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宿災備忘録-発:第1章2話①

山護美影 9月19日生 22歳
 
保護者であった山護美代とは血縁関係なし。他、親族不明。
美代は湖野における山岳信仰の神官的存在として知られていた。
湖野の山岳信仰については別紙参照。
美影15歳の時、病死。
 
美代死去後、湖野の山岳信仰団体ツクモ支援者で、イシヨリグループ会長・石寄正蔵が未成年後見人となる。

高校卒業後、上京。石寄邸の敷地内、別棟に居住し、石寄邸にて家事手伝いをしていた。現在の住まいに転居したのはおよそ2年前。保証人は石寄氏。
 
転居後、石寄邸に半年通いで勤めた後、イシヨリグループ傘下の通信販売会社カスタマーセンターに就職。
 
上京後、帰省は一度もしていない。湖野在住で交流のある人間は、美代の死後に生活サポートをしていた石橋香織のみ。職場に親しい友人はおらず。恋人と思われる相手もいない。

***

テレビもパソコンもない、簡素な洋室。天板が綺麗に磨かれた応接テーブル。それを挟んで、ひとりで座るには余裕のある革製のソファーが一対。庭に面した縁側との境、閉じられた雪見障子。庭にある夏の緑の賑々しさは遮断できても、蝉達の合唱は、さえぎることはできない。
 
石寄正蔵は、先日完読した報告書に、再び目を通していた。報告されている内容は、自分が依頼をして得たものではなく、「流れ」として舞い込んだもの。数枚にわたる報告書には、大切な人間の、表面的な事実のみ綴られていた。
 
石寄は、眼鏡のレンズを通し、一文字一文字丁寧に拾い上げながら、視線を移動させる。上下運動を繰り返す眼球が文末に差しかかった頃、雪見障子の向こうに気配。顔を持ち上げると同時に、女の声が空間に流れる。
 
「槙様がいらっしゃいました」
「入ってもらいなさい」
 
はい、と小さな、しかしはっきりとした声。障子が開く。石寄は待ち人を視界に入れた途端、ソファーに沈めていた腰を浮かせ、さあ、と言うように手を差し出し、入室を促した。
 
「失礼します」
 
身を屈め、鴨居を避けて入室した男は、振り返り、廊下に膝をつけた女に頭を下げた。女はそれを受け取り、美しいお辞儀を見せ、障子を閉じた。
 
石寄は報告書を手早く折り畳み、テーブルの端に置いた。動作の邪魔をしないオーダーメイドのスーツ。ライトグレーを基調としたサマースーツの着こなしは、全く隙がない。
 
「朝早くに申し訳なかったね。今日は珍しく予定が、色々とね」
「いえ。こちらこそ、お忙しいところ、ありがとうございます」
 
男は頭を下げ、その姿勢のまま動きを止めた。数秒待っても変わらない姿勢に石寄が声を発しそうになると同時、男は頭を戻し、石寄と確かに視線を交えた。
 
「申し訳ございません。彼女と接触した際、怪我を負わせてしまいました。危険がないようにとの約束を守れず、本当に、申し訳ございません」
 
男は再び頭を下げた。石寄は、刹那驚きに息を奪われたが、ゆっくりと首を横に振り、男に笑みを送りながら口を開いた。
 
「頭を上げて。さあ、座って。座ってくれないか、久遠君。あの子は、まさか重体というわけではないだろう? どの程度の怪我だい?」
「右腕に、20センチ程の擦り傷が」
「擦り傷……それだけかい?」
「はい」
 
久遠と呼ばれた男は、ゆっくりと頭を戻した。
 
石寄は安堵に目元を緩め、その表情のまま久遠と向き合った。目の前に存在する男の表情は、限りなく無に近い。しかし目元を良く見れば、偽りない慙愧の念が見て取れた。男の実直さに、胸の中で拍手を贈る。
 
「わかった。仕方ないだろう。どんな初対面だったかわからんが、突然目の前に君達が現れたら、まあ、大抵の人間は驚くだろうしね……さあ、座って」
 
石寄が持つ音は、重ねた年月が滲み出た、皺枯れた響き。そこに混ざる鷹揚さ。その響きに乗った言葉に嘘はないと感じたのか、久遠は微かに表情を緩め、石寄の対面に腰を下ろした。
 
柔らかさとしなやかさの調和がとれた革のソファー。石寄は背を伸ばすように座り直すと、眼鏡を外しテーブルに置いた。
 
「それで、美影ちゃんは、今どこに?」
「僕の友人宅におります。傷の手当は済んでいます。接触以降、眠りについた状態にありますが、問題はありません。友人は医師ですので、異変があればすぐに対応します」
「なら安心だね……それで、何か感じたかい? 彼女に会って」
「はい」
「ではやはり、彼女を連れて湖野に行くんだね?」
「はい」
 
久遠の答えを受け、石寄は長いため息を零した。そして数回頷き、骨ばった指先を眉間に伸ばす。
 
石寄と久遠。2人の間に言葉の空白が生まれて間もなく。中庭に面した廊下に、人の気配が近づいた。
 
「お飲み物をお持ちしました」
「ありがとう」
「失礼します」
 
スライドした障子の向こう。廊下に膝をついた女。背筋の通った美しい姿勢。女は、それを保ったまま立ち上がり、畳の上を滑らかに歩いた。
 
「槙様には、先日と同じものをお持ちしました」
 
久遠が会釈を見せると、女はテーブルにアイスコーヒーを2つ置き、久遠のグラスの横には、ミルクとシロップのセットを添えた。
 
障子が小さく鳴って閉じ、女の気配が廊下から消える。待っていましたと言わんばかりに、石寄は久遠の後ろに笑顔を飛ばした。
 
「本当に気がつかないんだね……この前もそうだったが、この優越感は癖になりそうだ。自分の人生に、こんな夢のような、素晴らしい出会いが訪れるとはね。長生きはするものだよ。いやあ、80過ぎのの爺さんがはしゃぐなんて滑稽かもしれないが、本当に嬉しいんだよ」
 
乾杯、とでも言うように、石寄はグラスを宙に持ち上げ特上の笑顔を見せる。久遠の背後に佇む白装束の男は、気のせいかと思う程僅かに頭を傾け、石寄の笑顔に答えた。
 
結露を纏い始めたグラスに、久遠は手を伸ばさない。
 
「どうぞ。ぬるくなっては、アイスコーヒーの意味がない」
「ありがとうございます……早速ですが、お話を」
 
久遠は、テーブルの上の報告書に視線を飛ばした。
 
これから話す内容を察し、石寄はテーブルで休ませていた眼鏡をかけ、報告書を手に取った。
 
「私の知っている山護美影という人間、そのままだね。報告書としては地味なのかもしれないが、客観的な事実、そのまま。私との関係含め、依頼主が満足するかはわからないが、私は、これを書いた人間を好ましく思うよ。鷹丸君、だったね。本人に会ってみたいが、職業柄、顔を知られるのを良しとしないかな?」
「相手によると思います。会長であれば問題はないかと。本人に伝えておきます」
「ありがとう。しかし、夢にも思わなかったよ。まさか美影ちゃんが、私と美代さんの子だなんて疑惑が……鷹丸君が真実を捻じ曲げない人間で良かったよ。どこの誰が依頼をしたのか知らないが、全く、くだらないとしか言いようがない。何より、美代さんに失礼だ。彼女の生き方が、どれだけ過酷なものだったか……ああ、すまないね、年寄りの愚痴は聞き苦しいだろう?」
 
苦笑した石寄に、久遠は首を左右に一度ずつ、小さく、しかししっかりと振って見せた。
 
「報告書の内容以外で、彼女についてご存知のことがあれば」
「これ以上のことは……鷹丸君が作った年表があったが、私が知らないことまで書かれていたよ。学校での様子なんかは話す子じゃなくてね。私と美代さんは、本当にたくさんの話をしたよ。その話の中に、あの子はしょっちゅう登場していたんだが……そうだ、あれを持ってこよう。ちょっと待っていてくれるかい?」
 
久遠の微かな会釈を了承の合図と受け取り、石寄は部屋を出て行った。

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