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目を見ながら話せないこと。

私が小さい頃、母は私が斜視ではないかと疑っていました。私が相手の目を見なかったからです。
私の言葉の遅れについては割と気にしなかった母ですが、目を見ない・視線が合わないことについてはかなり悩んでいたようでした。どうやら普通の子供は言葉を話す前から自然に相手の目を見るものみたいです。

大きくなってからも母からは「ちゃんと人の目を見て話しなさい」と口うるさく注意されたものです。友人からも「Luちゃんは人の顔を見ないよね」と度々言われてました。
「人の目を見ない」というのはそれぐらい感じの悪いものみたいです。「目は心の窓」というように、多くの人は相手の目から感情を読み取り相手の目を見て感情を伝えるようなのですよね。

「話すときには相手の目を見る」というのは世界共通のマナーであるようです。大昔にとある英語の資格試験の二次面接のスピーチ対策クラスに通ってたことがあるのですがここでも先生から「話すときは相手の目をちゃんと見て」と注意されました。
「相手とアイコンタクトをしながら話す」というのも隠れた評価ポイントになってたみたいです。そんなの本来の英語力と関係ないじゃん、と当時は思ったのですがアイコンタクトも含めて「真のコミュニケーション力」が試されていたのでしょう。
ちなみに同じクラスの生徒さんで私とは逆に「相手の目を凝視し過ぎ」と注意されていた人もいました。アイコンタクトというのは難しく、かつ奥深いものだと思います。

ASDが相手の目を見れない理由はさまざま 

私が自閉症スペクトラム(ASD)であると発達障害の専門医が見抜いたのは私の視線の動きが不自然だったからでした。
その時には私も「話すときは相手の目を見る」というマナーに従って医者の目を見ていたのですが、単に「目を見ていただけ」であり、コミュニケーションの手段としてのアイコンタクトになってなかったからなのだと思います。

「相手の目が見れない」のはASD当事者の間でも理由は様々です。よく本では「ASD当事者は目によるコミュニケーションを定型発達者ほど重要視していない」等コミュニケーションの障害によるものとされていることが多いです。 

しかし私が複数の当事者に聞いた中で一番多かったのは「相手の目から受ける情報量に圧倒されてしまう」というものです。これはASDの感覚過敏に由来するものかもしれません。このタイプは自分が話してなくても相手の目を見るのはストレスでしょう。

私の場合は「話すときは頭の中で一生懸命文章を作っているので相手の目を見る余裕がない」というものです。もっと言えば「脳内で文字を出してそれを脳内で読んでるので他のものが見れない」のです(後に書くと思いますがこれはイメージ思考を言葉に「翻訳」するという思考プロセスによるものです)。従って自分が話してないときは相手の目を見ることができます。

いずれにせよ定型社会では相手と目を合わせないのは「こちらに何か隠している」とか「こちらに心を開いてくれない」と思われてしまうので、相手の目を見る努力は今後も必要なのかなと思っています。

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