風、凪ぎの朝に問う・1
揺らぎ。その現象を起こさない存在は、目覚めを迎えたばかりの街を見下ろしていた。
冬は夙めて。そう詠んだ人は、かつてこの街で生き、今とは全く異なる景色を眺めていたのだろうか。そんな思いを巡らせながら、風と雲の戯れに目元を緩める。
「おはようございます」
言葉を返さないモノ達に挨拶を届けた後、白い輪郭は杉の木の高い位置を目指して宙に舞った。
木の天辺にしがみついた葉に遠慮し、程よく距離をとった枝に腰を下ろす。それでも視界は充分保たれ、視線の行く手を阻む物はない。
心地良い
温かさも冷たさも感じない皮膚は、風の気配のみを受け取って、存在を自覚させる。
とうま
もっと
もっと
トウマと呼ばれた男は、顔にかかった白銀色の髪を細い指で払い、己の深部からの呼びかけに答えた。
両手を広げ、風を纏う。纏ったと想像する。そのまま空に向かっていけそうで、心に軽やかな喜びが生まれ落ちる。その感覚を味わうのは、自分と、自分に宿る災厄達。
(これ以上は無理ですよ。今朝の風はとても上品なので)
己の深部、高揚したモノ達に平静を促す。それに呼応したモノ達は、ふわりとした感情だけを残し、声を潜めた。
眼前の街に光が射し込むのは、まだ数十分先。濃藍から紺青へと移り変わった視界の端に、光の連なりが流れ込む。いずこへと向かう電車。それは滑らかな曲線を描いて、視界の外に消えた。
(……古都なんて、捨てるべき呼び名ですね)
灯馬は、ある少年とともに、数年前からこの街に身を留めている。そうなったのは偶然と言えば偶然なのだが、どこか因縁めいた廻り合わせのような気がして、自分の可能性を探りたくなる。
ここに存在する意味は
何か
そんな気持ちが高ぶると、この場所を訪れ、心を落ち着かせる。今もまた、答えの出せない問いに向かい合う為に、ここにいる。そんな状況が、灯馬は決して嫌ではなかった。
(古き結界は綻びを隠せない。人間達は、この街に随分と無理強いをしてきたのですね)
かつて都が置かれたこの街には、大小様々な結界が施されている。いにしえの都に生きた人々は、今を生きる人間よりも、ほんの少し、五感以外の感覚が繊細だったのだろう。巨大な権力を手にした者も、ごく普通の暮らしを送った者も、目に映らないナニモノかに怯え、敬い、特殊な術にすがって生きていた。その時代が何故か羨ましく、灯馬の心を惹きつける。
(どんなに留まろうと時代は遡らない……私も、ここを出たいのかもしれません)
灯馬はひとつ息をついて、街で最も大きな結界が張られた場所に視線を刺した。
今でも結界は機能している。しかし、それを感じとれる人間は、ごく僅か。そして、自分もそのひとりである事に、灯馬は少なからず使命感を覚えている。感じてしまう人間として、すべき事がある。否、人間と呼ぶには相応しくないかもしれない。
(人間、自然……私は、どちらに近いのでしょう?)
これまで何度となく頭に浮かんだ問い。未だ答えの出せない問いを自身に投げ、灯馬は両手を目の前にかざした。
血の気のない、か細い指。手の平を巡る白い布は、手首を覆って腕へと繋がる。体を包む白い装束。裾から覗く脚にも、白い布が巻きついている。つま先も血色なく、誰かの目に姿が映ったとしても、命の灯火を感じる事はないだろう。
血流
呼吸
拍動
全てを遠い時間の向こうに置き忘れた。今はただ、そこに存在するという事が、真実。
れいねん
とうま
れいねんがいるよ
「祓わずにおきませんか?」
こっちにくる
わたしたちといっしょになりたがってる
灯馬の深部。宿るナニモノかは、きっぱりとした嫌悪感を灯馬に伝え、拍動に変化をもたらす。これは、苛立ち。そして、もうひとつ、見つけた感情。自らとの対話に水を差された不快感。
(まだ私にもありましたか。こんな感情が)
目の前。紺青にかざしたままの両手。それを下げて、枝に立つ。灯馬は間を空けず、宙に身を投じた。
重力は身に対して功を奏さず
あえて自らに地へと向かう
着地は静
視線を足元へ
夜が残る枝葉 その陰
潜むは夜よりも闇に似た存在
零念
「このような所に、何か?」
細かな零念の集合体は、大きなムカデを思わせる形。細長く刺々しい輪郭を持った存在は、チリチリと不安定な蠢きを見せる。そうして身を動かす事で、灯馬の問いに答えたのだろうか。零念は数回身をよじった後、ズルズルと地面を這い、灯馬の爪先に触れた。
いや!
こないで
こないで!
深部から届く叫び声。その不協和音は灯馬に胸苦しさを与える。
(大丈夫。私はもう、何も受け入れるつもりはありませんよ)
目元の綻びは刹那。灯馬は右手を大きく開き、足にすがる零念にかざした。
「私に出来るのは、これだけですよ」
疾風迅雷
掌から繰り出すは鏃の如き突風
散
砕
滅
地に染みず宙に溶けず
穢れはただ無に還る
祓いは浄化。なれど無への道を開く行為。これは正義なのか。正義と思い込んでいるだけなのか。
(何事も、大義名分は必要……ですか)
灯馬は、いつのまにか芽吹き、いつまでも抜けない小さな棘の攻撃を、素直に受け入れた。
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