ショパンの生家、最後のピアノ、そして心臓
ショパンの誕生日に、ショパンホールでショパンの曲に浸る、という最高のワルシャワナイトから明けた翌日、翌々日もショパン尽くしだった。
ショパンの生家がある村へ
数年前のショパン国際ピアノコンクール(通称ショパコン)から始まり、受賞したピアニストと日本の駅ホームでばったり遭遇して加速した、私のショパン熱を語っていたら、ポーランド人の友人が、ショパンの生家がある村へ連れて行ってくれるという。
ワルシャワから西へ約60キロ離れた、Żelazowej Woli(ジェラゾヴァ・ヴォラ)までドライブ。
チケットオフィスのオーディオルームでショパンの生涯を振り返る動画を見て涙目になりながら、広大な庭園の中を進むと現れるバンガロー。
建物は復元されたものながら、家具や内装は忠実に再現されているという。
展示内容から、当時の調度品がどのようなものであったかなどを知ることができる。だいぶいいところの子息だったのだろうな、などと考えながら思いを馳せる。
ショパンはきっと、父親の語学や音楽の才能、母親のピアノや歌の才能を余すことなく受け継ぎ発揮し、経験や苦悩を曲に表現する感受性と創造性を備えた人だったのだろう。
最後のピアノ
ワルシャワで迎えた最終日の朝、フレデリック・ショパン博物館へ。飛行機の時間が迫っており、残された時間は1時間にも満たない。ショパンゆかりの品々、自筆譜、私信、素描、ポスターなどが7,500点以上も収蔵されているという。
閑散期なのか館内は人もまばらで快適だったけれど、数十分でじっくり見るのは到底難しく、足早に周るしかなかった。
そんな限られた時間の中でも、「最後のピアノ」はひときわ、ショパンの存在感のようなものを感じる遺品だった。晩年の1848年から1849年に、演奏や作曲で実際に使っていたピアノ。ショパン亡き後は、人を介して実姉の手に渡り、そしていまはこの博物館に収められている。
この鍵盤を弾きペダルを踏んで音を奏で、曲を生み出していたのかぁ、と思うととっても感慨深い。
ショパンの心臓
最後は、ワルシャワ市内にある聖十字架教会。
1849年、故郷から遠く離れたパリで亡くなったショパン。彼の遺言により、心臓だけは実姉によってポーランドへ持ち帰られ、聖十字架教会に安置された。その後、第二次世界大戦下でも様々な人の手に守られながら、戦後、またこの教会に戻ってきたという。
1945年に観察されたときには、ほぼ完璧な状態で保存されていたという。死後100年近く経過してなお、実態として残されているとは、ポーランドの人々のなんという信念!
2014年に行われた調査では、死因が特定され、そして心臓はまた柱へ戻された。次に調査を行うとすれば、前回から50年後が提唱されているとのことで、それは2064年頃になるのだろうか…
ひょっとしたら私の人生より長く存在し続けるのでは、などと考えながら、ワルシャワトリップを締めくくる。
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