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ベランダ日和


ベランダに出ると夏のにおいがした。



世界に広がる全ての空間の中で、自分ちのベランダが一番好きだ。よしもとばななのキッチンじゃないけれど、息絶える場所はベランダがいいと真剣に思っている。

大学に入って一人暮らしを始めてから、日常のほとんどの部分を僕はこのベランダで過ごした。うちの家は真ん前に幹線道路が走っていて、ベランダからはそこを通る車や人々、沿線にあるスーパーや定食屋などの風景が一望できる。車の音がたまにうるさいけど、それぞれ様々な目的のもと道を往来したり店に吸い込まれていく人々の動きや、街全体が織りなす音や匂いを全身で感じることができるので、このベランダを僕はかなり気に入っていた。


ベランダにはたまに来客があった。大抵二人で、大学の同級生のサイトウとキクチという奴だ。

一年の初夏のある日、例によってその時もベランダの柵にもたれかかって眼下を眺めていると、通行人の中に見知った顔があった。それが授業で何回か一緒になったことのあるサイトウとキクチだった。

僕はベランダから直接道に声をかけた。ベランダは3階に位置するので声はなんとか届く。「やあ」

驚いた顔をする二人を道まで下りて迎えに行き、そのまま家に招き入れた。そしてベランダに立って三人でだべった。

「お前、なかなかいいとこに住んでんな」とキクチが言う。
「いいでしょ、このベランダ」と僕は返す。
「いや、スーパーとか便利な店が近くにあるっていう立地のことキクチは言ってんでしょ」笑いながらサイトウがつっこむ。
「そうなの?」
キクチに尋ねると、キクチも笑いながら「それでしかないだろ」と言った。「まあでも、このベランダ結構眺めいいな」
サイトウも「確かに」と頷く。そして、
「そういえばさ、さっき買ったアイス、そこら辺で食べようとしてたんだけどどうせだしここで食べない?」とガサゴソとファミリーサイズのいっぱい入っているのを出した。

三人で風景を眺めながらアイスを食べた。夏の暑さに揺らめく道沿いの風景に鮮やかなアイスの色がよく合っていて、とても印象に残っている。


ベランダを気に入ってくれた二人は、それから頻繁にうちを訪れた。その度にベランダからの風景を眺めながらお互いの単位取得状況について、テスト問題について、入っているサークルの活動について、色恋沙汰について語り合った。

そのまま時間が過ぎていき、三年になるとベランダの上で語られることは就職活動の情報や将来のことがほとんどになった。


そんな三年のある日、僕らはまたベランダの柵にもたれかかりながらキクチが持っていた煙草を吸っていた。
「なんかさ」キクチが呟く。「ここから見るとただの動物がうろうろ動いてるみたいにしか見えないけど、この道を通ってく人たちはみんな、仕事とか学校とか、ちゃんとした方向性を持って進んでんだよな」
「うん」と僕は言う。
「自分の方向性とか目的って、なんなんだろうな」
「分かんなくなるよね」とサイトウも呟いた。「とりあえず、前に進むしかない」

前に進む。
眼下に見える道を往来する人たちはそれぞれの方向に流れていく。バスに乗って西へ。スーパーの入り口へ。あるいは細い路地裏の方へ。本当に様々な方向に進んでいく。
前ってどの方向なんだろう。僕はふとそう思ったが、口には出さなかった。


それ以降、キクチは就活が、サイトウは院試の勉強が忙しくなって連絡も途絶えがちになり、ベランダを訪れることはなくなった。時々一人でベランダに出て道ゆく人を眺めながら、二人は進むべき方向を見つけたのかなと思ったりした。
僕は大学を辞めた。



初めて集まってから三年が経った今日。僕は変わらずベランダに出て、風景を眺めている。
本格的に強くなる夏の日差しは道沿いを明るく照らしつけていた。僕は耳にイヤホンを差し込み、適当な音楽を再生する。

ベランダの柵にもたれかかると、すぐ真下の歩道を通りかかるキクチの姿があった。目があった。「やあ」

「就活、どうなの」
「全然ダメだ。面接で自分のやりたいこととか全然話せなくて…」キクチは煙を吐き出しながら言う。
「ところでお前は大学辞めて何してんの」
僕はうーんと考えて、こう言った。
「ベランダにいた。ずっと」
キクチは何だよそれ、と笑い、「あれ、あれサイトウじゃね?」と下を指さした。

「院試の勉強、しんどそうだな」同じくベランダに集結したサイトウにキクチが話しかける。
「なんか自分は本当にこの分野の勉強が続けたいのか分かんなくなってきて、やる気失っちゃった」
「分かるよ。自分の方向性、結局分かんないままだ」キクチもサイトウの言葉に同調する。
「このベランダ、相変わらず良い眺めだな」
サイトウがぽつりと呟いた。僕はそれに応える。
「でしょ。ここから景色眺めてたら、大抵のことは答えが見つかるんだよ」
二人とも笑った。「何だよそれ」


その時、風景の右側からノロノロした速度でバスが現れて、僕らの視線の先を通過していった。車体には全面にラッピング広告が貼られていて、そこには最近オープンしたらしい海浜リゾート地へのアクセス○○分!という謳い文句と、青々とした海と白い砂浜の完璧な風景がデカデカと描かれていた。

三人して顔を見合わせた。サイトウが言う。
「とりあえず海行かない?」
「あり」とキクチが言う。
僕は二人を見回しながら言った。
「答えだよ。それが」

夏の青空が眩しい。ベランダから見える世界は、たぶんどこまでも続いている。



よろしゅうおおきに