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宿災備忘録-発:第3章1話①

月夜にいななく高らかに
いずこいずこと高らかに
声 枯れ果てて風に嘆き
空をさまよい何も届かず
 
***
 
この歌を知っている
同じ夢を何度も見ているから
夢?
これは夢だと認識している?
 
見えない
さっきまで何かを見ていた気がするのに
いつもそう
夢だと思うと見えなくなる
ただ聞こえるだけ
悲しげな歌が聞こえるだけ
 
***
 
光が瞼を透過し、眼球を刺激している。美影はゆっくりと、瞼を開いた。仰向け。木目の天井。香織の部屋の天井ではない。
 
美影は素早く起き上がった。自分がどこにいるか理解し、何故と自問すると同時に眩暈、耳鳴り。目を閉じ、鈍重なぐらつきと、不快な高音が消えるのを待つ。双方が去ると、美影は静かに目を開けた。改めて、室内に視線を。
 
「なんで……」
 
山護の家。縁側に面した座敷。かつて自分が寝起きした場所。古い畳の匂い。蒸した空気、山に溢れる音の数々。間違いようのない確かな在り様が、美影に混乱をもたらす。
 
 
――香織さんの家にいたはず
  ふたりで布団を並べて横になった
  その前にシャワーを浴びた
  その前に灯馬に会った
  確かに香織さんの家だったのに
 
 
鼓動は加速。美影は自分の姿を確認した。Tシャツとスエットのズボンは自分のもの。しかし両方とも、シャワーの後に着た物と違う。なにが起きたのか、全くわからない。こんなに綺麗に覚えていないなんてこと、あるのだろうか。
 
とにかく情報を集めようと、視線は空間を泳ぐ。しかし、なぜ、どうして、と自問ばかりが駆け巡って、答えを求める余裕がない。美影が戸惑いの迷路から抜け出す前に、茶の間に繋がる襖が開いた。現れたのは、首に聴診器を下げた中森。
 
「……起きた。起きた! 香織さん、起きた、起きたよ!」
 
遠慮なく空間に響いた声。残響に重なる足音。美影の視界の真ん中に飛び込んだ、香織の姿。足早に近づいた香織の腕が、美影を包み込む。すすり泣きが耳に流れ込む。小さく、良かった、が繰り返される。状況を飲み込めないまま、美影は香織の背中に、そっと手を置いた。
 
自分が発すべき言葉は、なにか。尋ねるように、美影の視線は中森に向かう。
 
「無事で良かった……本当に良かった」
 
中森は笑顔を見せ、声を詰まらせた。
 
2人がなぜ喜び、なぜ泣き出したのか、わからない。しかし、この状況を作った原因は自分。そう理解し、美影はやっと口を開いた。
 
「……ごめんなさい、なんか、すごく心配かけたみたい。あの、えっと……香織さん泣かないで。私どこも、なんともないみたいだし……先生も、もう」
 
細かく頷いた中森。眼鏡を外し、目元を拭う。香織は涙を細い指で払いながら、美影の顔を覗きこんだ。
 
「覚えてないのね?」
「え?」
 
香織は首を横に振り、充血した目を瞬かせ、立ち上がった。代わって、中森が美影の前に腰を下ろす。
 
「血圧、測るね」
 
中森は鞄から簡易血圧計を取り出し、馴れた手つきで美影の右腕にカフを巻きつけた。送気球リズミカルに握る。
 
美影は圧力がかかり始めたカフの内側に、自分の血流を感じた。腕を締めつけられるほどに、脈動が全身に響く。
 
「……先生、私、起きてます? 今、起きてますか?」
「ちゃんと起きてるよ」
 
乾き切らない目元を血圧計に向けたまま、中森が静かに答える。
 
「血圧低めだね。上半身起こしてる状態で、ふらふらする感じはない?」
「大丈夫です。血圧は普段から低めなんで」
「普段、血圧測るの?」
「社員食堂に置いてあるんです。簡易血圧計」
「そうなんだ、って、うん、普通に会話できるね。ひとまず、大丈夫かな」
「先生……」
「ん?」
「これは夢、じゃない、ですよね?」
「うん、夢じゃない。僕も、山護さんも、ちゃんと起きてるよ」
「じゃあ、香織さんの家に泊まったのが、夢?」
「待って。起きたばっかりなんだから急に色々考えないで。ほら、深呼吸しよう」
 
中森に促され、美影は深く息を吸った。吐いて、吸って、吐いて。自分の鼓動が耳の奥に伝わってくる。落ち着こうとすればするほど、考えてしまう。
 
「うーん……まあ、考えないでっていうほうが無理か。ちょっと外すね。また後でくるからね。あ、お水。喉乾いてるよね」
 
中森はプラスチック製のマイボトルに入った水を美影に渡し、襖の向こうへ。座敷に、美影ひとり。改めて部屋を一周、ぐるりと眺める。
 
香織の家で布団に入った記憶は、確かにある。着慣れたスウェットの上下を着ていた。右隣に香織がいた。雨音を聞きながら、夢現を味わっていた。その記憶は正しいはずなのに。

見えない。見えそうで、見えない。記憶の道に、靄がかかったよう。
 
どこかにヒントは転がっていないだろうか。美影はタオルケットを折り畳んだ後、ゆっくりと立ち上がり、中庭側の障子を開いた。
 
目の前。濃緑に染まった中庭。風が運ぶ緑の匂いに、蚊取り線香の香りが混ざる。縁側に置かれた陶器のブタと、いぐさの座布団。香織が持ってきたのだろうか。

空は薄灰色の雲で、強い光はない。雲が日光と熱気を抑え、吹き込む風に涼しさすら感じる。
 
 
もうじきまた
雨がくる
 
 
予感を携えながら、美影は縁側に腰を下ろし、喉を潤した。中森から渡された水は、氷は入っていないが、よく冷えている。ボトルの半分ほどまでの身、息を吐くと同時、玄関の引き戸が音を立てる。美影が腰を持ち上げるより早く、鷹丸が縁側に現れた。
 
美影を見るなり、鷹丸は驚きを目で表現し、右手で額を覆った。そしてすぐに、目元の緊張を解いた。
 
「気分は? 大丈夫か?」
「大丈夫です。ありがとうございます、って、えっと、まだ事態を把握できていないんですけど」
「そうか……久遠は、まだ戻ってないんだな?」
「私は見てないですけど、いたんですか?」
「いたんですか、って……」
 
呆れ顔に笑みを混ぜ、鷹丸は美影から少し離れて腰を下ろし、タバコを手にとった。
 
「平気か?」
「どうぞ」
 
美影の了承を得て、タバコの先端に火種を作った後、鷹丸は縁側の奥、手洗い場の方へ視線を飛ばした。つられて、美影の視線も移動する。縁側の天井から下がる、竹の物干し竿。ハンガーに、黒いシャツ。
 
「あれって」
 
久遠のシャツ。美影がそう認識したのを受け、鷹丸は煙を吐き出した。
 
「アンタを見つけて、ここに運んだのは、久遠だよ」
 
美影の視線は、シャツから鷹丸へ。広がる煙の向こうの鷹丸と、視線がぶつかる。
 
「香織お嬢さん達に着替えだの布団だの運んでもらうまで、あれをアンタにかけてたんだ、気休めにしかなんねえのに……ここにはタオルもなにもねぇし、女の服、勝手に脱がすワケにもいかねぇし……ったく、ずぶ濡れでぐったりしててよ、正直、かなり焦った」
 
言葉終わりに苦笑。鷹丸はフィルターをくわえ、ゆっくりと吸い込んだ煙を、ため息と一緒に吐き出す。鷹丸の音は休止。空間に流れるのは、控えめな蝉の声。吐き出される煙の流動。止まった横顔。吹いた風が煙の白をさらって行く。
 
「あの……私に何が起こったのか、教えてもらえますか?」
「俺が見た時、アンタは久遠の背中にいたからな。詳しいことはわからん」
「そうですか……」
 
鷹丸から情報を引き出すのは不可能。ならば、真実を知る人間はひとり。
 
行方のわからない存在を思い、美影は庭先に視線を落とした。背の低い若草。しなった葉先が風に遊ばれている。湿った風に乗るのは枝葉のざわめき。蝉はいつ鳴き止むかを探るように声を潜める。それはまるで、雨の到来を予感しているようにも思えた。
 
 
――なんだかザワザワする
 
 
目を閉じ、深呼吸。胸のざわつき。その原因は記憶の欠落だけではない。何かが起こりそうな不安。取るべき行動がわからない焦燥感。自覚して、鼓動は高鳴る。何があったのかを思い出せれば、何が起こるのかを予測できるのだろうか。
 
抜け落ちた記憶を、どこに拾いに行けば良いのだろう。行き先の見えない自問。美影は苛立ちをため息に乗せた。目を閉じ、項垂れる。その頭にぬくもりが触れた。
 
手の平。思いがけない感触に、美影は両目を見開いた。同時に、短い赤毛がぐしゃぐしゃとかき混ぜられる。
 
「そう考え込むなよ。自分の身に起こったことだろ? 記憶ってのは消えないんだ。脳が消えたと思わせてるだけだ。そのうち思い出すさ」
 
ポンと軽く弾んだ鷹丸の手。美影は、突然のできごとに思わず息を忘れた。何が起こったのかを認識し、鼓動は加速。耳が急速に熱くなる。美影は項垂れたまま、鷹丸の気配を捉え続けた。


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