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宿災備忘録-発:第3章3話

香織の美容室。店内にいるのは、香織と中森、2人だけ。リクライニングチェアで仰向けになり、人工の湿気を顔面に浴びながら、中森はゆったりと思考を巡らせていた。
 
自分は今、癒されている。自己治癒力は備わっているはずだが、心身共に、追いついていない気がする。特に、心の疲弊が著しい。自分は何のためにここにきたのか、中森は考えている。不安を抱えた美影を、僅かながらフォローするつもりだった。しかし、特段役に立った感触はない。
 
他者と向き合って問題を解決していくためには、エネルギーが必要。エネルギーを生み出すには、自信が必要。それが不足していることを、中森は自覚している。空気中に含まれた、なんらかのエネルギーを求めて、大きく息を吸い込んだ。と同時に、カチッと小さなスイッチ音。顔を包み込んでいた心地良さは消失。瞼を持ち上げ宙に視線を走らせるが、ピントは合わない。メガネは香織に預けてある。
 
「いかがでしたか、お客様」
「もう終わり?」
「スチームは終わり……でもほら、まだこれがあるから」
 
香織は化粧水の瓶とコットンを、中森の顔に近づけた。
 
「少しリラックスできた?」
 
穏やかに降り注いだ声に、中森は仰向けのまま、首を縦に動かした。香織は目元を緩ませ、指に挟んだコットンに、化粧水を惜しみなく含ませる。
 
「では、目を閉じていただけますか」
 
抵抗することなく、中森は瞼と口を結んだ。微かに香るシトラスフレーバー。うるおったコットンがスルスルと肌をなぞる。目を閉じたまま、コットンに撫でられること、数分。リクライニングチェアは、直角近くまで起き上がった。
 
「お疲れ様でした。さて、いかがでしょうか。お客様」
 
差し出された眼鏡を装着し、中森は鏡の中の自分と対面。
 
「あれ……なんか若くなった?」
「やっぱりね。男性のほうが効果あるんじゃないかと思ってたのよ。たまにはしっかりお手入れしないとね」
「鏡ってめったに見ないんだけど、たまにはじっくり見てみるもんだね。自分で思っているより老けてる」
「結構気にするほう?」
「そうじゃないんだけど、鷹丸君よりは若いかなーって思ってたから」
「鷹丸さん?」
「僕ら同級生なんだ」
「ウソ! じゃあ中森さん、36?」
「先月37になったよ。鷹丸君は11月生まれだから、僕が今は年上」
「うわ、ちょっと衝撃……実はね、中森さんのほうが私より下かもって思ってたの。ちなみに私、32」
「そのくらいかなって思ってた」
「喜んでいいのかしら?」
 
中森と香織。視線を合わせたまま、数秒の空白。どちからからともなく笑いを零し、年齢の話題はフェードアウト。
 
中森は、鏡に映りこんだ香織に視線を投げた。使用済みのコットンを片付ける香織の横顔。どことなく、陰りが見える。
 
【本日休業日】の札をかけているにも関わらず、店内には明るいBGMが流れている。陽気なポップスは、まるで気持ちが沈み込まないようにという配慮のような気がして、中森は改めて、自分の顔を鏡に映した。
 
いつもと変わらないように見える。しかし、心は常に、あの2人の安否を気にかけている。大丈夫、と思えば思うほど、自分の想像の及ばない場所へと向かった2人の身が案ぜられる。やめようと思っても、何度もため息を零してしまう。
 
「中森さん、テレビつけてもいい? そろそろ夕方のニュースだから」
「うん。天気も気になるし」
「そうね……」
 
香織の目元。刹那の不安色。それを誤魔化すように大きな瞬き。香織の右手は素早くリモコンへ。BGMが止み、代わってローカルニュースがテレビ画面に出現。画面の左上。イラストで表された天気予報。傘のマークがしっかりと映し出されている。
 
「やみそうにないわね」
「うん……」
 
美影と久遠の背中を見送って3時間が過ぎた。もう3時間なのか、まだ3時間なのか。降り続ける雨は遠慮を知らない。店の外に広がる景色は重い灰色。
 
盆の期間とあって、向かいの衣料品店も、その隣の菓子店もシャッターを下ろしている。活気が失われた隙に、陰気が寄りついたような印象。
 
2人とも口を噤んだまま。アナウンサーの明瞭な声が場を繋ぐ。そうしている間に、本格的な天気予報がスタート。案の定、雨は深夜まで降り続くらしい。
 
「せめて雨足が弱くなるといいんだけど」
 
呟いた香織の横顔。その唇が完全に閉じる前に、中森は質問をぶつけた。
 
「山護美代さんのこと、聞いてもいい? 前も聞いたけど、もっと知りたくて」
「美影ちゃんには、聞いてないの?」
「それどころじゃない、って感じだったから」
「そっか」
 
そうだよね、と呟いて、ため息。そして、
 
「美代さんは、ひとりで生きる辛さとか孤独とか、そういうものを超越してるって感じ……美代さんが山護になったのって16歳なんだって。山護って、元々は苗字じゃなくって、ずっと昔は、山護っていう立場になる時に、苗字も名前も捨てたんだって。美代さんは、山護に選ばれた時に、前の山護だった人のところに養子に入ったらしいわ。それで苗字を変えて……私だったら無理。身内にも友達にもほとんど会えないし、恋人も作れない。結婚も、出産もしない。美代さんが美影ちゃんを育て始めた時は60歳。それまで、あの山奥の家でたったひとり。私がもし美代さんと同じ立場になったらって、想像しただけで……美代さんは、なんであんなに強くいられたんだろうって、考えちゃう。強くて、とっても優しい人だった」
「強くて、優しい?」
「優しさって強さから生まれると思うの。心の強さ。だから自分を殺して相手に尽くせる。ううん、尽くすっていうのとも違うのかも。そうすることが当たり前で、幸せだって思える人だったのよ、きっと。美代さんは、自分のことはいつも二の次だった」
「石寄会長は、そういうところに惹かれたのかな?」
 
中森が零した言葉に、香織は凛と整った目元を大きくした。
 
「あ、いや違うよ。惹かれたって、そう意味じゃなくて」
「大丈夫、ちゃんと通じているから……会長の奥さんってね、随分若い時に病死したの。会長は再婚せず、お子さんもいなくて、ずっとひとり。美代さんとは同い年みたい。美代さんと会長って、なんか似てる。会長も強くて優しい人だから」
 
香織は音をとめ、視線を下げた。小さく息を吐いて、ぽつり。
 
「美影ちゃんから聞いたの」
「え?」
「どうして湖野に帰ってきたのかって。山護の家を出る前に、話してくれた」
「そう……香織さんは、どう思った?」
「そりゃあ、あらそうなのね、って簡単に飲み込める内容じゃないわ。でも、やっと、って感じかな」
「やっと?」
「やっと向き合ってくれた、って思ったの。あの子、自分の生い立ちを探らないように生きてたんだと思う。美代さんとは血が繋がってないって子どもの頃から知ってたし、周りから浮いていることも自覚してた。でも、自分は自分、って割り切って生きていこうとしてたんだと思う。美代さんも血の繋がりなんて気にしてなかったし、美影ちゃんを本当に大事に思ってた……互いの気持ちが繋がっていれば、それで良かったのよ、あの2人は。でも、今回強制的に知らされちゃったから」
「それは、本当にごめんなさい」
「むしろ感謝かも。おかげで私も、あの子の口から色々と聞けたし……ビックリしたけど、話してくれて嬉しかったしね」
 
音を止め、香織は視線を鏡の中へ。中森は香織の口が再び動く時を待ち、ただじっと、その横顔を見つめ続けた。僅かに潤んでいるようにも見える香織の目元。唇は結ばれ、音を発しない。
 
BGMと化したローカルニュース。音を強めた雨。重なる電子音。音の発生源は中森のスマートフォン。
 
「鷹丸君から……お疲れさん。用事は済んだから一度ビレッジに戻って菊谷食堂に行く。夕食はそこで済ますから、そっちには寄らないよ。だって」
「あら好都合、って言ったら申し訳ないけど……実はね、向かいのお菓子屋さんの特製ゼリーが2つしかなかったの! 持ってくるわね。飲み物は紅茶でいい?」
「うん。手伝うよ」
「簡単だから平気。ありがとう」
 
香織は2階へ。わざとらしいほど軽快な足音に、中森の胸が軋む。2人分のゼリーは、美影と食べるつもりだったのだろう。
 
頭上に香織の気配を感じながら、中森は鷹丸からのメッセージを読み返した。香織には伝えなかった後半部分に、視線が留まる。
 
 
うまくやれよ笑
 
 
なんとも緊張感のない文末に、小さな笑いが生まれる。鷹丸らしい配慮だと思ったが、中森はむしろ、鷹丸の心情が気になっていた。
 
夜神楽の後の鷹丸は、どこか弱々しく、思考の大半を誰かに奪われているように見えた。誰かの正体は、容易に想像がついた。鷹丸が抱いている感情は、罪悪感なのか。それとも、一種の愛情がもたらす不安なのか。どちらであろうと、抱いた感情を僅かでも共有できるかもしれない。否、共有させて欲しい。中森は、自己満足とも呼べる思いを鷹丸に吐露していた。
 
そんな中森の自己満足に、鷹丸は応えた。そうして受け取った真実は、中森の中に決定的な無力感を芽生えさせた。鷹丸から受け取った真実。それを、これから香織に伝えようとしている。香織の反応を予想し、鼓動は加速。
 
中森の頭の中には、鷹丸が綴った依頼主宛の【最初の報告書】が、きっちりと書き写されている。香織は、美影から話を聞いたと言った。一体どこまで。全て話したのか、否か。美影が知って欲しくないと話し留めた部分まで明かすことになるかもしれない。
 
模索する中森。その耳に、軽やかな足音が飛び込んだ。香織がトレイを手に戻る。ガラス製の器に盛られた薄黄色のゼリー。湯気がほどよく飛んだ、琥珀色の紅茶。テーブルに乗った、可愛らしさと品の良さ。それらを前に話すには、ふさわしい内容ではない。しかし中森は、話すと決めた。
 
「……あのさ」
「ん?」
「あ、いや、その……お盆休みって、いつまで?」
「え?」
「あ、えっと、僕が湖野にいる間、ずっと香織さんに相手してもらうのも、なんか悪いかなぁ、なんて……店も開けなきゃいけないよね?」
「それは、そうね……じゃあここにいる間、おばあちゃん達の話し相手になってくれない?」
 
予想もしなかった提案に、中森は言葉を失った。生まれた言葉の空白を、香織が笑顔で満たす。
 
「近所にあった診療所、去年廃業しちゃってね。おばあちゃん達、県立病院までは行きにくいみたいで……健康相談的なお話でいいから、相手してもらえたら喜ぶんじゃないかな? そしたらお客さんがきても、中森さん堂々と店にいられるじゃない。診察しなくても、話すだけでいいから」
「でも、僕でいいのかな。もう何年も患者さんと向き合ってないし」
「お医者さんと話せるっていうだけでも安心すると思うわよ。おばあちゃん達に人気でそうな雰囲気だし」
「え?」
「まあそうガチガチに考えずに、ご検討下さい……はい、ではでは前フリはこの辺にして、そろそろ話してくれてもいいんじゃない?」
「何を?」
「とぼけちゃって……私が美影ちゃんから聞いた話、以外のこと。あの子、多分全部は話してない。中森さんも鷹丸さんも知ってるんでしょ?」
「あー……お見通し? 凄いな」
「私だけ仲間外れなんて寂しいし、正直ムカつくわ」
 
刹那目元に浮かべた鋭さを紅茶の湯気で隠し、香織はカップに口をつけた。ゴクゴクと飲んで、カップを置くと、銀色のスプーンを手に取った。
 
「食べ終わる前に話し始めてね。美容師ってね、食べるスピード速いんだから」
 
ゼリーを口に運び始めた香織の手。言葉通り、テンポが速い。
 
中森は乾いた口内を紅茶で潤した後、高鳴る鼓動に使命を伝えた。これが僕の役割、このために僕はここにいるんだよ、と。


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