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空き家の子供 第3章 現在・冬(2)

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第3章 現在・冬(2)

 音もなく降り続く冷たい雨の中、私は逃げるように、足早に歩いた。空き家の子供からだけでなく、慶太の冷たい視線からも逃げるように。
 相変わらず、通りにはまったくひと気がなくて、この町は無人のようだった。細かい雨は、町の輪郭をぼんやりとあいまいにしていた。
 私は何度も気配を感じた。後ろから、何かがついて来る気配。何かが走って来て、近づいたり離れたりしている気配。
 それでも私は振り向かなかったし、立ち止まりさえしなかった。一定のペースを緩めず、早足で家まで止まらずに歩いた。
 落ち着かない気分だった。まるで十一歳の子供に戻ってしまったような気分。大人になったから、こんな気分になることはもうないと思っていたのに。こんな気分をさせられる時期はとっくに過去に去り、もう二度も戻ってくることはないと、そう思い込んでいたのに。
 あっという間に、引き戻されてしまった。十五年の月日なんてなかったかのように。遠くへ逃げ切ったと思い込んでいた私を嘲笑うように、ずっと近くにいたんだよとでも言うように。

 実家に帰り着き、がたつく引き戸を開け閉めして湿っぽい外気を閉め出すと、ようやく人心地がついた。玄関を背にぼんやりと立ち尽くしていると、母が買い物かごを持って奥から出てきた。
「ちょうど良かった。買い物に行くから、おばあちゃん見ててくれる?」
「お父さんは?」
「町会の用事で出かけちゃったから、あんた待ってたのよ。おばあちゃん一人にできないし。晩ごはん食べてくでしょ?」
「え?……別に晩ごはん、いいよ。もう帰ろうかな」
「そう? どっちでもいいけど、買い物行く間はいてよね。おばあちゃん一人にできないから」
「何かあったら、どうすればいいの?」
「何かあったら、電話して。何もないと思うけど」
 母親が出かけていって、私は実家に一人になった。いや、奥の和室に祖母はいるが、その存在感はほとんどなく、家はがらんとしてずいぶん広く感じられた。自分の家なのになぜかよそよそしく、落ち着かない思いを感じていた。
 私は祖母の様子を見に行った。大きな介護ベッドに小さく横たわって、祖母は目を閉じて眠っていた。あまりにも気配がないので不安になって、耳を近づけると小さな寝息が聞こえていた。私はほっとしてその場を離れた。
 家の中はしんとして、壁の古い時計が立てるカチコチという音だけが、やたら際立って聞こえていた。どうにも落ち着かず、私は所在のない気分だった。何度か祖母の様子を伺って、変わりがないことを確かめた後、私は階段を登って二階に行った。
 私が子供時代を過ごした部屋は、玄関の上、表に面した位置にあった。たまにしか帰らない部屋には、私の古い私物……漫画とか、服とか、雑誌とか……がそのまま残されていたが、今は母親のミシンが置かれていた。私の置いていった物の上に、母親の私物がパッチワークのように散らばっている。
 持ち帰るものと捨てるものを整理するつもりで、私は私物の物色を始めた。ベッドに座って、床に置かれた手近な段ボール箱を開けてみると、スケッチブックが目に飛び込んできた。箱には多くの雑多な品物が詰め込まれていて、そのいちばん上にスケッチブックが置かれていたのだ。
 小学生の頃の持ち物だ。あれっきり、開くこともなかった。ずっと存在すら忘れていたのに、どうしてこんな目立つところにあるのか……。
 私はスケッチブックを手に取って、表紙を開いてみた。最初のページにあったのは、鉛筆で描かれた家の絵だ。家の全景ではなく、部分の絵。雨戸の閉じた日本家屋の縁側が描かれている。線は歪んでいて、黒い指紋が紙のあちこちを汚していたが、小学生にしては上手だ、と私は思った。ちゃんと何が描かれているか分かる。空き家だ。
 ベッドに座り、膝の上にスケッチブックを載せて、私はページをめくっていった。次のページも空き家の絵。その次も。いろんなアングル、いろんな部分を切り取った空き家の絵が、何枚も何枚も続いていた。途中からは水彩絵の具で色が塗られた絵になった。途中の絵、完成している絵、様々だったが、その筆致はどんどん上達しているようだった。
 空き家は暗い茶色や灰色に、空き家の周囲の草木は明るい緑色に塗られていた。色褪せていない、鮮やかな緑色を見ていると、あの夏の空き家の風景が思い浮かんでくる。空気を満たす蝉の大合唱が聞こえる気がする。
 ふと、ページをめくる手が止まった。空き家の一部、日本家屋の母屋につながる形で増築された、二階建ての洋風建築の部分を描いた絵だ。二階には一つの窓があり、観音開きの窓は開け放たれていて、奥の暗がりが覗いていた。その暗がりに、より暗い何かの輪郭が描かれていた。空き家の二階に人型の影があって、窓から外を見下ろしているのだ。
 これがあの頃の空き家の子供……と私は思った。その時に、
 ぴんぽーん
 玄関のチャイムが鳴った。思わず反射的に、手にしていたスケッチブックのページを握りしめてしまった。何かが覗く窓を描いたページはくしゃくしゃになり、私の汗ばんだ手の中で丸くなった。
 私はスケッチブックを置いて立ち上がり、窓を開けて外を見た。机を挟んで覗き込むので、真下に当たる玄関の前はよく見えない。よく見えないが、小さな影が玄関の方に近づいて、視界から消える瞬間が見えた。そしてすぐに、またチャイムが鳴った。
 あの子が来た? まさか。
 あの子は、空き家からは出られないはずだ。実際、十五年間ずっと出られなかった。空き家はあの子に力を与えていたけれど、同時にあの子を繋ぎ止める牢獄だった。
 空き家が壊されて、あの子は自由になったのか。
 これからはあの場所を離れて、どこにでもやって来ることができる?
 ここにも。あるいは、もっと他の場所までも。
 ぴんぽーん ぴんぽーん ぴんぽーん
 今度は三回続けて鳴らされた。苛立つように。強い怒りを表明するかのように。
 身を乗り出して何とか下を見ようとしたが、玄関のチャイムの辺りは死角に入って見えなかった。ただ、誰もいない雨の通りが見えるだけだ。
 チャイムはひっきりなしに鳴り続けている。行動を決め兼ねて突っ立っていたら、やがてチャイムの音に混じって、呻き声のようなものが聞こえてきた。
 入ってきた……? とハッとしたが、そうじゃない。あれは祖母の声だ。
 窓を閉めてクレセント錠を閉ざし、私は急いで階段を駆け降りた。降り切ったところで、玄関の方をちらっと見る。引き戸の曇りガラスの向こうに、小さな子供の影が立っているのが見えた。
 それに背を向けて、和室へと向かう。ベッドの上の祖母は目を見開いて、天井を見つめたまま低い声をあげていた。喉の奥で痰が絡むような、ごろごろとした声だ。
「どうしたの、おばあちゃん! 大丈夫?」
 私は祖母の手を取った……が、その手はすぐさま振り払われた。祖母は私を見ようともしないまま、声を上げていた。その間も、チャイムはひっきりなしに鳴り続けていた。
 連続するチャイムの音が途切れ、
 いーれーて。
 子供の声がした。玄関の戸。鍵は?
 私は玄関へ走った。玄関の引き戸は僅かに隙間が空いていて、隙間からはその向こうに立つ子供の一部が見えていた。白いシャツ、青い吊りスカート、夏の服装の小学生の女の子。
 いーれーて。
「だめ!」私は叫んだ。引き戸に飛びつき、軋む戸を力を込めて閉めた。いちばん近くに寄ったその瞬間に、隙間から子供の吐息が漏れてくるのを感じた気がした。
 閉じた戸を片手で押さえながら、もう片方の手を鍵に伸ばした。スライドさせた金具がカチリと引っかかるだけの、古い簡易な鍵だ。思いきり力をかけたら弾け飛んでしまいそうな貧弱な鍵だが、空き家の子供は開けられないはずだと私は思った。
 こちらが開けない限り。入れてやらない限り、きっとあの子は入れない。
 いーれーて。
「嫌だってば」言いながら鍵を閉め、私は玄関を見つめながら後ずさった。
 相変わらず、曇りガラス越しに子供の影が見えている。それはただ立っているだけで、何もできないようだった。ただ、「いーれーて」と繰り返すだけだ。
「絶対入れてやらない」と私は言った。「空き家に帰って。空き家がもうないなら、消えてしまって」
 そうだ。空き家があったから、空き家の子供はとどまっていられた。空き家の闇が、あの子をこの世界に繋ぎ止めていたのだ。空き家が消えて、闇もなくなり、あの子は存在していられるはずがない。
 今ここにいるのは、たぶん名残りのようなものだ。火が燃えた後の煙。燃えカス。時間が経てば、消えてしまうはず。
 それまでに、私が入れてやらない限りは。
 いーれーて。
「嫌だ! 絶対入れない! 早く消えて!」私は叫んだ。
 興奮して、頭がくらくらした。私は目を閉じて、荒れ狂う頭の中を鎮めようとした。やがて目を開けると、引き戸の向こうの子供の影は見えなくなっていた。息を詰めてしばらく待ってみたが、声は聞こえず、チャイムも鳴らなかった。
 消えたのか?
 わからない。消えたかもしれないし、ただ時期を待っているだけかもしれない。
 和室に戻ると、祖母は天井を見上げて、口をぱくぱくと動かしていた。
「聡子」と祖母は言った。「聡子、聡子」
 私は駆け寄って、祖母の痩せ細った手を取った。ひどく冷たい。まるで死人の手のようだ。
「ここにいるよ!」と私は言った。「ねえおばあちゃん、聡子はここにいるよ」
 聞こえないのか、祖母は私の方を見もしなかった。天井を見つめながら、「聡子、聡子」とまたつぶやいた。やがてその声も途切れ、祖母は目を閉じて静かになった。
 ドキッとして、私はまた祖母の口に耳を寄せた。微かな寝息を確認して、私はほっとした。

 リビングでテレビをつけたまま、でも意識はほとんどテレビに向いていなくて、私は玄関の気配にばかり気を取られていた。やがてチャイムが鳴って、私はビクッとした。
「聡子、いるのよねえ?」
 母親の声だった。私はほっとして玄関へ向かい、鍵を開けた。
 引き戸を開けると、スーパーのレジ袋を持った母が訝しげな顔をして立っていた。
「どうしたの、鍵なんて閉めて」
「……誰か勝手に入ってくるといけないから」
「誰が入ってくるって言うの?」
「別に。おかえり」
 母が帰ってきてしばらくすると、父も戻った。母が晩ごはんの料理をし、父がテレビをつけている間に、私はトイレに立つふりをして、そっと玄関の戸の鍵を閉めに行った。鍵を閉めながら、空き家の子供は両親がいる間は来ないだろうと、私は思っていた。
 だって、彼女が用があるのは私だけだから。
 その通り、晩ごはんの間も、誰も訪ねては来なかった。遅いから泊まって行くようにと母が言って、私は素直にそれを受け入れた。夜に、一人でこの家を出て、駅までの道を歩くのが嫌だったから。いつもなら必ず断って帰るので、母は驚いた顔をしていた。
 久しぶりに実家の部屋の自分のベッドで、私は眠った。とりとめのない、不安ばかりが募っていくような夢を見た。

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