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宿災備忘録-発:第3章1話②

平静を装う美影の隣で、鷹丸は短くなったタバコを携帯灰皿でもみ消し、最後の煙を吐いた。タバコの匂いが、蚊取り線香の香りに、僅かに勝利する。
 
「なあ、ちょっと一方的に話していいか?」
 
腰を上げた鷹丸。その足が縁側を踏み締め、板が軋む。美影は、足音が座敷に移動したのを確認した後、少し顔を持ち上げた。しかし振り返らず、中庭の低い場所に視線を飛ばす。
 
「久遠みたいなヤツは損だよな。相手を思いやっても伝わらない。でもアイツはそれでもいいと思ってる。自分のすべきことをしてるだけだから。でも俺は、イヤなんだよ……」
 
鷹丸の音が止まった。美影はほんのわずか、身を捻って背後の気配を意識した。
 
「久遠君という男の子が、ある女の子と出会いました。その時久遠くんは、女の子に怪我を負わせたうえに、その子が持っていた食べ物まで台無しにしてしまいました」
 
鷹丸の語り口は、まるで幼稚園の先生。美影は頭を起こした。語られた内容に、心当たりがあるから。
 
「久遠君は申し訳ないことをしたなと思って、女の子が買ったのと同じ食べ物を、スーパーの開店に合わせて買いに行きました。でも、あれは午後からの販売ですよと言われて、お家に帰りました。そして午後になって、もう一度スーパーに行き、やっと目的の物を買ったのです。それを女の子に食べてもらう予定でしたが、女の子は夕食に現れませんでした。久遠君は夜中まで女の子を待っていましたが、ついに女の子は姿を現しませんでした。おしまい」
 
美影は振り返り、鷹丸の姿を捉えた。
 
畳の上にあぐらをかいた鷹丸。日焼けした顔に備わった、彫りの深い目元。鋭い眼差しが、ふっと緩む。
 
「何の話か、わかるよな?」
「……はい」
 
あの日のことを、忘れるわけがない。自転車で転倒する前に、美影は最寄り駅のデパ地下で、自分へのご褒美を買った。量り売りの生ハムサラダ。野菜たっぷりのサンドイッチと、ノンアルコールカクテル。デザートはカットフルーツ。給料日だけの贅沢メニュー。自転車のカゴに積んでいたそれらは、転倒した時に散乱。拾う間もなく、美影は意識を失った。
 
中森の家で目覚めた、あの日。確かに久遠は一度姿を消し、夕方に戻ってきた。帰宅時の久遠の姿は見ていないが、鎖火は、中身を見せて、と騒いでいた。
 
 
――同じものを買ってきていたの?
  悪かったと思って?
  そんな
  まさか
 
 
「アイツはアイツなりに歩み寄ってんだ。ちゃんと向き合って話せてたら、こんな危ない目には遭ってなかったんじゃないかって思った、って話」
「……でも、そんなの」
「言われなきゃわかんないじゃないですか、か? だよな、言われなきゃわかんねぇんだよ。アンタがわかんねぇみたいに、久遠だってわかんねぇんだよ」
 
鷹丸の目元。浮かんだ厳しさ。美影は言葉を返さず、頷きも見せず、顔を庭に向けた。美影の中。込み上げるのは、悔しさと恥ずかしさ。
 
久遠が真剣であることは理解していた。しかし、態度や言葉遣いを受け入れられなかった。抑揚のないあの声で、変化のないあの表情で、自分の言葉をはね返されるのが嫌だった。それは自分の非なのだろうか。自分が前に進むためには、そのぐらい我慢すべきだったのだろうか。
 
 
――そもそも始まりはそっちなのに
 
 
ことの始まりを思えば、ますます自分の非を認められない。数日間溜め続けたストレスは、想像以上に大きな波となって美影の涙腺を攻撃する。美影は膝に顔をうずめた。まるで子ども。しかしそれ以外の逃避方法が、見つからなかった。
 
声を殺し、鼻をすすり上げる美影。その背後で、足音。近づく気配に顔を上げず、美影は自分の脚を抱え込んだ。気配は美影の後ろで止まり、鷹丸の音が降り注ぐ。
 
「こんな状況に追い込んでおいて、相手の気持ちをくめなんて理不尽だよな……説教するつもりじゃなかったんだが……すまん。いや、なんだ、だからあれだ! 久遠とちゃんと話せってことだ。アイツはああいう感じだから、話しても無駄だろうって諦めてんのかもしんねぇけど、アンタのこと、ちゃんと考えてんだ。じゃなかったら、アンタ今ここにいないかもしんねぇだろ。アイツじゃなきゃアンタを見つけられなかった。だから……って、また説教臭くなりそうだな。あー……やめる……とりあえずメシ食おうぜ。お嬢がはりきって作ったんだ。メニューは……とっくにバレてんな」
 
料理の匂いは、しばらく前から縁側に届いていた。白米が炊ける匂いと、鼻を刺激するスパイスの香り。それは混乱する美影の脳に刺激を与え、空腹を自覚させた。
 
涙で湿った膝から、美影は顔を離した。縁側に吹き込む風は、目元の熱感を奪って去る。折り畳んだ足を庭に落とし、鼻をすすり上げて数秒後、美影は縁側に立った。視界の端に鷹丸を捉え、無愛想な呟きを。
 
「やっぱり……失礼なのか親切なのか、わかんないです」
 
鷹丸の反応を待たず、美影は靄に遮られた記憶に一旦背を向け、茶の間へと足を進めた。
 
山護の家にカレーの匂いが広がり切った頃、玄関の引き戸が静かに音を立てた。玄関に一番近い鷹丸が素早く振り返り、間仕切りの障子を開けた。土間に、久遠の姿。
 
「おう、おかえり」
「ただいま戻りました」
 
中森と香織も、おかえりなさい、と笑顔で迎え入れ、美影は小さくおかえりなさいと言ってはみたが、久遠の顔をまともに見られなかった。
 
「久遠君、お腹空いてるよね。香織さんのカレー、すっごく美味しいよ」
「あら、嬉しい。今、持ってくるね。大盛りにする?」
「はい。お願いします」
 
了解、と言って、香織は台所へ。それを追うように、鷹丸はからになった皿を手に、台所へと向かう。
 
「ごちそーさん。さぁて俺は縁側でゆっくりと一服でもするかぁ」
 
鷹丸のわかりやすい配慮を汲み取り、中森は久遠に笑顔を向け、鷹丸が去った場所に座るよう促した。
 
火のない掘り炬燵の挟み、久遠は美影の左隣に。白いTシャツにジーンズ。いつもの黒色がない違和感。美影は体を久遠に向け、頭を下げた。
 
「助けてくれて、ありがとう。シャツも、ありがとう……でも私、なにも覚えて」
「すまなかった。大きな怪我がなくて良かった」
 
美影の言葉を遮って発せられたのは、謝罪の言葉。何がすまなかったのか、美影には理由がわからない。
 
「お待たせしましたぁ」
 
理由を尋ねる前に、香織の軽快な足音が茶の間に戻る。
 
「カレー、まだたくさんあるからね。デザート代わりにトマトの砂糖漬けも作ったの。トウモロコシもそろそろ蒸し上がるから、持ってくるわね」
 
香織を追って立ち上がろうとした美影を、中森の右手が制する。
 
「僕が行くから。山護さんは座ってて」
「でも」
「ありがとう、すまなかった……それを聞けただけでも満足かなって思ったけど、2人とも、もう少し頑張れるよね。なんでもいいから、とにかく伝えようと思った言葉は音にして。勇気を出して声にすればいいんだよ、って自分で言っといてなんだけど照れるね、熱血教師みたい」
 
中森は、美影と久遠の顔を交互に覗いた後、台所へと足を向けた。明るい気配が去り、静寂。カレーから立ち上る湯気の音が聞こえそうなほど。
 
美影は、喉の渇きを覚え、ぬるくなった水道水に口をつけた。ほぼ同じタイミングで、久遠の右手が動く。
 
「いただきます」
 
小さな、しかしはっきりとした挨拶に続き、すらりと長い指がスプーンを持ち上げる。食事の始まりも、やはり静。
 
美影は何となくコップに手を触れたまま、行き場に迷った視線をテーブルに。テーブルを這う視線は、微かな気配に吸い寄せられ正面へ。いつの間にか現れた白。灯馬。柔らかさを携えた目元。緩やかに持ち上がった口角。
 
「気分は、どうですか?」
「なんともない……あ、あの、ありがとう、って言うか、ごめんなさい。色々心配かけたみたいで。でも、なにが起きたのか、全然思い出せてなくて」
「謝るのは私達のほうです。もっと考慮すべきでした。湖野の伝承は、伝えられるべくして伝えられたものであり、美代さんが貴方をこの町から遠ざけた事情は、まさにそこにあったのだと、そこまで思い至りませんでした」
「えっと……灯馬の事情は全然わからないんだけど、でもやっぱり、私に責任がある、と思う。もっと色々話せてたら、気づけたこともあったかもしれないし……だから、なにがあったのか早く思い出したいんだけど」
「申し訳ありません、自分の言いたいことを一気に話してしまって……順を追ってお話ししようと思っていたのですが、私もまだ、動揺しているようです。貴方に何が起こったのか、私も久遠も、完全にはわからないのです。こうだったのではないか、と予想は立てられますが……ですから、貴方の記憶を辿りに行きましょう」
「記憶を辿る? そんな方法が?」
「きっと取り戻せます。そのような仕組み、といいますか、仕掛けがなされていると、私達は思っています。でも、まずは食事を済ませましょう」
 
どうぞ、というように、灯馬は美影の前にある皿を手の平で示した。カレーがまだ、残っている。美影は頷いて、スプーンをとった。
 
美影がカレーを食べ始めるのを見届け、灯馬は視線を久遠に移す。
 
「このあたり一帯に、また零念(れいねん)が増えました。祓っておきますか?」
「そのままでいい。祓い方を教えながら行く」
 
れいねん。初めて耳にした単語に、美影は強く反応を示した。それが何かを尋ねる前に、足音が近づいた。
 
「はいはーい、トマトの砂糖漬けと、蒸し立てのトウモロコシよ」
 
美影は思わず灯馬の所在を確認した。ついさっきまで正面にあった白は、消えていた。
 
テーブルに鮮やかな色彩を並べ、香織はいつも通りの華やかな笑顔を残し、台所へ。久遠の皿は、間もなく空に。ほぼ同時に、美影もカレーを完食。
 
「ごちそう様でした」
 
挨拶に続いてコップの水を半分ほど飲み、久遠は息もつかずに言葉を零した。
 
「雨が降り出したら、お前の記憶を辿りに行く。いつ戻れるかわからない。今のうちに食べておいたほうがいい」
 
言い終えた久遠。その手が伸びたのは、積み上げられたトウモロコシの山。頂上に置かれた1本を取り、半分に折る。
 
「1本は多い……半分、食べるか?」
「あ、うん……いただきます」
 
差し出されたトウモロコシを受け取り、美影は背筋を伸ばした。いつもの黒いシャツがないせいか、久遠を取り巻く空気が、どことなく柔らかい。
 
黙々とトウモロコシを食べる久遠。会話は生まれない。しかし居心地の悪さは感じない。無表情な顔にも、特に腹立たしさを覚えない。久遠という人間の在り様に慣れたのか、それとも。
 
美影は自分に訪れた変化に、戸惑いと微かな喜びを感じながら、ほどよく塩気が効いたトウモロコシを頬張った。


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