まつりのあと:1_②
座敷と奥座敷を繋げた二十畳のスペースに、弔問客は入りきらなかった。縁側を解放し、廊下に隣家から借りた座布団を敷き、それでも息苦しさが見て取れた。父の人脈には今更驚かない。ただ、本気の涙を見せる人がいることに驚いた。
その中のひとりが、なぜか気になった。女性。母よりは若く、私よりは確実に年上。黒髪のセミロング。小柄で華奢。隣には学生服姿の少年。息子だろうか。うつむいているから、顔はよく見えない。
気になったのは、女性が号泣しているからという理由ではなく、一種の予感のようなもの。随分前に兄が零していた、現実かもしれない【まさかの話】を、思い出したから。
『よそに家庭があるのかもね。だから俺達は、こんな感じにされてんだよ』
兄の言葉に私は、そうかもね、あってもおかしくないかもね、と相当軽い反応を示した。どうでも良かったから。例え二つ目、三つ目の家庭があったとしても、兄妹がいたとしても、この家での私の立場は変わらない。父の不貞を嘆く愛情もない。ただ、そんな真実があるとすれば、決して母には知られたくないと強く願った。それは今でも、しっかりと覚えている。
今は、母も兄も姉も、不在。急逝の知らせを受けたのは私だけ。父の手帳には、私の電話番号しか記されていなかった。
兄は海外にいる。姉は東京で幼子を二人育てている。母は取り戻した独身を楽しんでいる。全員に連絡はしたけれど、行けない、もしくは行かない。予想通りの言葉が返ってきた。仕方がないと思った。
私はこれから、集まった他人の前に立ち、感謝の言葉を口にし、父の在りし日の姿を語り、涙を誘わなければならない。相当な負担ではあるけれど、娘としての最後の役割だと思えば、顔を上げていられるだろう。
自由になるってこういうことなのかな
とんでもなく不謹慎なことを考えてしまった。自嘲なのか、自責の念への防衛本能なのか、笑いが零れそうになって、私は白いハンカチで口元を覆った。
***
父は骨になり、小さな箱に入れられて、私の腕に抱かれている。白木の箱は軽くて、そこに収められているのが父の全てだとは、とても思えなかった。
納骨を済ませ振り返れば、墓地の入り口まで黒い列が続いていた。
この人の、どこが好きなのですか?
どこに惹かれたのですか?
ひとりひとりに聞いてみたい。私に父の魅力を教えて欲しい。どなたか教えて下さい。そんな願いを胸に抱きながら、列に向かって深く頭を下げ、墓石の前をあける。
墓前に向かう人々の邪魔にならない場所に立ち、人が前を通るたびに頭を下げる。そういう役割を与えられた人形になった気分。幼い頃から私達は父の人形だったのだから、今更悲しくもない。
『みんな、お前らのことは知ってるからな』
その言葉を何度聞いただろう。俺の子と認識されている以上みっともない真似はするな、恥をかかせるな、優秀でいろ、何事にも全力で取り組め、などという父の勝手な思い、否、命令が込められていると私達は理解していた。
兄と姉は、それを実行していた。二人の前歯が直線に近いラインを描いているのは、歯を食いしばって生きてきたから。私の前歯は、緩やかなカーブを描いた愛嬌のあるライン。これが、私と兄姉との違いを物語っている。
二人とも頑張り過ぎなんだよ
私は、運動会が嫌いだった。学芸会が嫌いだった。廊下に貼りだされるテストの順位表も。実力の差が誰の目にもわかる物事は大嫌いだった。けれど父の言いつけを守って頑張ってきた兄姉のことは大好きだ。死ぬまで変わらないと断言できる、数少ない私の中の真実。
兄と姉は年子で、私と姉は五歳離れている。物心ついた時、二人は既に子供ではなかった。兄は私の勉強を良く見てくれて、テストの点数が上がれば褒めてくれた。姉は私の拙い人形遊びに付き合ってくれて、働いていた母の代わりに一緒に布団に入ってくれた。
私は二人に育てられたと思っている。だから今、ここに二人がいない現実を、微塵も責めるつもりはない。むしろ喜ばしいくらいだ。二人はやっと、本音で生きられるようになったのだから。
「晴菜」
懐かしい声がして、私は顔を持ち上げた。ヒゲ面のがっちりとした男と、どこか儚げな雰囲気を持った女。近づいてくる幼なじみの姿に、思わず頬を緩めてしまった。ヒゲ面が私の右に立ち、静かに口を開く。
「……ビックリしたよ」
「何で浩太が?」
「いやビックリするだろ。この前帰ってきた時、師範と飲んでさ、そん時は、めちゃめちゃ元気だったから」
「そうなんだ……わざわざ帰ってきてくれて、ありがとう」
浩太の分厚い手が肩を叩く。重みと微かな痛みが骨にダイレクトに伝わる。私は少し、痩せたのかもしれない。
痛みがまだ消え失せないうちに、同じ場所に、そっと温もりが触れた。
「ハル……大丈夫?」
「平気。真子も、ありがとうね」
「やめてよ、くるに決まってんじゃん……ハルは、いつまでいるの?」
「まだ決めてない……真子は?」
「明日の夕方、帰るよ」
「もしかして、今日夜勤明け?」
「うん。でも大丈夫だから」
「ありがとう……今夜、時間とれたら電話していい?」
「うん…………あのねハル……私、師範に」
真子の言葉は繋がらなかった。ぎゅっと口を結んで、目に貯まった水滴を落とさないように天を仰ぐ。泣いてくれて、全然構わないのに。
浩太と真子は、父の道場で剣道に励んでいた。私とは同級生。浩太は体が大きくて腕も長くて、父は随分と期待していた。けれど性格が優しいせいか闘争心に欠けて、目立った成績は残せなかった。
真子は小柄だけれど俊敏で、自分より大きな相手にも果敢に攻めかかる姿勢を持っていた。負けず嫌いで、試合に負けるといつも目を真っ赤にしていた。浩太も真子も、父の愛弟子と呼んで間違いない。二人の方が私よりも、父と過ごす機会が多かったかもしれない。
幼なじみとのしんみりとした再会の途中で、列の後方がざわめき出した。何事かと視線を振れば、男ばかり三十人ほど、列に加わっていた。
やっぱりきたか
浩太と真子を残し、男達のところへ。
男達の風貌は、堅気と断言するのを迷わせるものだった。その先頭に立つ老齢の男に、私は視点を定めた。男は深々と頭を下げた。参列者に頭を下げながら、男のもとに向かう。先に口を開いたのは、男。
「初めまして、加島です。お父様には、大変お世話になっておりました」
「初めまして、娘の晴菜と申します」
言葉を切り、 少し待ったけれど、加島は何かを必死で堪えている様子で、口は開かれるどころか、きつく結ばれたまま。
「……父が、大変お世話になりました。遠いところ、本当にありがとうございます。皆さんも、ありがとうございます」
加島の後ろに並ぶ男達は、野太い声で挨拶らしき音を上げながら、次々に頭を下げる。それはまるで、任侠映画の一場面のよう。父が憧れた世界を、まさか墓地で見るはめになるなんて。
「お嬢さん」
加島の呼びかけに、思わず顔が緩んだ。やめて。本当に、そういう世界の話になってしまいそう。
「名前で構いません。何でしょう?」
「ああ……さすがですね。落ち着いているようで、安心しました」
「気にかけて下さって、ありがとうございます。加島さん達がきて下さって、父も喜んでいると思います」
定型文を口にし、再び頭を下げると、加島の革靴が目にとまった。途端、磨かれた皮の表面に歪な水玉模様が描かれ、思わず加島の顔を覗き込んでしまった。
「申し訳ない……笑顔でお別れをと思っていましたが……申し訳ない」
「いえ……ありがとうございます」
加島は然程背は高くないけれど、肩幅があり、老齢ながらもたくましいといった印象。スキンヘッド、白くなった眉、皺の刻まれた頬。この男が前から歩いてきたなら、大抵の人間は、不自然にならないよう注意を払って目を逸らすだろう。
貴方も、泣くんですね
そんな男だから涙が似合わないということではない。他人と父との時間を、繋がりを、私は余りにも知らないのだと、改めて思い知らされた。
加島は目元に滲んだものをハンカチで拭い、ふうっと長い息を吐いた。タバコとアルコールが混ざった匂い。父の匂いに似ている。
私は加島に頭を下げ、もとの場所へ。浩太と真子は、予想通りの固まった表情。二人とも、ほんの僅か立ち位置が下がっている。
「ごめん、お待たせ」
「あれ、何の人達?」
「何の人達って……言い方気をつけて。大丈夫、そっち方面の人達じゃないから」
「いや、見た目完全にそっちだろ」
「見た目で言ったら師範だってそっちの人じゃん。あの人達は、土木関連会社のみなさん」
「土建屋か」
「言い方、気をつけて」
小さく話す私達に、参列者の視線がチラチラとぶつかる。そりゃあ後ろの集団は、おおいに気になるだろう。けれど私がここで説明することではない。加島達に失礼だし、墓前に向かう人のほとんどは、本当に今だけの付き合いなのだから。
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