風、凪ぎの朝に問う・3
「変わりはないか?」
「はい。貴方もお元気そうで、なによりです。こちらには、いつまで?」
「用事を済ませたらすぐに」
「奥方様への手土産をお買いになる?」
「先に、先代に挨拶を」
男は次の言葉を紡がず、灯馬もまた音を止めた。杉の葉が囁きを上げ、男の視線を奪う。
目の前で、杉の木立を眺める男。男の面立ちに、灯馬は少年を重ねた。よく似ている。否、よく似てきた。軽やかになびく黒髪。物憂げな、しかし意思の強い目元。無愛想に閉じられた口元は、正に生き写し。
「あそこなら、街が一望できるな」
「お供しましょうか?」
「いや、いい」
男は灯馬の申し出を断り、右手を自らの首に運んだ。
「これを」
首から皮紐を外す。括りつけられているのは、小さな二枚貝程の大きさの、透明な石。
灯馬は石を数秒見つめた後、男の手からそれを受け取った。まだぬくもりが残る石を右手で包む。
「また、会わずに行くのですね?」
「預かっていた物として、機をみて渡してくれるか?」
「かしこまりました……気宿石。持つ者の気が宿るなんて、不思議な話ですね。これはまだ無垢……いえ、貴方の親心が宿っている」
「いずれ、彼奴の気に染まる」
呟きに近い男の響きに、灯馬の口角が持ち上がる。それを男の視線に捕らえられ、思わず声をもらした。
「すみません、口調が余りに似ているもので……本当に、親子というのは側にいなくてもこんなにも似るものかと」
小さな笑い声は風に紛れ、瞬く間に遠ざかる。灯馬は丁寧に頭を下げ、ゆっくりと持ち上げ、再び男と視線を交えた。
無に近い佇まいを持った男は灯馬から目を逸らさず、口元を動かした。
「その呪縛を解くつもりはないか?」
「呪縛?」
「その装束だ。君に似合う着物は他にもたくさんあるだろう?」
「それには及びません。私がこれを選んだのですから……特段気に入っているわけではありませんが、私なりの理由があります」
「それは知っている。君が放った災厄は多くの命を奪った。その事実は消せるものではない。だが、自身を呪うような真似は、もうやめたらどうだ?」
「……お辛いですか? 私の姿を見るのが」
笑みを携えた灯馬に対し、男の表情は無から動こうとしない。しかし、眼差しに込められた実直さを、灯馬は確かに受け取った。
男は灯馬の問いに答えぬまま、白み始めた空を見上げ、息を吐いた。視線の先を横切るカラス。声を上げず、羽ばたきだけを残して去る。
石を胸元にしまい込み、灯馬は男の左に並んだ。右に顔を振ると、作務衣に隠れた男の肩に目線がぶつかった。
「ご子息は最近、私と目線が合うようになりました。六尺弱というところですね。貴方に比べれば小さいですが、中学二年生の平均身長はとうに超えています。おそらくあと数年で貴方と目線が合いますよ」
「そうか…………彼奴もわがままだろう。苦労をかける」
「感謝しています、私に託して頂いて。おかげで私は孤独ではありません。それに、わがままだと思った事はありませんよ。勿論、貴方に対しても」
灯馬はゆるりとした動きで、男の隣を離れた。それを合図に、男の足が動かし始める。足音を残さず、気配が遠ざかる。その背中に一抹の侘しさを感じながら、灯馬は空を仰いだ。
灯馬、いずれまた
宙を揺るがさずに届いた声。思わず振った視線の先に、男の姿はない。
消えた背中を追わず、灯馬は宙に舞った。枝に腰を下ろさず、杉の天辺を越えて空へ。風は凪の絶頂。差し込む光が青を白に塗り替えていく。
私は幸せです
男に会う度、渡し損ねる言葉。伝えてしまうとニ度と会えないような気がして、音にする事を躊躇う。そう感じている事を悟られたくない。これは、ある種の偽りなのか。ならばやはり、己の全てを曝け出すのは困難極まりない。
(私も、まだまだ人間臭いですね)
風は雲の歩みを速め、朝日は筋を描いて存在を主張する。それは偽りない、自然の流れ。そこに到達しようなど、驕り以外の何ものでもない。
(人は人のもとに帰るとします)
そろそろ、目覚めるであろう少年のもとへ。灯馬は、いつもよりほんの僅か綻んだ目元を携え、宙を渡り始めた。
風、凪ぎの朝に問う・完
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