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男性更年期

いつもの通り上機嫌で帰宅した夫が、夕方のキッチンでお茶を淹れていた。
1ヶ月ぶりの帰宅なので、話したいと思っていたことがたくさんある。

今朝は私が計画していたビジネスを手伝いたいと言ってくれた友人と朝食を一緒に取って、計画の再検討について話したばかりだった。もともと、経営管理ビザで日本に移住したい夫の友人がこのビジネスの投資をするはずだったが、家庭の事情で取りやめになった上に、夫が数日前に子供の留学先であるイギリスにみんなで引っ越そうかと言い出したこともあって、将来の計画次第では日本で新規ビジネスを始めるのが難しいかもしれないという話をしたのだった。

夫にこの件を相談したかったのだが、イギリスへの引越しの話は思いつきだから他人からの投資を待たずに始めた方がいいと言われた。幼児教育に関わる事業において、簡単に始めて気まぐれに辞めるという訳にはいかないので、「無責任なことはできないからなあ」と私がつぶやいたところ、夫が突然すごい剣幕で怒り出した。無責任な人間だと私に非難されたと思ったようだ。

夫が突然まるでスイッチが入ったかのように腹を立てることが最近増えた。それにしても、もともとが聞き下手な人である。自分の正義を疑わず一方的に捲し立てる。私が反論しようものなら、立てた人差し指を口もとに運び「シーッ!」と無礼な態度でそれを許さない。「無責任」というワードと、心の中で「そんな簡単じゃないよ」と思いながら浮かべた私の笑みが気に入らなかったようだ。その笑い顔が「むかつく」と言葉に出して言った。
聞く耳を持たない人との口論は精神的に疲れる。腹が立つと言うより、悲しいやら情けないやらで気持ちが塞ぐ。この先まだ数十年もこの関係を続けるのは地獄だとさえ思った。
とにかく、私には責めたり批難したりする意図はなく、意見の相違があっただけだと冷静に伝える努力だけしたが、頭が痛くなってきてしまい、逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。

どのように夕飯の支度をし、食べ、片付けたのか、あまり覚えていない。
どこかの段階で冷静になった夫が謝ってきたことだけ覚えているが、私の心はすっかり冷え込んでいた。片付けも終わった頃に「散歩に行ってくる」と夫が言うので「うん」とだけ返事をした。きっと拗ねてそんな行動を取ったのだろう。話し合うきっかけにしたかったのかもしれない。でも、そんな気持ちを汲んであげられるほど私は優しくなれなかった。


翌朝、起きてきた夫が「男性更年期だと思う」と言い出した。チェック項目全てに当てはまると言う。鬱傾向になり、更年期における自殺率は女性より男性の方が高いそうだ。突発的な苛立ちや不安感が増すのであれば、心療内科で診てもらった方がいいかもしれないと言うことで、近くの心療内科に電話をした。心療内科というのはどこも予約待ちでいっぱいらしい。予約が取れる日を確認するので折り返しの電話を待つことになったのだが、看護師からいくつかの質問を受けた。不安感があるかという質問にYes、眠れているかYes、食欲はあるかNo、体重は減ったかNo……。変な空気になった。質問を受ける間、ビーズクッションに力無く横たわり、目も虚で脱力している夫。すでにうつ病患者にでもなったかのようだ。電話を切った私は夫にこう言った。「自己暗示にかかりやすいね」「男性更年期でも鬱でもなくて、自分でそう暗示をかけてるだけだよ。美味しいものでも食べに行こう。」夫の顔にみるみる正気が戻る。「食欲ないのに体重増えてますって…」と自分で言って恥ずかしそうに笑った。良くも悪くも夫は単純なのだ。

「ハイアットホテルのブランチする?」と嬉しそうに私の顔を覗き込みながら夫が言うので、私が「更年期の鬱はどうなった?」と少し意地悪に返すと、夫は大笑いした。

この日夫は「かまちょ」と言う日本語を覚えた。

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