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事故で知った幸せ


普通病棟で迎えた最初の朝、
初めて事故当夜に命を助けて下さったお医者さまたちと、お会いした。

ベッドの上半身部分をすこしリクライニングで起こしてくれて、皆さんの顔を見ることが出来た。

でも
背中と頭はベッドから離すことは出来ず、
あなたはまだ自力で起き上がるのは無理だから、しばらくはこのまま、寝たままで過ごすことになります
と説明された。

具合はどうですかと聞かれたとき、
語学学校で習ったフレーズ通りに

Molto bene, grazieモルトベーネ グラツィエ(とても良いです、ありがとう)」
と答えた私に、

プロフェッソーレ(Professore 教授)と呼ばれていた、おそらく50代のお医者様をリーダーとした、あとは皆20~30代に見える、全部で6~7名ほどの医師グループの皆さんは

「ここではなかなか聞けない言葉だね」と、
ひとしきりウケてくれて
(入院患者はたいてい具合も機嫌も悪いそうなので)
「きっとあなたは回復も早いと思うよ」
と口々に励ましてくれた。

プロフェッソーレに最初に言われたことは、
「左足の指を動かしてみて」

私は恐る恐る、それをしてみた。
自分の左足、というより身体全体のことを
それまでは、どうなっているのか、思い出しもしていなかった。

指が痛みもなくちゃんと動いてくれたので、
すこしほっとして、同時に
動かなかった可能性もあったのか… と怖くなった。

「私はまた以前のように歩くことは出来ますか?」
プロフェッソーレにそうお聞きすると
先生はまっすぐに私の目を見つめ、
厳しい表情で
「わからない」と言われた。

「どれだけ回復できるかは、リハビリ次第です」
プロフェッソーレは、そう仰った。

そのとき私は、リハビリを頑張ろう 
と決心した。
自分の努力だけではどうにもならないこともあるけど、
自分の努力や頑張りでどうにか出来ることなら、
精いっぱい、とにかくやろう と思った。

出来ることなら今まで通りにまた歩きたいし、
スキップだってしたい、と思ったから。

その朝、車椅子をキコキコと漕いで
笑顔で病室に会いに来てくれたルカと
初めて落ち着いて顔を合わすことが出来て、
何が起こったのか、
どんな事故だったのかを、話してくれた。

ルカが話し終わると私は
事故について、
私のこの状態に責任を感じなくても良い
と唐突に言っていた。

あなたのせいじゃない、
あなたは自由だから、気にしないで。
そう言った。

一体なんでそんな言葉が浮かんできたのか、自分でも奇妙に感じたけど、
今思うとそれはルカの為というより、自分の為だったんだと思う。
一種の、自分の心への予防線。

もしルカがこの事故に責任を感じたら
それはやがて、彼にとっての重荷となり、
私の姿を見るたびにそれを突きつけられ、
つらい気持ちになって行って
その重荷から逃れるため、
いずれ私から逃げ去って行くかもしれない。

そうなったとき
私が事前に (いまこうやって)
あなたは自由よって言っておけば、
私の心は
「自分がそう言ったんでしょ、だから居なくなったのよ」って、
納得することが出来るから…

そんな、たぶん少し滑稽な思考回路を持つに至るには
いろいろ理由もあったけど、
それはまた別の話。

ルカは心配そうに私を見つめ
「何を言ってるんだ?」って顔をして、
まだ私の頭がはっきりしてないから、なにかおかしなことを言っている、と思ったみたいだった。

足の指はちゃんと動いたけれど、私の膝はもう一度、手術を受ける必要があったらしい。
それから2週間後に、3回目の手術を受けることになった。

このときは下半身だけの麻酔をされ、
手術室ではうつ伏せだったので
頬杖をついたり
顔を起こして手術室を見まわしたり、
手術の音に耳をそばたててみたり

何やら自分の足に、
ガン!ガン!と
何かを打ち込む振動を感じたりもした。

膝の裏を開いて
なにかクギのような器具を埋め込み、
上下の骨をしっかりと繋いでくれる手術だったと聞いている。

不思議なことにそういった手術中のことは憶えてるのに、終わった時のことは憶えていなくて
次に目が覚めたときにはもう病室のベッドにいて、仰向けで寝ていた。

これから麻酔が抜けていくに従って、
痛みで辛くなるけど、がんばって。
と看護師さんに言われ

それからしばらくしたら
ほんとうに身体全体が
重く、痛く、辛くなり、

私は人と話も出来ないくらい
ただ目を瞑って、
痛みにひたすら耐えるばかりで
翌々日の朝くらいまでずっと、痛みにうなされ続けた。

看護師さんたちは夜中も欠かさず、痛み止めの点滴を交換に来てくれた。
寝てたのか、痛みでずっと寝ていないのか、自分でもわからなかったけど
静まり返った夜中の病室の、小さな照明のなかで
私のすぐ横で点滴の処置をしている看護師さんに気が付き、
「グラツィエ…」と
ささやくような小さな声しか出せなかったけど、お礼を言ったら、
看護師さんが私の顔を見下ろして、やさしく微笑んでくれたのを憶えてる。

ルカは私が普通病棟に移されてから毎日、
朝の医師達の訪問を受け終わるとすぐに車椅子を漕いで私のベッドまで来て、
ほぼ一日中ずっと隣にいてくれてたので、
そのフロアの看護師たちからは
Bravo ragazzo ブラーヴォ ラガッツォ(偉い男の子) の称号を得ていた。
「少しは自分のベッドに居ろ」と叱られたこともあったそうだ。

その手術の時も、後で看護師さんが
「あなたの恋人は偉いわよ。あなたが手術室に連れて行かれるとすぐにエレベータで後を追って、手術が終わって出て来るまで、そこでずっと待ってたのよ」と教えてくれた。

ルカは一生懸命わたしを守ろうとしてくれてた。
この時も、後で彼自身が語ったところによると

そのフロアでは朝食のあと、看護師たちが
投薬等の必要がある患者たちのケアをするスケジュールになっていたのだけど
どちらの端の病室から始めるかは、毎日彼らの任意で決められていた。

手術の次の日の朝、
私が眉根を寄せて目を閉じたまま、
涙をにじませながら
時折頭を左右に振って苦しがっているのを見かねて
ルカはキコキコと車椅子を漕いで看護師さんを探しに行き、

なぜこんな状態の患者を後回しにするんだ、
こんなに苦しんでいるのに。
それに
それでなくとも鎮痛剤の点滴は、効き始めるのに時間がかかるのに。
あなたは今すぐここを中断して
昨日手術を受けたばかりのこの患者に、先に鎮痛剤を与えてあげてください。

と言いに行き、
実際、すぐにそれをしてもらったという。

「当たり前の理屈だろ、ましてや苦しんでるのは俺の女だぞ」と
今にして思えば〈南の男〉っぽい口調で、自分の友達に報告していたのも聞いた。

退院した後、ルカからは一度
「アモーレ、本当にありがとう。君は僕に、自分は男なんだってことを思い出させてくれるんだ。男としての役目を君のために出来ることが、どんなに深い喜びと誇りを与えてくれるか、君にはわからないだろうね」
と言われたことがあって、

奇しくも私自身
彼に対して同じことを感じていたので、
不思議な気持ちと
心の奥に、
静かな感動のような有難さも感じながら

「私こそありがとう… だって
私も全く同じように感じてるから。
あなたがそばにいてくれると私は、自分が女性だったんだってことを思い出せて、じっさい、そう感じることも出来るの。

あなたが私を守ってくれるから、
私は自分を守るためにいつも身構えていなくてもいい。

そしてそのことが、こんなにも大きな安心感と幸福感を与えてくれるなんて、
あなたに教えてもらうまで
私そんなこと、今までぜんぜん知らなかったのよ」
そう伝えて、感謝した。

日本だったら
もしかしたらこんな言葉は、言えなかったかもしれない。

でも、素直に感じていることを表に出し、
言葉にして伝えあう、という文化は
以心伝心の文化と同じように

あるいはそれ以上に

人の心に、直接的な幸福感を届け合うことが出来ると思う。

ありがとう や
愛してます
あなたを大切に思っています
こういうことを感謝しています…

そういったことは
「言わなくてもわかるだろう」ではなく
ちゃんと言葉にして伝え合ったほうが
相手の心に、まっすぐに、
幸福感と共に届けることができるし
お互いの絆も、より深まると思う。


ルカは比較的軽傷だったので、本当は私の3度目の手術を待たずに、退院させられるはずだった。

けれど先生方はルカの献身的な様子を見て、私の手術が終わるまで、彼を入院させ続けてくれたのだそうだ。

私の手術から1週間後、ルカは退院することになった。
その日の朝、医師団の訪問時に、彼は私のベッドまで来て
「みなさんが自分を、本来よりも長く入院させて下さったご配慮に感謝致します」
と全員にお礼を言ってから、退院して行った。

私は左足全体に
ジノッキオーナ Ginocchionaという
ウェットスーツの素材みたいなソフトギプスを巻かれ、
ようやっと治療から回復へとシフトチェンジし始めた段階で

面会時間に会いに来てくれる友達たちとは、笑ったり話したり出来たけど、
それ以外の時間は、好きな読書も、すぐに疲れてしまって出来ず
ほとんどずっと、ベッドを倒して横になったまま、ひたすら眠って過ごしていた。

毎朝打たれる、血栓を防ぐための注射や
抗生物質、
その時の私の語彙力では理解できなかったその他の点滴や注射、
時折、何か機材が持ち込まれてなされる検査…
そういったものが、毎日続いていた。

体力の差なのか、ただの偶然か
同じ事故に遭ったのに
早々と退院して行ったルカを、羨ましく思った。

連絡を受けて日本から来てくれた父がほぼ毎日、昼の面会時間に来てくれて

夜の面会時間にはルカが、やはり毎日のように
タクシーや、友達の車で来てくれた。

友達たちも
入れ替わり立ち替わり会いに来てくれて、
いつの間にか病室の私用のロッカーには
友達たちが持ってきてくれた寝間着が、たくさん入っていた。

イタリア語はもちろん、英語も話せない父を空港まで迎えに行ってくれ、スーパーでの買い物の仕方やバスの乗り方を教え、日常の通訳係まで買って出てくれた友達や

老齢の父に、毎日イタリア食ではきついのではと気遣って、ときどき和食のお弁当を作って父に届けてくれた友達、

気晴らしに読みなよ、と日本の本やマンガをたくさん持ってきてくれた友達…

小さい頃から「お姉ちゃん」の立場だったから
誰かの手伝いやお世話は「してもらう」ことではなく、
お前が「しなければならない」役割だ
と言われて育って

普段、人にはなるべく迷惑をかけないよう
自分の問題は自分ひとりで解決すべきと考え
誰かに相談することすら基本的に無く、
人に助けを求める習慣を持っていなかった私は

たぶん 人生で初めて

こちらからはお返しに
何も出来ない状態なのに

人に完全に甘えさせてもらい、
ただ一途に、心から感謝する
という大切な経験を、させてもらえた気がする。

人の温かさを信じていなかったわけじゃないけど
自分からそれに触れさせてもらおうとしたことがなかった。
「人に頼っても良い」という考えをそもそも、
持っていなかったから。

人に甘えても許されて、
ただ好意を受け取ることだけを求められるなんて
そんなことが存在するなんて
それまで想像したこともなかった。

私はこの入院中、多くの人たちに
まるで無条件に愛される子供のように
優しくされ
みんなに良くしてもらい

それまでの人生で一番
ほんとうに
とても、
幸せだった。


書いたものに対するみなさまからの評価として、謹んで拝受致します。 わりと真面目に日々の食事とワイン代・・・ 美味しいワイン、どうもありがとうございます♡