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【当時】研究コンセプト紹介「好きこそものの上手なれ」なカリキュラム設計

↑最近衝動買い(5,000円)しました。

久々の投稿です。コロナの影響で時間がたっぷりあるので、頭の中を整理しておきたいと思います。

ここ数週間、研究から少し距離を置いて教育を色々な角度から眺める機会があり、インプット過多になっていました。今回は僕の研究のコンセプトと、どう研究を進めていく予定なのかを紹介したいと思います。

このnoteを読んでもらっている方に僕自身の研究テーマを知ってもらうことで、日本の学校教育を考えるきっかけの一つとなれば嬉しいです。


学校教育を変えるためにカリキュラムを変える

僕は大学に入学する前から漠然とこう考えていました。

「勉強って堅苦しい。もっと楽しみながら勉強できればいいのに。」

なぜ、僕たちは「勉強」という言葉を聞くと義務感とか努力みたいな「お堅い」ワードを連想するのでしょうか?

教育学の用語に「隠れたカリキュラム」というものがあります。一般的に人々が「勉強」→「堅苦しい」というステレオタイプを抱いているのは、学校教育を受けるうちに、知らず知らずそういう価値観とか考え方が刷り込まれているからだと言われています。学校で勉強したことが宿題として出されて、提出しなければ評価が低くなる。このような、学校教育で見られる「勉強=義務」という価値観などの、意図していない「なにか」が学ばれるものが、「隠れたカリキュラム」です。


こう考えると、学びが楽しいものだと子どもたちが思えるような教育を実現するためには、学校教育の「隠れたカリキュラム」について考え直す必要がある。だから、僕は新しいカリキュラム設計の理論を研究しようと考えるようになりました。

「カリキュラム」という言葉のここでの意味は、授業科目や時数、配列だけでなく、子どもの学校生活における学び全体についてのデザインみたいに考えてください。

(僕が開発を目指しているカリキュラム設計の理論は「学校教育全体の中の諸要素を組織化する作業に一貫した方向性を持たせるためのもの」という位置付けのつもりです。)


カリキュラムのコンセプトは「好きこそものの上手なれ」

僕の初発の問題意識は「学びを楽しいものにする」ことです。

しかし、単純に「学校の勉強が楽しければそれでよい」と考えているわけではないです。僕は、「学びの楽しさ」は子どもを「自らよく考えて学ぶ子」に育てるために必要なものとして考えています。

複雑で難解なことの学習は骨が折れます。しかし、学びたいという欲求や自己効力感(自分はやればできるんだという考え)を持っていれば、難しい学習にも取り組みやすくなります。

学んでいることを趣味のように考えられれば、人は多くのことをすんなりと吸収してメキメキ上達していくものです。人間の脳は興味のあるものをより少ない負荷で学ぶことができるようになっているらしいのです。

端的に言えば、僕の目指す教育は「好きこそものの上手なれ」の発想に近いと言えます。


(教育心理学の知見を参照してより詳しく紹介するなら、内発的動機づけやメタ認知、自己調整学習、傾向性といった概念がカリキュラム設計論の中核となる予定です。)


「ミニマリスト思考」「シェアを独占しない」

「子どもが学びを楽しめて、深く学べるようなカリキュラムをつくりたい」

僕のこの研究は本当に価値のある研究と言えるのでしょうか。なぜ、このテーマで研究する価値があると言えるのか。

こうした問いについて、研究する前にきちんと考えねばと思ったのが昨年末ごろ。

しかし情けないことに、まだ整理できていないどころか、むしろ沼にはまっています。。。


こういった哲学的な問いに強くこだわるのは、教育に対する僕個人の考えを最初に打ち出して、それを裏付ける「都合の良い」証拠ばかりを集めてくるような研究にしたくないからです。


そこで、自分に都合の良い研究にしてしまわないように研究を進めるためのポイントとして現時点で次の2点を考えています。

①何が「良い」学校教育かという様々な(対立的な)主張がある中でも、「少なくともこれだけは教育する価値がある」と言えるものに焦点を当てる(ミニマリスト思考)
②僕の提案するカリキュラム設計論は、ケースに即して他の様々なカリキュラム設計論と適宜組み合わせて用いられるべき「一つの理論」として位置づける(シェアを独占しない)


①について。

どのような教育をすることが「良い」かを一概に決めることはほぼ不可能でも、「何も教育を施さないくらいであれば、これだけは教育した方が良い」というものは何か。それを明らかにし、カリキュラム設計論の中核に据えます。

「これだけは教育した方が良い」ものって具体的に何なのか。

僕は、学習をうまく行っていくために必要な知識・スキル・考え方なのではと考えています。

公教育はすべての子どもに教育を受ける権利を保障するためのものなので、子どもたちが成長していくうえで「誰もが」必須とすることを学ばせるべきと言えるでしょう。

生きていくうえで読書算は大事だというのはその通りだと思いますが、現代では仕事にしても趣味にしても、また災害などの危機に直面したときにしても、何かをするには読書算ができるだけでは不十分なことが多く、人によって個別に必要とする知識技能を身につけていく必要があるように思います。そのために、「物事を学ぶためのイロハ」はすべての人が知っておいて一切損はないと言えると思います。

だから、僕は学習の動機づけやメタ認知といった教育心理学を参考に、自ら学んでいくことができる人を育てるカリキュラム設計論を開発することを目指そうと考えています。

そして、欲張らずそれ以上のことを目指さないようにすること(ミニマリスト思考)が大事だと考えます。その理由は次の②「シェアを独占しない」と関連しています。


②について。

最近、カリキュラム設計論を考えるときに「初めから『良い』ものをつくろうと考えなくても良いんじゃないか?」と思うようになってきました。

僕がこれからつくっていくカリキュラム設計論はあくまで「好きこそものの上手なれ」というコンセプトを持った、数ある理論の中の一つです。

この理論を「問題解消や教育改善に役立つ」として受け入れてくれる学校もあれば、この理論を必要としない学校もあるでしょう。

理論の良し悪しを決めるのは、あくまでその理論を実践する「現場」。

だから、僕の提案する理論は、それを必要とする現場でうまく活用してもらえればそれで十分なのではないかと。

もちろん、既存の他のカリキュラム設計論も加味して、現場に適した形でカスタマイズしてもらえるのがベストだと思います。

カリキュラムのコンセプトをはっきりと示して、現場で柔軟に活用できるように実践例を盛り込むなどができると望ましい気がします。

一つの理論で日本のすべての学校の教育を改善しようというのは非現実的に思われます。「好きこそものの上手なれ」と相反する教育理念(例えば他を重んじ、嫌なことでも我を抑えて勤めよというような校訓)を掲げる学校もあるでしょう。このような学校にまで僕の理論を無理に普及させるべきではありません。「好きこそものの上手なれ」の学校教育を目指していながら、それがうまく実現できていない学校にこそ行き届いてほしいのです。


以上、「ミニマリスト思考」と「シェアを独占しない」という考えに基づいて「好きこそものの上手なれ」なカリキュラム設計の理論を練っていこうというのが現在の僕の立ち位置です。

まだ理論の具体的な部分に踏み込めていないという非常にまずい状況ですが、研究の土台固めは確実に進められてきていると思います。

このnoteがみなさんにとって学校教育を考える一つのきっかけとなれば幸いです。

最後まで読んでいただきありがとうございました!


ーーー補足ーーー

*1 初発の問題意識は近代教育批判の観点から明らかにしていく方針です。具体的には、M. フーコー、P. ブルデュー、P. ジャクソン、M. アップルなどを参照する予定。

*2 教育心理学の領域からはB. ジマーマンの自己調整学習理論、E. デシの自己決定理論、他にD. N. パーキンスの性向概念などを理論の中核として検討する予定。

*3 「ミニマリスト思考」「シェアを独占しない」という言葉は自前の言葉で、他者の定義した用語ではありません。

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