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ドラゴンボールに込められているメッセージとは?(その1)

『ドラゴンボール』は、当初、西遊記を元に、願いを叶える不思議な玉「ドラゴンボール」をめぐる、痛快冒険アクション漫画であるが、後に、ジャンプのバトル漫画の礎となった作品でもある。
 
鳥山明は元々、明るく楽しい漫画を描いていた。その為、鳥山明の作品は、メッセージ性がないと思われがちだ。

しかし、ドラゴンボールを読み返してみると、鳥山明は、とても大事なメッセージを読者に伝えていたことがわかる。


・初期の『ドラゴンボール』


鳥山明の作風は、基本、コミカルな物が多い。彼の代表作の一つである『Dr.スランプ アラレちゃん』は、のどかな田舎の村に、とてつもな技術力を持った天才科学者である則巻千兵衛と、彼によって作られた女の子型ロボットのアラレを主人公にして、様々な騒動を巻き起こす漫画であった。
 
本作は、おもちゃ箱をひっくり返したような面白さであり、ハイテクメカが出てきたかと思えば、宇宙人もいるし、ゴジラやガメラなどの怪獣も出てくる。
 
この『アラレちゃん』が終了した後に連載されたのが、『ドラゴンボール』であった。
 
初期の頃の『ドラゴンボール』は、西遊記をベースにした、SFと童話を融合させたような作風であり、『アラレちゃん』同様、にぎやかな作風であった。
 
しかし、悟空が亀仙人の元で修業し、強くなると、だんだんアクションが中心となり、鳥山明ならではの迫力のある描写も相まって、前述の通り、ジャンプのバトル漫画の礎を築いた。
 
ピッコロ大魔王が登場すると、物語はどんどんシリアスな方向に向かって行き、『アラレちゃん』のような無邪気さは鳴りを潜めていくようになる。
 
悟空は亀仙人をはじめ、多くの師から武道を学んで、どんどん強くなり、最終的には神を超える力を持つようになっていく。そのカタルシスズムに多くの子どもが熱狂していったのだ。

 ・悟空が戦う理由

『ドラゴンボール』の主人公である悟空は、戦うことが大好きな腕白な小僧というキャラクターだが、弱いものいじめだけは絶対しない。

戦いで相手が負けても必要に迫られない限り殺そうとはしない。成長すると、その姿勢は顕著となり、あの凶悪だったピッコロや、ベジータさえも見逃していたりする。

彼は、自分の大事なものが護れればそれでいいというスタンスで戦っていたのだ。
 
ただし、場合によっては、セルのように、容赦なく殺してしまうこともある(厳密にいえば、息子の悟飯にそう命じた)。
 
このことは、ライバルキャラであるベジータが指摘している。彼は、終盤の魔人ブウとの戦いで、自分と悟空の違いをこのように語っている。
 
「オレはオレの思い通りにするために…楽しみのために…敵を殺すために…プライドのために戦ってきた…だが…あいつはちがう…勝つために戦うんじゃない、ぜったい負けないために、限界を極め続けて戦うんだ…!だから相手の命を絶つことに、こだわりはない…」
 
ベジータの言う通り、悟空は勝つために戦っているのではない、悪に負けないために戦っていたのだ。
 
これは、亀仙人の教えによるものだ。悟空の最初の師であった亀仙人は、戦いを始める前に、悟空とクリリンにこう言った。
 
「武道を習得するのは、ケンカに勝つためではなく、ギャルに「あらん♥あなた、とってもつよいのね~ウッフーン」といわれるためでもない!武道を学ぶことによって心身ともに健康となり、それによって生まれた余裕で、人生をよりおもしろおかしく、はりきって過ごしてしまおうというものじゃ!」
 
強さを得ると言うのは、心に余裕を持つこと、そして、悪に負けないことであるということを悟空に教えていたのだ。
 
『ドラゴンボール』は、楽しいだけではなく、締める時は締めるという、徐々に、大人の視点などが入った作風となっていることがわかる。

 ・亀仙人の試練

また、亀仙人は言葉だけで、武道の心得を教えたわけではない。彼は、最初の天下一武道会で、悟空を優勝させないために、変装して武道会に出場し、悟空を決勝戦で倒している。
 
亀仙人は、意地悪でこんなことをやっているのではない。悟空があまりにも強すぎるために、優勝してしまったら、慢心して修業を怠るようになることを危惧していたのだ。
 
実際、悟空はピッコロ大魔王を倒した後に神様の元に行った際、弱冠、調子に乗っていたことがあり、神様から一時的に面会を拒否されていた。
 
亀仙人は、悟空により大きな男となってもらいたいために、天下一武道会では、あえて敵となったのだ。
 
そもそも、平和なペンギン村で暮らしているアラレちゃんとは違い、悟空は外の世界に向かって、冒険をしなければならない。

だから、亀仙人は、悟空に外の世界で生きるために必要なことを教えていた。それは力だけではない、知識、礼儀、優しさ、勇気等、亀仙人は悟空にそれらのことを教えたのだ。それが時に強さ以上の力になるからだ。

 ・ヒーローは一人にあらず

 それは、『ドラゴンボール』の最終回でも現れている。悟空は、最強の敵であった魔人ブウに対して、元気球を使おうとしたが、その時、真っ先に力を貸してくれたのは、かつて悟空が関わってきた人たちである。

最終的には、傍にいたサタンが多くの人を説き伏せてくれたおかげで、悟空は魔人ブウを倒すことができたのだ。
 
悟空が多くの人と出会い、その人たちを助けてきたから、力を貸してもらうことができた。そして、悟空が、多くの人と関わることができたのは、強いからではない。

強い力を他人の為に使えるような優しさを持っているからだ。
 
一方で、悟空も完全な人間ではなく、時に他者に助けられることもあり、彼は、その際に感謝を絶対にわすれない。
 
悟空がドラゴンボールを使うことを許されているのも、自分の欲のためではなく、多くの人を助けるためだからである。自分が助けられたからこそ、多くの人を助けようと思っているのだ。
 
悟空に、強さ、優しさ、礼節が備わっていたからこそ、最後まで戦い抜くことができたのだ。心に余裕を持つとはそういうことである。 

 ・善なる者にも、悪は存在する

 『ドラゴンボール』における悪人とは、単に、悪いことをするだけの奴というわけではない。自身の悪の心に負けてしまった者のことである。
 
実は、『ドラゴンボール』というのは、単なる勧善懲悪ものの漫画ではない。そもそも、悟空も元をただせば凶悪な宇宙人、すなわち、サイヤ人であったのだ。

しかし、悟空は幼少時期に事故で頭を打って、地球を滅ぼせという指令を忘れたことで、今の素直でやさしい少年になったのだ。
 
また、物語序盤の強敵キャラであるピッコロ大魔王は、元々、神様の分身体であった。

神様は、元々ナメック星人という宇宙人で、母星が異常気象に見舞われた際、地球に避難してきたのだが、到着時に頭を打って、記憶を無くしてしまったのだ。
 
その後、武道家として生き、神の存在を知って後継者になろうとしたが、先代の神は、彼の心の奥に悪の心があると知って、一時的に拒んでしまう。

やがて、苦労の末、悪の心を追い出して、神の後継者となったが、その悪の心は、分身体となりピッコロ大魔王へと変わってしまった。
 
並べてみれば、悟空とピッコロは正反対の境遇であることがわかる。そして、この二人の境遇には、悪を滅ぼすというのは不可能なのだというメッセージが込められているのがわかる。
 
これは、ピッコロと神の関係を見ればわかる。両者は元々一つであったので、一方が死んでしまったら、他方は生きられないのだ。

だから、悟空は天下一武道会でピッコロに勝利した際、彼を殺さずに生かすことを選んだのだ。

そして、この時に、悟空は学んだのである。悪を滅ぼすことはできない。どんな人間にも悪はある。そして、悪いことをするのが悪ではなく、悪い心に負けた者が悪人となるのだと。

 ・善と悪は表裏一体

前述したように、悟空も、本来は凶悪なサイヤ人であった。だから、敵を痛めつけて、勝利することに固執し、力で全てをねじ伏せていたベジータやフリーザのような存在になっていたかもしれないのだ。

現に、最初にスーパーサイヤ人になった際、わざわざフリーザが、フルパワーになるのを待ってまで、戦いに執着していた。完全な状態になった相手と戦いを楽しみたかったのだ。
 
この悟空がやっていた、相手がフルパワーになった状態で、戦いを楽しむというのは、同じサイヤ人でもベジータや、悟空たちの遺伝子を結集して作られた人工生命体「セル」もやっており、サイヤ人の悪癖といえる。
 
だから、悟空も敵を痛めつけて楽しむような、サイヤ人の恐ろしい一面があった。

息子の悟飯も、普段は大人しく、人を傷つけるようなことを嫌っていたのに、セルとの戦いで激昂してスーパーサイヤ人になった際は、セルをいたぶって楽しんでいた。
 
そのため、フリーザからは「きさまらサイヤ人は、罪のない者を殺さなかったとでもいうのか」と言われ、それに対し悟空は「だから滅びた……」と返している。

ファンからの人気の高い名場面であるが、悟空が自身の中にある悪の心を認識していた場面でもある。
 
悟空は、フリーザ達の姿に、もう一人の自分を見ていたのだ。
 
また、悟空がフリーザを倒した際、複雑な表情を浮かべていたのが印象的であるが、これは、悟空もフリーザと同じような存在になっていた可能性もあったからだ。

悟空がフリーザやベジータを生かしたのは、彼らに負けないため、悪に負けないためにに強くなろうとする、悟空の意思表示でもあったのだ。
 
悪は滅ぼすことはできない、だから、悪に負けないために強くなることが大事なのである。

 <その2に続く>


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