公なのだから仕方がない。だが私が終始明るい態度なので、すぐにわだかまりはなくなった。たぶん私は、事故以前よりよっぽど人当たりのいい人物になれていたと思う。
 いろんなきっかけで人は変わる。事故で死にかけても、幽霊に追いかけ回されても、それが良い変化のきっかけになることもある。いつになく、私はプラス思考になっていた。
 職場の同僚の中では、大塚がいちばんぎこちない感じだった。変に意識して、私と目を合わせようとしない。何だよ……と思っていたら、食事に誘われた。
 珍しくいつもの居酒屋ではなく、洒落たレストランを大塚は用意した。ずっと落ち着かないし、お酒のピッチも早い。何だ何だ……と思っていたら、コーヒーが運ばれたところでプロポーズされた。
「きみには、家族が必要だと思うんだ」と大塚は言った。「きみは家族を失ってしまったけれど、決して一人ぼっちじゃない。僕が支えるよ。一緒に、新しい家族を作っていこう」
 家族。家族が必要だなんて、私は思ってもいなかった。家族なんて、私にとっては呪わしいものでしかない。暗い奥座敷で待っていて、私にお仕置きをする父親。逃げる私を捕まえて、父親の元へ連れていく母親。それが私の家族だった。そんなもの、欲しいとは思わない。
 聡子の家族もいた。私が聡子から引き継いだ父親と母親、それに祖母。彼らにしたって、私は怪しまれないために一緒にいたに過ぎない。愛着なんてない。聡子は彼らを欲しがって連れて行ってしまったが、私にとってはそれはどうでもいいことだった。私には家族なんて必要ないのだ。
 私は大塚を見た。心細げな顔をして、私の返事を待っている。さて、どうしようか。
「そう言ってくれて、ありがとう」と私は言った。「でも、私はたぶん、家族はいらないと思うんだ」
 大塚は戸惑っている。「えっと、それはつまり……どういうこと?」
「結婚はできないということ。今はね。先のことはわからないけど。人は、いろんなきっかけで変わるものだから」
 周囲のお客さんやウエイターから、溜め息が一斉に聞こえた気がした。
 大塚は複雑な表情をしていたが、「でもそれは、ダメではないってことだよね?」と前向き思考で帰って行った。
 慶太は電話をかけてきた。彼は私に「それで、どっちなんだ?」と聞いた。
「どっち?」
「平井聡子か。空き家の幽霊か。今のお前は、どっちなんだよ」
 私は笑った。
「私は聡子よ。あなたのおかげで、元の体を取り戻せたの。私に会いたい? 懐かしの聡子ちゃんに会って、抱きしめたいんじゃないの?」
 電話口から、慶太の舌打ちの音が聞こえた。
「おい、ふざけるなよ……」
「こっちのセリフよ。あんなことをしておいて、よく電話なんかできるわね。もし本当に会いに来たら、ぶっ殺してやるから」
 私は電話を切った。電話を切ってから私はふと、慶太はこの先もずっとあの町にいて、空き家を見張っていくのだろうな、と思った。まるで墓守みたいに。
 そう考えると、また晴れやかな気分になった。

 それでも時々、私は慶太の言ったことについて、考えることがあった。
 暗示かもしれないと、慶太は言った。十一歳の多感な少女が、空き家の空気に影響されて、不幸に死んだ少女の幽霊の存在を、ありありと思い描き過ぎただけかもしれない。
 もしそうなら、私はやっぱり、最初から変わらず平井聡子のままであって。
 空き家の子供と入れ替わったと、思い込んでしまっただけかもしれない。空き家から出てきて私を追いかけ回した存在も、私の想像が生み出した影に過ぎないのだとしたら……。
 そんなふうに考えていくと、まるで自分の立っている地面がぐらぐらと崩れていくような、世界が溶けていくような不安に囚われてしまう。
 だがすぐに、私はそんな考えを振り払う。考えても仕方がないことだ。
 少女の頃の私の記憶。それは遠くに流れ去り、今では何が本当だったか、正確に思い出すこともできなくなっていたのだから。

 穏やかな春の日々は、早朝の訪問者によって断ち切られた。
「平井聡子さんですね?」と二人組のスーツの男たちは言った。「西警察署の者です。実は、平井さんに詳しくお聞きしたいことがあるのです。署までご同行願えますか?」
「でも、これから仕事に行かないと……」
「申し訳ありませんが、お休みの連絡を入れて頂く必要があります」
「そんな、急に言われても。何の用事かも言わずに、失礼じゃないですか?」
「用事はこれです」
 刑事の一人が手に持っていたタブレットの画面を見せてきた。それは、走る車を正面から捉えた動画だ。画質はよくないが、それが自分たちの姿であることはわかる。見覚えのある車。運転席に父親。その隣の助手席に母親。後部座席には私がいるはずだが、影になっていて見えない。
「実は、事故の映像が出てきたのです」と刑事は言った。「あなたたちの車の前を走っていた車の後方カメラから、事故の一部始終が撮影されていました。見てください、そろそろです」
 運転している父の後ろから腕が突き出て、父の首や肩に絡みついた。父が振り払うようにもがくのが見える。運転席の後ろからぬっと現れたのは、私の顔だ。ひどく怖い顔をしている。陰気な表情。見開かれた瞳。まるで心霊写真の幽霊のような。私は目を凝らし、父の隣にいたはずの本物の幽霊を探したが、何も映ってはいなかった。
 後部座席から運転席へ、無理に身を乗り出す私が見える。父の視界を、私の体が遮っている。私の手がハンドルに伸びて、強引にハンドルを操作したように見える。それと同時に車は右へと方向を変える。車は中央分離帯に向かっていき、そしてフレームアウトした。
 刑事は再生を止めた。片方のタイヤが浮いた瞬間で、映像が停止する。
 なるほどな、と私は思った。両親を殺したのは聡子だが、もちろんそんなことは説明できない。それにそもそも私以外のすべての人にとって、聡子は私だ。だから、両親を殺したのも私ということになる。
 私は溜め息を吐いた。これを乗り切れないとは思わない。私なら、きっと乗り越えられることだろう。それでも、きっと面倒臭いことにはなりそうだ。
「それでは」と刑事は言った。「詳しいお話は、署の方で聞かせて頂きます」

 幼稚園の時に先生が絵を勝手にコンクールに出してしまってから、聡子は絵を描くのが好きになった。小学校でも、そんなことが起きればいいのに……と思っていた。図画の時間に描いた絵が先生の目に止まって、勝手にコンクールに出されてしまって、全国一番とかに選ばれて、みんなが一躍見直すような、そんなことが起きればいいのに。でも、そんな出来事は起きなかった。
 一度、学年代表の何人かのうちの一人に選ばれて、校内に貼り出されたことがあった。聡子は表には出さなかったけれど嬉しくて、掲示板の近くをうろうろして、みんなの反応を見に行ったりしていた。
 ある時、クラスの割と目立っている女子たちが、集まって彼女の絵を見ているのに出くわした。聡子は柱の陰に隠れて聞いていた。
「これ、気持ち悪くない?」と彼女たちは言った。
「うっわー、ほんとだ。なんか病気っぽい」
「本当だ。病んでる病んでる!」
 女の子たちは楽しそうに笑った。聡子は恥ずかしさで顔が真っ赤になってしまって、誰にも見つからないように、その場を逃げ出した。
 それから、聡子は絵を人に見せるのをやめた。学校の授業や課題で描く時には、当たり障りのない、課題通りの絵を描いた。そんな絵を描くのは、何一つ楽しくなかった。
 自分の本当に描きたい絵は、誰にも見せなかった。唯一の例外はおばあちゃんだったが、あの夏、あの空き家で描いた絵だけは、おばあちゃんにも見せなかった。
 空き家は聡子を強く惹きつけた。古くて汚い空き家は、聡子がずっと描きたかったもの……時間そのものだった。長い時間が、積もりに積もったもの。目には見えない大量の時間の堆積。そして、その奥に隠された、今は失われた美しい時間の痕跡。
 あの夏、空き家に通って絵を描きながら、聡子は一方で焦りに似た感情を抱いてもいた。絵に夢中になる一方で、このままじゃいけないという気持ちも大きくなっていたのだ。
 変わりたい、と聡子は思った。こんな気持ち悪い絵を描かない自分に変わりたい。笑われる側じゃなくて、友達と一緒にあっちにいて、楽しそうに笑う側に変わりたい。
 こんなところにいてはダメだと、聡子は何度も考えた。空き家に魅了されればされるほど、その思いも強くなっていった。早く、ここから出なくちゃいけない。変わらなくては。
 私は、大人にならなくちゃならない。
 そんな引き裂かれた二つの思いは、あの夏の空き家の中でぶつかり合って、そして大人になった聡子は外へ出て行った。子供の聡子は空き家に残った。
 そういうものなのかな、と聡子は思った。誰もが、子供の頃の自分をどこかに置き去りにしていくのだろう。それが大人になるということなのだろう。
 闇の中で、長い時間が経過した。そして気がつけば、聡子は家に帰っていた。懐かしいスケッチブック、懐かしい空き家の絵。ページをめくり白い紙を開いて、聡子は絵を描き始めた。
 色褪せた壁紙。埃の積もった家具や廊下。止まった時計。ベッドの足のへこみが残った和室の畳。
 そこには誰もやって来ない、もう何の変化も生じない、死んだ風景。空き家の光景だ。
 でも時間の堆積の中に、かつてあったものも隠れている。それは例えば、居間でコーヒーを淹れるお父さん。台所で卵を焼いているお母さん。テレビで流れる朝のワイドショーの騒々しさ、でも誰もまともには見ていない。朝の散歩から帰ってきたおばあちゃんが、仏壇で鈴をちりんと鳴らす。壁にかかったおじいちゃんの写真。
 古いものの中に隠れた、表面に見えない美しさ。聡子がずっと探していたものが、そこにあった。聡子自身が、そんな美しさの一部になっていた。
 空き家の中、永遠に封印された時間の中で、絵を描いている子供がいる。それは失われた彼女の少女時代だった。

#創作大賞2024 #ホラー小説部門


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