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宿災備忘録-発:第1章7話①

「おお、カモンカモン!」
 
灯馬とともに訪れた部屋にいたのは、陽気な気配を纏った老人。
 
3人がけのソファーに座り、木目のテーブルに向かっていた老人は、美影を見るなり、おいでおいで、と大げさなジェスチャーを見せた。
 
赤いニット帽からはみ出た白髪は、深い皺が刻まれた顔を覆う髭と繋がっている。まるで、やせ細ったサンタクロース。
 
「遠慮しないで入っておいで。灯馬、西日がキツイな」
「はい」
 
灯馬がそばを離れ、美影は不安に襲われる。
 
大きく開かれていたカーテンは閉じられ、明るさの減った室内に、灯馬は人工の光を点した。そして再び、美影の隣に。
 
「灯馬、そう慎重になるな。ほら、お嬢さんも、そんなに緊張せずに、座って座って」
 
老人は僅かに腰を浮かせ、美影に着席を促した。袖口からチラリと覗いた腕は、骨の形がわかるほど細い。
 
無言、不動の美影に向けて、灯馬は静かに語り出す。。
 
「この方は久遠の師匠で、占爺(せんじい)と呼ばれています。表向きは、占い師ということに」
「どうも初めまして。いやあ、こりゃまた、えらい別嬪さんだな。お座りなさい」
「……山護美影です。初めまして」
 
美影は速まった鼓動を携えたまま、浅く頭を下げ、テーブルを挟んで占爺の正面に。灯馬は佇んだまま。
 
「警戒しなくても大丈夫……全く、久遠のせいで、この爺まで警戒されてしまう。灯馬、久遠はどうした?」
「間もなく参ります」
 
占爺は両の眉毛を上下させた後、ソファーに背中を預け、長い息を吐いた。それとほぼ時を同じく、空間にノック音。
 
「はい」
 
答えたのは灯馬。姿を現したのは久遠。久遠はドアを閉めると、灯馬の隣に歩を進め、占爺に向かって頭を下げた。
 
「お待たせして申し訳ありません」
 
美影は久遠の口から放たれた丁寧な言葉に目を大きくした。そのまま久遠を見据えたが、久遠は反応を示さない。
 
「さて……」
 
ひとつ咳払いをし、占爺は美影と視線を合わせ、口を開いた。
 
「お嬢さん。この爺に、少し時間をくれるかい?」
「……はい」
「ありがとう。では、まずこれを」
 
占爺は、ポケットから小さな皮製の巾着袋を取り出し、固く縛った紐を解いた。細い指を袋に差し入れ、取り出した物体を美影に渡す。乳白色の石。大きさと形は、カプセル状の風邪薬とほぼ同じ。
 
「それを飲み込んでくれるかい」
「え……でもこれ、石ですよね?」
 
占爺は縦とも横とも受け取れる角度に首を動かし、さあどうぞ、というようなジェスチャーを見せる。
 
「飴、いや薬だと思って。ほれ」
「いや、だってこれ……石ですよね。なんで飲まなきゃいけないんですか?」
「お嬢さんを守るためだよ」
 
占爺の表情は柔和なまま。しかし声に若干、重みが含まれている。
 
美影の視線は、灯馬へ。
 
「貴方自身を知るために、私達のことを知ってもらうために、必要なことです」
 
石を飲み込む行為で、何がわかるのだろう。わからない。わかっているのは、後戻りをすれば、何もわからないということ。
 
美影は口内を意識的に湿らせ、石を口に含んだ。両目をきつく閉じ、喉を動かす。嚥下を終えて息を吐いた美影に、占爺は拍手を送った。乾いた残響が消えると、次なる指令が。
 
「目を閉じてくれるかい? 爺が良いと言うまで、目を閉じたまま、話を聞いておくれ」
 
正体不明の石を飲み込むよりも、よほど簡単。美影は素直に瞼を閉じた。2秒と経たず、瞼を透かしていた光が去る。
 
「電気、消しました?」
「そのままで」
 
占爺の声には、確かな厳しさが含まれていた。緊張感。美影が全身で自らの鼓動を感じ始めた途端、両耳は音を失った。両手は素早く耳元へ。瞼に込めた力が緩む。
 
「まだだ。目を開けてはいけないよ」
 
美影の芯に、占爺の声が響く。両手に現れた震えは、耳に渡って上半身へ。あっという間に足先まで到達する。そして、震える体に変化。震えは、緊張や恐怖からくるものではない。
 
美影は目を閉じたまま、顔を宙に向けた。寒い。自分を取り巻く空気が冷たい。クーラーがもたらす涼しさとは異なる、皮膚にチクリと刺さるような、鋭い冷気。その感覚は、しっかりと美影の記憶に刻まれている。
 
「お嬢さん。今、どんな感じかな?」
「寒いです。冬の朝みたいな……」
 
占爺の言葉を待つ。
しばらく待っても求める音は聞こえず、代わりに耳慣れた音が、美影の中に流れ始めた。
 
「……雨?」
 
雨音。確実にそれを認識すると同時に、空間に漂う気配は一変。湿り気を帯びた空気。水を含んだ土の匂い。気道に取り込まれる空気までが湿気を帯び、先程までの鋭い寒さは完全に消えた。そして美影の頬に、触れたモノ。
 
「雨粒……」
 
 
大地を叩く雨
茶色い水溜り
乱れた水面
暴走する川
崩壊する橋脚
流れの中から飛び出た人間の腕
 
 
閉じたままの美影の瞼。それを透かして広がる景色。雨粒が頬を叩く感触は途切れない。
 
美影は両手で瞼を覆った。しかし広がった景色は消えない。それどころか、視点は勝手に移動し、水中に潜る。
 
 
視界の隅
高速で流れて消える人体
全身を包むのは冷たい水の感触
息苦しい
胸が潰れる
助けて
 
 
目の前に展開する光景に、体は勝手に反応。美影は胸元を押さえ、荒い呼吸を繰り返した。自分の呼吸音が耳の中に留まり、息苦しさを増幅させる。
 
 
苦しい
苦しい
苦しい
 
 
「もういいだろう。目を開けなさい」
 
占爺の声が鼓膜を揺らすと同時、美影は勢いよく瞼を全開にした。荒い呼吸。視線の先に、占爺の姿。
 
僅かに微笑んだその顔。反して美影は、苛立ちを口元に浮かべた。叫びたい気持ちは、なんとか飲み込む。
 
 
まただ
また何も知らされないまま
理解不能の恐怖を味わった
その流れに乗ってしまったのは私
どうして
簡単に流されてしまうんだろう。
 
 
奥歯を噛み締めながら、美影は灯馬と久遠に視線を。静かな気配の白と黒。佇んだままの2人。僅かに久遠の視線が動き、美影はそれを追った。辿り着いた場所には、占爺の姿。
 
「お嬢さん。自分の体を見てみなさい」
 
Tシャツの袖から伸びた腕。上腕、前腕、手。全てに浮かび上がった、無数の痣。いや、文字のように見える。まるで琵琶法師。
 
「それが、読めるかい?」
 
占爺は自分の腕をさすった。腕を見ろということだろうか。美影は恐る恐る腕を目元に近づけた。漢字のようにも見えるが、なんと書かれているか、わからない。
 
美影は右手の指先から前腕、上腕に視線を滑らせた。文字のような、痣のようななにかは、袖の奥まで続いている。
 
 
――まさか
 
 
震える手をジーンズの裾へ。捲り上げて、驚愕。首元からTシャツの中を除き見ると、そこにも。
 
美影は顔に触れた。鏡はない。しかし自分の姿を想像できた。
 
「大丈夫かい?」
 
沈黙した美影。占爺の声に、反応を見せない。
 
「驚かせてしまったね……この痣のように見える文字は、お嬢さんが宿災(しゅくさい)だという証拠なんだよ」
「……しゅくさい?」
「何も聞かされてないのかい?」
 
占爺の視線は久遠に。久遠は僅かに頭を下げた。
 
「お嬢さん、申し訳なかったね……大丈夫、体はすぐに元通りだ」
 
その言葉通り、大地に水が染みるように、文字は消えた。ほら、と言った占爺。目じりに皺を集めた、優しい笑み。
 
美影は安堵に目元を濡らした。頬に流れる生暖かさを素早く拭い去る。
 
「すまない。びっくりさせたね……少し休憩しよう」
 
占爺の言葉が終わるか終わらないか。ドアが大きく開き、鎖火が、ホワイトボードを押しながら入ってきた。
 
「ねえねえ、なんで体にあんなのが浮かんで見えたのか知りたくない? 知りたいよねぇ。あのね」
「これ、今は休憩だ」
 
占爺に言葉を制され、わかりやすく頬を膨らませた鎖火。当然のように美影の隣に座る。ソファーに沈んだ鎖火を横に、美影は背中を丸めたまま、震えた声を宙に走らせた。
 
「大丈夫なんで……なにが起こったのか、教えてもらえませんか?」
「まあ、焦らず少し休もう。鎖火に任せてもいいんだが……ますます混乱したくないだろう?」
 
語尾に笑いを含ませ、占爺は鎖火を覗き込む。美影の右隣で、鎖火は鼻で荒い息を飛ばし、ソファーにあぐらをかいた。
 
美影は、自分の変化に気づいていた。寒い。もう雨の音も、感触もない。景色も見えていないのに。半袖から伸びた腕を手の平でこする。摩擦で生じた熱が去ると、冷感が一層強くなる。そんな気がして、手を止められない。
 
「お前の中の災厄が主張してるんだ。そのうち落ち着く」
 
空気を揺らした涼やかな声。発生源の久遠は、美影に視線を飛ばしている。
 
「主張って、どういうこと?」
 
素直に聞けた。しかし久遠は沈黙。代わりに占爺が、言葉を紡ぎ始める。
 
「ぼちぼち話すとしよう。このままではお嬢さんも落ちつかんだろうしな……久遠、お前がさっさと説明せんからこうなる」
「申し訳ありません」
「全く、技以外は成長せんな……ほれ、そこに書き出すぐらいはできるだろう」
「はい」
 
占爺に鋭い指摘を受け、小さく頭を下げると、久遠はホワイトボードに近づいた。


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