LTRo4-13「Depths Of Despair」
アウトレットの最も奥の区画には、飲食店が並んでいる。1階がフードコートで2階がレストランだ。
流雫は5分以上掛かって、飲食店街の近くまで辿り着いた。しかし、警備員が数人立っていて、集まったヤジ馬に
「下がれ!下がれ!」
と怒鳴る。
救急隊員は、既に患者をストレッチャーに乗せていたが、その周囲に血痕が散乱している上、隊員も1人は頭から血を流している。それでも
「退いて!退いて!!」
と怒鳴りながら、人を押し分けて救急車へ戻ろうとする。
「何だ……!?」
流雫は呟く。
……その奥では、男が1人立っている。厚いコートを着てサングラスを掛けているが、手には大型のナイフを持っている。……恐らくは銃も持っている。そして、恐らく1人ではない。
「くっそ……」
流雫は唇を噛み、思わず右手で頭を抱える。
警察は未だのようだが、しかし警備員も迂闊に近寄れない。この場所に澪と笹平がいないことだけが幸いだったが、そう云う問題ではない。
流雫はスマートフォンを手にすると、ホーム画面に置いたアイコンに触れる。澪とのタイムラインにダイレクトで移動するショートカットだ。
「にけて」
と咄嗟に打つ流雫。濁点や変換の1タップすら、無意識に惜しがっていた。それだけ、流雫は焦りを感じていた。……1週間前の秋葉原で目の当たりにした光景を無意識に思い出し、それと似ている気がしたからか。
そのまま送信ボタンを押し、パーカーのポケットに端末を入れた流雫は、エントランスで見たフロアガイドを思い出した。
施設そのものへの出入口は来客用が1箇所、トラックの納品用が奥に1箇所。緊急車両専用スペースが、納品スペースへ向かう途中に1箇所。駐車場と商業施設を道路で完全に分断してあるため、避難ルートは少ない。
「……どうする……」
流雫が呟くと、スマートフォンが鳴る。ポップアップで表示された澪からのメッセージは
「にげられない」
だった。
澪が語る流雫は、笹平にとっては新鮮だった。喜怒哀楽を澪が独占しているとは思わないし、羨ましいとは思わない。そもそも流雫に好意が有るワケではなく、何より今の彼には室堂澪と云う絶対的な存在がいる。
ただ、毎日少なからず学校で顔を合わせているのに、そうではない……東京在住だと今知ったばかりだ……彼女の方が同級生の表裏を知り尽くしていることは、彼と同級生の間の溝が埋められないほど深い現実を突き付ける。尤も、埋めると云っても今更過ぎるのだが。
「そろそろ、行きます?」
澪は言った。笹平は先刻着いたばかりで、。
「そう、しましょうか」
笹平はそれに答えつつ、薄っすらながら澪に美桜の面影を見ていた。しかし。
1発の銃声が背後から聞こえる。
「な……!?」
澪が振り向くと、3人の男が立っている。ライダースジャケットやコートを羽織っているが、どれもサングラスで見るからに怪しい。そのサングラスに、澪は少しだけ違和感を感じた。
ただ、それよりも逃げなければ。だが、連中は入口を塞ぐように立っている。それと同時にスマートフォンが鳴った。
「にけて」
とだけ書かれた流雫からのメッセージ。……打ちたかったのは、間違いなくにげて。濁点と変換のタップさえも削ろうとしたことが澪には判る。ただ、流雫がそれだけ焦っていると云うのは、ただならぬことが起きていると云う予感を澪に抱かせるには十分だった。
「にげられない」
とだけ、画面を見ないまま打つ澪。
指の関節の僅かな刺激で、今自分の指がどのキーの真上に有るのか、何となく判る。平仮名だけなら、誤字無く打てる自信は有る。
送信ボタンを押した少女は、もう片方の手で笹平の手を咄嗟に引っ張る。
「逃げなきゃ!!」
と澪が言ったその直後、2人は後ろから押し寄せる人に飲まれた。澪は必死で笹平の手を離さず、半ば強引に引っ張るように端へ行く。
一瞬だけ見えた多目的トイレのランプは緑。……そっか。
「志織さん!」
澪は必死で手を掴み返す少女の名を呼び、更に引っ張って、ようやく人の流れから脱出する。そして、そのまま女子トイレの個室に笹平を連れ込み、ドアを閉めて鍵を掛けた。まさか、女子トイレまで押し掛けてくることは無いだろう。
「はぁ……はぁ……っ……くっ……はぁっ……」
「な、何なの……!?」
と澪は呟く。隣の笹平は何が起きたか判らないが、肩で息をしながら何度も小刻みに頭を振る。
「志織さん……!」
澪はそれに気付くと、小声で名を呼びながら彼女の頬を何度か軽く叩く。笹平は呟くような声で、名を呼んだ。
「……ミオ……助けて……」
そのミオが自分ではないことに、澪は気付く。呼び捨てだったからだ。
……彼女はあの日を、またしても思い出しかけていた。1年前の8月、東京で遭遇した悪夢を。
「流雫……」
澪は溜め息をつくような小声で、数百メートル離れた恋人の名を呟きながら、彼の同級生を肩に抱き寄せる。……誰よりも助けてほしいのは、澪自身だった。
にげられない。その一言が流雫を焦らせていた。
逃げられない。人に飲まれているのか、出入口を何者かに塞がれているのか。……何者、とは?まさか、グルか?
しかし、矢継ぎ早に襲ってくる疑問に囚われている場合ではない。
遠くから警察車両のサイレンが聞こえてきた。何処にいても聞き取れる音の代表に、流雫は少しだけ安心する。後は2人と合流できれば。
しかし、何処にいる?
流雫は左右を見回しながら、すぐ近くにいることを期待した。しかし、見当たらない。
……こうなると判っていれば、最初から離れ離れにならなかったのに。今更嘆いても仕方ない。
流雫は黒のショルダーバッグに手を入れ、ホルダーに入れたまま銃のスライドを引く。……不意に抱いた最悪の予感だけでも外れれば、今日はツイている……と思うしかない。
一瞬、犯人らしき男と目が合った。その目が吊り上がる。次のターゲットが決まった……。男はナイフのグリップを強く握ると、流雫に向かって突進してくる。
「なっ!?」
「うおおおおっ!!」
と声を上げる男は、しかしその吠える声に知性や理性を微塵も残していない。
「逃げなきゃ……!」
そう呟く流雫は、しかしそれは無理だと悟った。
やはり、ヤジ馬が多く、逃げ道を塞がれている。そっちに奴が飛び込んでいけば、どっちにとっても自業自得なのだが、連中はあくまで自分と男の一騎打ちを眺めたいのだろう。
「くっ……!」
流雫は右に跳んで避けるが、秋葉原の時のように銃を使わなくて済むとは思っていなかった。
「このっ……!!」
再度男は流雫に体を向け、叫んだ。
「死ねやぁぁっ!!」
何故狙われるかは判らないが、とにかく動きを止めなければ。
再度右に跳びながらショルダーバッグに左手を入れ、冷たいグリップを強く握ると一気に銃を取り出す。その勢いのまま、男の膝の裏を狙ってガンメタリックの銃身を叩き付ける。
「ぐっ!」
膝が折れて片足を地面のタイルに落とす男は、しかしナイフを握ったままだった。そして一瞬だけ顔を上げたが、その殺意を感じる目線に、やはり逃げられそうにない、と流雫は覚悟した。
……秋葉原の時と同じだ。今この瞬間、追い詰められているのは流雫だった。
肌寒いハズなのに、体が熱くなる。心臓の鼓動も早まっている。流雫は、あくまでセーフティロックを掛けたまま、銃身を片手で強く握る。両手ではないのは、未だ撃つ気は無いと云う意味だ。
オープンしたばかりの真新しい商業施設で起きた殺人未遂、その犯人と何故戦わなければならないのか。そもそも、救急車のサイレンにイヤな予感がしたから、近寄ってみただけの話だ。その結果がこれだ。
「ツイてない……」
と流雫は呟いた。
「撃て!撃て!」
と誰かが声を上げた。ヤジ馬は、突然始まったデスゲームに完全に期待している。
男がナイフを持ったまま、反対の手で銃を取り出した。流雫のそれよりも大口径で、威力も大きい。男が持つ銃としては大口径がトレンドで、寧ろ流雫が選んだ最小口径は男としてはイレギュラーだった。
男は一気に立ち上がり、流雫に銃口を向けるが、上下にブレていて照準が定まっていない。
「っ!」
更に右に避けると、1秒前まで彼が立っていた位置に銃弾が飛び、2階へ延びるカーブした階段の壁に亀裂が入る。
「うおぉっ!!」
何人かが、あまりの銃声に声を上げる。同時に、流雫の苛立ちが頂点に達する。早く決着をつけたい。見世物にされるのも真っ平だし、何より澪たちのことが気になる。
男はナイフで刺し、外せば撃つ気だ。流雫に動きを迷っている時間は無い。
「うおぉぉぉっ!!」
と叫びながら突進してくる男の太腿を狙った。流雫はついに引き金に指を掛け、一気に引いた。
2回火薬が爆ぜる音が響き、左足の太腿が瞬時に血で染まる。
「おあああああっ!!」
と男が膝から崩れ、階段の壁にぶつかる寸前で止まった。銃は持ったままだが太腿を押さえている。流雫は咄嗟に銃をバッグに入れると、その背中にノーハンドで跳び乗り、踏切板代わりに更に飛び上がる。階段の手摺りに掴まると、壁を蹴って段と柵の隙間に爪先を入れ、ついに柵を乗り越える。
……科学系テレビ局公式の3分間動画とアクション映画で覚えた、簡単なパルクールの知識が、まさかこんな形で役立つとは。一瞬、流雫は苦笑を浮かべた。
ただ、それだけではない。澪には休みの日は手伝いしかしなかったと言ったが、それ以外は河月湖のサイクリングコースをロードバイクで走ったり、湖畔の公園で初歩的なパルクールだけはしていた。目的は手伝いと同じで、謂わば一種の現実逃避でしかなく、そのためだから練習と呼べるものでもなかったが。
流雫は、彼が撃ったことへの歓声と逃げたことへの驚きやヤジに包まれるフロアから脱出するように階上へ上がると、一気に澪がいるだろう方向へ引き返す。しかし入口に近い方のエスカレーターは、ゲームフェスの時のように将棋倒しが起きていて使えない。
……しかし、それより澪と笹平は何処だ……!?流雫の焦りは、色濃くなる一方だった。
笹平が少し落ち着いたのが判ると、澪は彼女から離れ、ミントグリーンのトートバッグから銃を取り出し、スライドを引く。これで何時でも撃てる……撃たないに越したことは無いのだが。
「そ、それ……」
笹平は目を丸くする。流雫が持っている、撃ったことが有るのは知っているが、生で見るのは初めてだった。
「あくまでも、最終手段ですけど……」
と澪は言った。
そう、あくまでも護身用で正当防衛のための武器であって、デスゲームの武器じゃない。それは何度も、事有る毎に言い聞かせてきた。
「……志織さんは此処に」
澪は言う。
「澪さんは……」
と不安に駆られた声で言う。
「流雫が気になるから……行かないと」
澪が答えると、笹平は反発する。
「私も行きます……!宇奈月くんが心配で……!」
「学級委員長として?」
その澪の問いに、
「澪さんまで……」
そう不満げに言った笹平は、正直もどかしかった。澪と自分の立場は違う、しかし自分だけが、こんな安全そうな所で収束まで待っていろと云うのは、役立たずの烙印を押されているように思える。
「危険です!」
と言った澪は、銃をコートのポケットに入れながら続けた。
「……あたしは、何度もテロと戦ってきて、だから、今更怖くなくて……」
……笹平の、学級委員長としての正義感は認める。しかし、今はあまりにも無防備だ。澪には、笹平まで護れる自信は無い。これが結奈や彩花でも同じだった。福岡での一件は、流雫の声が常に耳元に有ったからこそ、結果として2人も護れただけの話だ。
「……あたしなら、死なない。流雫も殺させはしない」
ブルートゥースイヤフォンを片側だけ耳に挿しながら、澪は言った。
……この10日間足らずで、3度も恐怖を押し殺すことになるとは。明日、日本橋のお気に入りの神社でお祓いを頼もう……できるなら流雫も連れ出して。そう思いながら、澪はドアに手を掛ける。
「……また後で」
と言いながらドアを開けると、澪はすぐに出て一気に閉める。
……また後で。その約束を果たすためにも、生き延びるしかない。澪だけでなく、流雫も。
「何処……?」
そう呟いた少女は、死角に隠れる。遠目に見える、入口に立つ男は2人。1人は施設の奥へと進んでいるのか……と澪は思った。
それと同時に、警察車両のサイレンが聞こえた。これで助かるハズだ……と思った瞬間、入口の男が道路を向く。入口からも警察が入ろうとしているのか。
澪は自分に向かって頷くと、奥へと足を進めながらスマートフォンに触れた。
流雫のスマートフォンがパーカーのポケットの中で震える。通話だった。……澪?
流雫がブルートゥースイヤフォンのボタンを押すと
「流雫!?何処!?」
と声が聞こえる。やはり澪だ。
「2階。逃げ道が無くて」
流雫は答える。エスカレーターは使えない。非常階段も見当たらない。
「あたしは……下。……志織さんは、トイレに隠れてる……」
澪は走りながら話しているのが、マイクに混ざる風の音で判る。声が途切れ途切れなのは、周囲がどうなっているか見回しているからだろう。
流雫は遠目に、先刻と似た外見の男を見た。買い物客が、流雫と反対方向に走る。……先刻の輩とグルで、銃を持っている。何が目的かは知らないが、その仇として自分が狙われていたとしても不思議ではない。
流雫は一つだけ、勝機を見出した。2本のエスカレーターの間に、銀のカバーが張られている。幸いと云うべきか、落とし物が転がらないようにするストッパーは無い。
……こいつを滑り台にすれば。かなり危険だが、だからと真っ向から男と戦う気は無い。何がどうなっているかも判らないのに、澪と合流する前に4発の銃弾は極力残したい。
「ほっ……!」
左側のエスカレーターに寄った流雫は、その右側の手摺を掴んだ右腕を軸に、銀のカバーの真上に飛び出し気味の身体を寄せた。その流れで飛行機の非常脱出シュートのように上体を起こし、踵を浮かせて滑る。
まさか、フランスへの帰郷の往復で毎回見せられる、機内安全のビデオで得た知識が、こんなことで役立つとは。彼自身も、思っていなかった。
「くそっ!!」
上階で男が舌打ちすると同時に、流雫は手摺りを掴んで少しブレーキを掛ける。終点で足を下向きにし、数歩前のめりになりつつも転ぶことなく着地した。
「流雫……!」
後ろから声がした。流雫が振り向くと、そこにはダークブラウンのセミロングヘアをなびかせる少女がいた。
「澪……!」
流雫はその名を呼び、駆け寄る。
「何なの!?」
「何が何だか……」
咄嗟に出た澪の問いに、そう答える流雫。しかし、逆でも同じだった。何が何だか、犯人以外誰も判っていない。
「たっ!!助けてっ!!誰か!!」
ふと、何処かで聞き覚えが有る声がした。真っ先に流雫が反応した。
「まさか!」
「志織さん!?」
澪は唇を噛む。
……安全だと思っていたトイレが裏目に出た。連れ出していればよかった……と思っても今更遅い。
女子トイレに侵入し、ドアを叩き壊し、中にいた笹平を捕まえたらしい。そこまでして、いよいよ何が目的なのか。
犯人は2人、両方、カーキ色のダウンジャケットを着ている。1人が笹平の両手首を後ろで掴み、抵抗できないようにし、1人は銃を頭に突き付けている。
「近付くな!!」
と男は周囲に向かって叫ぶ。
「……何が目的なの!?」
澪は男に向けて問う。その目は、完全に怒りに満ちていた。
「知らなくていいだろ!!」
と怒鳴る声に、澪は一呼吸分の間を空けて言った。
「……あたしが身代わりになるわ。だから彼女を放しなさい!」
まさかの言葉に、流雫と笹平は目を見開く。
「澪!?」
「澪さん!?」
河月の高校生2人の呼び声に、
「……流雫」
とだけ言った澪は、目の前の少年に振り向くと、抱きついてキス……するフリをして、コートのポケットに入れたシルバーの銃を、流雫のパーカーのポケットに移す。ケープで腕の動きが一部始終隠れるのは好都合だった。
「預かってて……」
澪は言う。微かに頷いた流雫も、同時に反対側のポケットに自分の銃を入れ、セーフティロックを外した。
「何やってる!」
と男が苛立ちを露わにしたが、
「……別れのキス……、……悪い?」
と、澪は逆に睨みながら言ってみせる。
トートバッグをその場に置いて、両手を顔の高さまで挙げたまま犯人に近寄る澪。1人は笹平の頭から銃口を離すと、近寄った少女の左腕を掴んで流雫に顔を向けさせ、両腕を両手で掴み拘束する。
「っ!」
腕の痛みに、澪の顔が歪む。
そしてもう1人の男は笹平を突き飛すと、澪の頭に銃を突き付けた。その手際のよさは、敵ながら感心するしかない。
流雫が解放されたばかりの同級生に
「逃げろ!!」
とだけ叫んだ。しかし、笹平は混乱してその場から動けない。今度は
「志織さん!逃げて!!」
と澪が叫ぶと、笹平は
「いっいやぁぁぁぁ!!」
と叫び、走って行く。
……ミオから名を呼ばれたことが、一瞬だけもう1人のミオを思い出させ、それが引き金になった。
「……お前、銃を持っているだろ。捨てろ」
もう1人の犯人は、流雫に向けて銃口を向けたまま言う。
「捨てろ!」
男が怒鳴ると、流雫は男2人を睨み付けたまま、パーカーのポケットからシルバーの銃を取り出し、地面に転がす。流雫と犯人、その中間で止まった。
「よーし……!いい子だ!」
そう言った男は流雫の太腿へ銃口を向け、引き金を引いた。
「ぐっ……!」
銃声と同時に、右の太腿に激痛が走った流雫は顔を歪める。穴が開いた黒いカラージーンズに、粘りを帯びた染みが広がる。
流雫は右膝を地面に打ち付けながら、倒れないように左足だけで身体を支える。
「るっ……!るなぁぁぁぁぁっ!!」
ダークブラウンの瞳を滲ませた少女の、悲痛な叫び声が響いた。
……流雫が撃たれた。目の前で起きた悪夢に、澪は理性に亀裂が入るような錯覚すら覚える。
「流雫ぁ……!!流雫ぁぁ……っ!!」
「み……、……お……」
泣き叫ぶ恋人の名を、激痛に耐えながら呼ぶ流雫は、右足に力を入れようとしてみた。しかし、痛みで入らない。太腿を撃たれたが、手は股関節に触れている。
……しかし、未だ勝機は残っている。生き延びたいなら、それに賭けるだけだ。
「泣けるねぇ!」
「もっと泣くかい?」
流雫に銃を向ける男たちの声に、アンバーとライトブルーのオッドアイの瞳が反応した。2人に対して、殺意すら帯びた目で睨む。澪は滲む視界で捉えた瞳に、初めて流雫に別の恐怖を感じて、背筋が凍る感覚に襲われる。
しかし、生意気なシルバーヘアの、一見ひ弱な少年に不敵な笑みを浮かべる犯人2人は、致命的なミスを2つ犯していることに気付かない。
……フランスの活字文化は左から右への横書きで、学校の授業でも筆記は万年筆やボールペンが基本だ。そして、滑らかな書き味が特徴の水性インクは、その反面乾きにくいと云う弱点が有る。
手がインクと擦れて汚れないようにと、右手で書けるように母アスタナからカトラリーとペンを持つ事だけは右手に矯正されているものの、流雫は元々左利きだった。
そして、撃たれたのは右足……。
「ぐっああああっっ!!」
痛みに歯を軋ませる流雫は、地面に突いた左手を軸に、左足で地面を蹴り、体を宙に浮かせて前に跳ぶ。股関節に触れていた右手を、咄嗟にパーカーの右ポケットに入れ、ガンメタリック色の銃を取り出した。
腕を左に振りながら、引き金を引く。
小さめの銃声が2回。それと同時に、2メートル前の男の右股関節辺りが赤黒く汚れる。
「ぐぅぅぁぁっ!!」
男は叫び、銃を持ったままの手で患部を押さえ付ける。
その瞬間、犯人との形勢が逆転した。
「流雫っ!!」
澪が上げた声に、微かな希望が宿っていた気がする。
しかし流雫は、跳んだまではよかったが、右足で着地できず左半身から地面に落ちた。
「ぐっ……!」
と顔を歪めた流雫は、しかし胴体の下敷きになった左腕を伸ばし、地面に転がる銃身を掴む。
「澪っ!!」
と叫びながら、掬い上げるように投げた銃身はシルバー。右手にはガンメタリックの銃身。……それが、奴らが犯したもう1つのミス。
宙を舞うのは、シルバーの銃身。そして、Mioのoをハートで遇ったシールを左側に貼ってある。……間違いなく澪の銃だった。
2人で反撃するのを見越して……?いやそれは今はどうでもいい。
澪は、一瞬の出来事に固まり、僅かに手首を掴む手の力が弱まった男の膝を踵で蹴った。
「ぐぅっ……!」
と呻き声が上がり、同時に手首から手が離れた。
「このや……!」
手を血で染めた男が言うより早く、流雫は男の右手を狙って引き金を引いた。
流雫のマイルールは、銃と身体が密着していない限り、至近距離だろうと1発目を外した時のために2発撃つことだった。それも映画の受け売りなのだが。しかし、それは3人を撃った時点で弾切れになることを意味し、流雫の銃は動かなくなった。
「ぐぉっっ!!」
激痛に顔を歪め、銃を落としてその場に蹲り悶絶する1人。あとは目の前の1人だが……。
地面を蹴った澪は、自由になった手で宙を舞う銃身を掴み、流雫の隣で右足を軸に反転する。コートのケープ、ミニスカート、そしてセミロングヘアが綺麗に舞う。
銃口が澪を捉える。少女は止まる寸前に両手でグリップを握り、太腿を狙った。視界は滲むが、外さない自信は有った。
3回……小さな銃声が規則的に響き、男のデニムに血が噴き出す。
「おあああああ……!!」
と呻きながら、男はその場に膝から崩れる。
その直後、ようやく警察官と特殊武装隊が駆け付けた。
「はぁぁ……はぁぁ……、っぁ……っ……」
絶え絶えの息を吐きながら、弾切れの銃を手放して仰向けになった流雫は
「澪……」
とだけ、呟くような声で呼ぶ。
「流雫っ!!」
澪は恋人の隣に座り、シルバーヘアの頭を太腿に載せる。
「澪……、汚れる……」
流雫は途切れ途切れに言った。
折角の高そうなお似合いのコートを、太腿から流れる血で汚させるワケにはいかない。……澪が無事、それだけで流雫は安心する。
しかし澪は、泣き顔で流雫を見下ろしながら、その名を叫ぶように呼ぶ。
「流雫ぁ……!やだよぉ……!」
……流雫が死ぬ、殺される恐怖が現実味を帯びて襲ってくる。振り切りたい。
流雫は、右手を頭上に伸ばし、澪の頬に触れながら言った。
「……僕、は……死な……ない……」
その声は、囁くほどに小さく、しかし最愛の少女の耳には確かに届く。
「流雫……!流雫ぁ……!やだよぉ……!」
泣きじゃくる澪の声が脳に焼き付く。頬に触れた手に重なる澪の手が、震えているのが判る。
ふと、流雫は意識が遠退くように感じた。やがてそれが途切れる……その寸前、彼は
「生きたい」
とだけ願った。
流雫が目を閉じると同時に、澪の隣に救急隊員が駆け寄る。彼女は隊員に彼を預けた。
澪は、隊員の手でストレッチャーに乗せられた彼の隣で、ただ泣いているだけだった。同行を頼まれたことに答え、流雫のことを伝えるのも侭ならない。それほど、取り乱していた。
……流雫は目の前で撃たれ、しかし決死の反撃に出た。それが澪の希望を導き、だから今こうして生きている……澪自身は。しかし、流雫には死神の幻影が付き纏っている。
流雫が撃たれたのは、笹平の代わりに澪が身代わりになったから。……いや、彼女をトイレに残したから。……いや、最初のサイレンが気になって1人になろうとした流雫を、止めなかったからだ。
あの時の
「不貞腐れてる?」
は、流雫の同級生に余計な心配を掛けないようにと、咄嗟に口を突いて出た言葉だった。しかし、濁さなければよかった。形振り構わなくても、止めればよかった。
「流雫……あたし……」
彼に届かない囁きを口にする澪。……あたしは、流雫のヒロインを名乗れない。流雫を救えない。
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