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意識して「深い学び」はできない?


今日は学びの主体性を引き出すということと関連して、「教えない」というやり方について考えてみました。


主導権を渡す

「学んでもらうために、教えない。」

どういうことか?

例えば、こんなことではないでしょうか。


これはいわゆる焦らしプレイというやつでしょうね(?)

「人を出し抜きたい!」というモチベーションを掻き立てることが本当に良いかどうかは別として、実際は勉強のモチベーションにこういったものがあるのは事実だと思います。

ここでは「学習の主導権」という言葉が使われていますね。

「今からこの漢字を勉強するぞ」と押し付けるのではなく、「今日はまだ教えないよ」と言ってみることで、子どもは先に知りたいと思うのでしょう。


これは主体性を引き出す一つの手法として、アリなのかもしれませんね。


教えないという教育

外山滋比古という方の「思考の整理学」という本は卒論を書く大学生には是非とも呼んでほしい著作だと思いました。(「忘却の整理学」という本もおもしろかったです!)


うろ覚えですが、この本の冒頭か序盤で「あえて学生には教えない」ことをするということが書いてありました。

なんでもかんでも授けてしまうと、自力で学ぶことができない。

あえて教えないことで、学生に自ら学ばせ、答えを探らせるということを書いておられました。


面倒だからとか、わからないから教えないのではなく、その学生に学んでもらうためにあえて教えないという選択をする。これも学習者の力を引き出す方法として参考になると感じています。


さて、次は本日のメインディッシュです。



人は直接教わらないことを最も深く学ぶ


ところで、私たちはどうやって物事を学んでいるのでしょう?

「そりゃあ家庭や学校で教えられてできるようになったんじゃないか。」と、言われるかもしれません。

しかし、親や教師や兄弟姉妹や近所のおじさんなどから ”直接" 教えてもらったことばかりではないでしょう。


「右足と左足で違う靴を履いて出かけちゃダメだ」と誰かに教えられたことはありますか?

多分ないと思います。あらかじめそれを禁止し、教えなければならないほどの特別な理由などないからです。


ではなぜ、人々は誰かに教わったわけでもないのに左右で同じデザインの靴を履くのか?


それは、教わるまでもない「自明」のことだからです。


生まれてきたばかりの赤ちゃんはそもそも靴というものも知りません。しかし、成長していく中で周りの人たちがみんな左右で同じ靴を履いていることを認識します。

例外を見ることもないまま、「靴は両足で一緒のものだ」という知識(価値観)が自然と刷り込まれていきます。


要するに、人は「自明」とされていることは、わざわざ教えられなくても自然と内面化してしまう。それどころか、その人の価値観や思考様式にまで深く根を下ろし、この上なく深い次元で「学ぶ」のです。



”なぜか” 多くの場所で、男性トイレは青か黒、女性トイレは赤という決まった色に塗り分けられていませんか?

”なぜか” 授業中はクラスメイトに対する意見も敬語で話すことを求められませんか?


これらの裏側にはどんな理由があるのかなど、考えたことのない人が多数のはずです。それは「自明」のことだから。


しかし、上記の例を見て「確かに」と思った方は、無批判のうちにトイレの色分けや授業で敬語を使うことを「学習していた」のです。


そして、仮に男性が赤、女性が青で色分けされたトイレを見たら、自分が入るべき方とは逆のトイレに入ってしまうかもしれません。

授業中の議論において俗語が飛び交っていたら違和感を覚えるかもしれません。


しかし、誰がどういう理由で男性トイレを青、女性トイレを赤と決めたのでしょうか?

実際に人と議論するとき、敬語がふさわしい場面もあれば砕けた口調で話し合う場面もあるのではないでしょうか?


私たちは学校教育を通して知らず知らずのうちに誰かがつくった価値観を一方的に刷り込まれていて、それに ”疑問や批判を向けさせないように" 育てられてきたのかもしれません。


そして、これを「規範や価値観の教育」と捉えるか、あるいは「洗脳」と捉えるかは人それぞれ。

良いようにも悪いようにも学習に利用できてしまう、それが教えずに刷り込むということだと思います。

ちなみに、教育ではこのように、良くも悪くも意図せぬ学習をもたらしてしまうことがあります。こうした機能は「隠れたカリキュラム」などと呼ばれています。



主体性を育む話に戻すと、

学びを楽しむような教室の雰囲気づくりや、遊びの中に学びの要素をそれとなく埋め込んでおくことによって、「学びは主体的に行うもの」であることを自明視するかもしれません。

逆に、いかにも「勉強は義務である、耐えてでもやり抜くもの」であるかのような雰囲気が教室内に醸し出されると、「勉強を頑張らなければならない」という風に捉えてしまうかもしれません。


だから、私は

子どもの学びへの主体性を育むために、教室の文化を問い直すこと、学校や世間の教育観を変えること

が非常に重要だと考えています。

それを実現するためにカリキュラム設計というものを考えていきたいのです。



以上が「教えない」という教育のお話です。最後にご紹介した内容は後日、もっと深めていきたいなと思っています。

拙い文章ですが、最後まで読んでいただき、ありがとうございました!!!

参考文献: 外山滋比古(1983)『思考の整理学』

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