Ending「Lunatic Tears」

 数時間前に別れた2月は、しかし置き土産に寒さを残していった。唯一の救いは、今日1日、雲一つ無い快晴になりそうなことだった。
「……うん。……サンキュ。じゃあまた明日……じゃない、明後日。おやすみ」
と言って通話を切った流雫は、黒のカラーデニムを履き、上はトリコロールを飾るネイビーのシャツを纏い、その上から白のUVカットパーカーを羽織っていた。
 三日月のチャームがアクセントのブレスレットを手首に通した流雫は、くたびれた感が出てきたディープレッドのショルダーバッグを手にした。銃は机に入れ、鍵を掛けてある。
 最後に部屋の照明を消そうとしたが、目の前の卓上カレンダーに書かれていた文字を消し忘れていたことに気付く。流雫は、その隣のペンスタンドから取り出した細書きサインペンで、上からバツマークを入れる。そこには、卒業式と書かれてあった。2026年、3月1日。

 流雫は、大学受験は推薦入学で早々に決着を付けていた。東京の大学だが、オンライン授業がメインらしく、必要な時だけ登校するシステムらしい。だから後数年は、今までのようにペンションの手伝いをしながら学生生活を送ることになる。
 親戚夫妻と少し話した後、居候するペンション、ユノディエールを出た流雫は、昨日の帰りに河月駅前のフラワーショップで手に入れた花束を片手に、学校へと走る。
 河月創成高校に3年間通ったが、一番乗りを果たしたのは今日が初めてだった。何時もはペンションの手伝いが有り、大体ホームルームの数分前に着いていたからだ。
 バスに乗ると、河月駅で乗換になる。それだと一番乗りができないから、わざわざ走った。しかし、ペンションから走り続けたからか、シルバーヘアの少年は正門に着いた時点で肩で息をするほどだった。
 階段を歩きながら呼吸を整えた流雫は、自分の教室に入る。卒業メッセージが書かれていた大きなホワイトボードからは目を背け、一番後ろの窓側に置かれた机に花束を置いた。……2年半、主不在で空席だった。
 ……昨日フラワーショップで初めて聞いた名前の花、スターチス。花には疎いが、卒業記念に並んでいた中から適当にチョイスしたのが、スターチスだけの花束だった。紫とピンクが混ざった花束。
 ……一緒に卒業式を迎えたかったが、叶わなかった。
 あれから2年半、未だ吹っ切れてはいない。しかし、悲しみに沈んでばかりもいられない。僕も世界も、未だ動き続ける。止まるわけにはいかない。
 少年は机に向かって頷くと、踵を返した。
 高校の正門前のバス停に着いた流雫は、1分後に来た河月駅行きのバスに乗る。車窓からは、市内最大の駅からのバスが対向車線のバス停に着くのが見えた。
 何人かが、流雫が昨日まで着ていた制服を着熟して正門を通っていく。それより早く、最後の登校を終えた流雫を乗せたバスは、河月駅へと走り出した。
 ……流雫は卒業式に出る気は無かった。出ないための、好都合な理由も有ったが。
 結局、流雫が同級生たちと話すことは最後まで無かった。黒薙も笹平も、3年生になると別のクラスに移り、いよいよ誰も流雫に話し掛けるどころか、挨拶さえもしなくなった。ただ、同時に美桜の死を揶揄われるようなことが無くなり、それはそれで気楽だった。
 思えば、2年前の年末に、アウトレットで偶然出会した黒薙は何か言いたげだった。しかし、流雫の耳に届くことは無かった。
 その黒薙は、大阪の大学の二次試験を間近に控えている。笹平は何時しか黒薙の恋人になり、名古屋の大学に進学を決め、今は彼の受験をサポートしている。

 終点の河月駅でバスを降りた流雫は、卒業式に向かう周辺の学校の生徒とすれ違いながら、改札を通る。10分後にやってきた特急列車の端の座席に座り、彼はスマートフォンを開く。
 その画面には、東京19時発、パリ行きシエルフランス便の電子航空券が表示されていた。帰郷の期間は2週間、帰りの便の東京着は15日の11時。
 今の時期、東京からパリへは13時間のフライトで、定刻だとパリには0時に着くらしい。朝までロビーで過ごすのも気が引けるが、どうにかするしかない。
 ……ペンションを出る前に話していたのは、レンヌに住む母アスタナだった。フランスは23時だったが、流雫のスマートフォンを鳴らし、卒業祝いの言葉を贈ってきた母に、流雫は思わず顔を赤くして微笑んでいた。
 ……流雫は卒業式の日に合わせて、帰郷することに決めていた。卒業式に出ていれば、ペンションに帰り着くのは正午頃。それから着替えて出発しても、十分間に合うことは間に合う。
 ただ、どうしても寄りたい場所が有り、会いたい人がいた。その時間を確保するためなら、別に出なくてもいいと思っていた。寧ろその方が、経緯はどうあれ学校で疎まれていた僕には相応しい……と、不意に流雫は苦笑いを浮かべ、紙コップのホットコーヒーを喉に流した。

 日本はこの1年で、何も変わらなかった。トーキョーゲートが解決しても、新たな脅威が日本中を震撼させ、それに何度も遭遇した。後味はやはり最悪だったが、流雫が知る人は誰も死ななくて済んだ、それだけは幸いだった。
 ただ、銃はこれからも手放せそうにない。国がアフターマーケット需要での経済振興を狙ったことで、犯罪に使わなければ射撃訓練場などでの使用を認め、また銃弾の販売も比較的容易になった。
 日本が完全な銃社会になったことで、一部からは非難囂々だったが、恐らく銃社会と向き合うのは、完全に流雫たちの世代が変えるべき課題なのだろう。
 そう思うと気が重いが、ただ自分のスタンスは変わらない。自分が死なないために、澪を殺されないために、そして……2年半前のあの日の流雫のように、見知らぬ誰かが泣かないために。
 そう思っていると、車内放送が流れた。そろそろ新宿だ。しかし、迎え人はいない。

 黒いセーラー服に袖を通すのも今日で最後。そう思うと何だか感慨深い。しかし、3時間後には卒業式だと云うのに、澪は昨日思わず夜更かししたからか、地味に残る眠気との戦いに追われていた。
 その原因は、流雫だった。最後にメッセージを交わしたのは23時頃だったが、それからがマズかった。結局寝たのは2時半頃だった。5時間も眠れていない。
 その彼からの誕生日プレゼントだったブレスレットを、鞄に入れてリビングへ行く。後々卒業式で合流する両親から、先に祝いの言葉を掛けられて、少し頬を紅くした澪は、昨日までと同じように学校へ向かった。
 ……東都学園高校での3年間は、結奈と彩花がいたから楽しかった。ただ、色々なことが学校外で起き過ぎて、どうしても印象が薄くなるのは仕方ないことだった。でも、だからこそあの2人や流雫に生かされていることを感じていた。
 澪が学校に着くと、何時ものように結奈と彩花が寄ってくる。
 彩花は念願だった都内の国立医大に合格した。その恋人の結奈は、ゲーム開発をしたいと情報工学系の工業大学に通うことにしたが、彼女も都内。そして、澪も都内。全員が都内で実家から通学。今と変わらない。変わるのは、3人が通う学校だけだ。
 特に彩花は、学校が学校だけに大変そうなのは覚悟しているが、だからこそ都合がつく日は一緒に遊びたいらしい。だから、高校を卒業しても、寂しくはない。
 澪は、両親と同じ道に進むことにした。特に父からは猛反対されたが、この2年間を思い出すと警察に入りたい、刑事になりたいと云う思いは止められなかった。
 結局、都内の普通の大学に入り、就職活動の時に警視庁の採用試験を受けることで、一応の決着を付けた。ただ、これからも進路のことで何度も喧嘩するだろう。それは覚悟していた。
 後輩刑事の弥陀ヶ原は、父から我が侭娘の進路についての愚痴を零されたが、寧ろ澪の警察入りは歓迎したいようだった。それが原因で、3日間缶コーヒーを奢られなかったのはここだけの話だが。

 卒業式を終え、最後のホームルームが終わる。先に帰る両親に卒業証書を預けた澪は、結奈や彩花と3人で、3年間通った学校を後にした。
 その帰りがけ、3人は早速明日遊ぼうと約束した。何処に行くかは明日、会って決めればよかった。
「じゃあ、また明日ね!」
と微笑みながら2人と別れた澪は、しかし不意に寂しさに襲われた。
 ……学校からの帰りに、駅まで3人で歩いて、時々ドーナッツ屋に寄ったりして、こうして別れることはもう無い。この高校生になって初めて感じた寂しさは、1日ずつ大人に近付くための通過儀礼なのか……。
 教室で着けたブレスレットが飾る左手を胸に当て、改札の奥に消えていく結奈と彩花の背中を見ていると、ダークブラウンの瞳が滲んでくる。
 高校を卒業しても、同じ都内だし寂しくない。そう思っていたが、やはり寂しい。
 澪は思わず俯いた。……あたし、こんなに泣きやすかったっけ……?
 そう思った澪の後ろから、突然
「澪!」
と声がした。澪は一瞬目を見開き、鎖骨のあたりで切り揃えられたセミロングヘアをなびかせ、振り返る。外ハネショートのシルバーヘアにオッドアイの少年がいた。澪は世界一好きなその名を呼ぶ。
「流雫!」
「卒業、おめでと」
と言って微笑む流雫に、澪は
「ありがと。流雫も、おめでと!」
と言って微笑み返しながら、一つ疑問を浮かべる。
 確かに、昨日澪が指定した待ち合わせ場所は、彼女の学校の最寄り駅だった。しかし、彼の服装は完全に普段のそれだったからだ。
 ……澪が学校を出て30分。流雫の学校も同じぐらいに終わったとして、30分でペンションに戻り、着替え、そして都内に出てくる……テレポーテーションでも使えなければ不可能だ。
 昨日は聞き流したが、よくよく思い返せば、彼が指定した時間に彼自身が辿り着くこと自体、卒業式に出席すれば不可能だった。
 ……式に出なかった。それしか有り得ないが、澪は問うた。
「でも流雫は卒業式……」
「出なかった。飛行機の時間が有るから……、前以て担任にはそう言ってあったけど」
と流雫は返した。

 学校行事とは無縁だった学校に通っていたが、それでも入学式以外出ていない。修学旅行も、トーキョーゲートに絡む事件への捜査協力で行かなかった。
 だからか、折角の卒業式と云う記念の日ぐらいは出席するよう、担任から苦言を呈されたが、流雫は聞き流した。
 ……フランスへの帰郷を意図的にブッキングしたことは褒められないが、しかしそれは流雫にとって最後まで、あの学校に居場所が無かったことを意味していた。尤も、あの2人も含む全員をシャットアウトしていたから、その意味では自業自得なのかもしれないが。
 寂しくはなかった。寧ろ、これで漸く美桜の死で因縁を付けられなくて済む、と思っていた。

 「……色々有ったから……流雫」
澪はそう言うのが精一杯だった。
 もし澪が流雫と同じ学校に通っていれば、もっと彼の学校生活は面白くなっていたのかもしれない。美桜の死で抱えた悲しみも、少しは癒やせたのかもしれない。
 ……無い物強請りなのは判っていた。転生とタイムリープでもできなければ、それは叶わないこと。そう云うフィクションみたいなことができるハズもなく、ただ流雫の悲しみに触れようと、その手を頬に伸ばすことしかできない。
 だから、もっと強くなりたかった。……いや、今日はこんな話をしたいから流雫とデートしたかったワケじゃない。
「……何処に行く?」
澪は問うた。
 
 臨海副都心で最も有名な地名、台場。その端のペデストリアンデッキは、流雫が最も好きな場所の一つだった。
 澪と急接近したのも、ファーストキスを交わしたのもこの場所だったし、辛いことが有ると何故かこの場所に足を運んでいた。それだけ、思い入れが強い。流雫が澪の問いに、この場所と答えたのも、至極当然のことだった。
 その近く、ベイシティのカフェは2人が初めて入った店だった。少しだけ遅めのランチを済ませようとした流雫と澪は、その店でパストラミビーフのサンドイッチとホットラテをオーダーし、テラスの端のテーブル席に座る。
 「この2年半、何だったんだろ……」
と切り出した流雫に、澪は
「えっ?」
と声を上げた。しかし、ダークブラウンの瞳で捉えた、アンバーとライトブルーのオッドアイの瞳には曇りは無い。
「……必死に足掻いてた気がする。僕が死なないように、何より澪を殺されないように……」
と言った流雫は、東京湾の対岸の景色に目を向ける。
 「……でも、触れたかったものには手が届かなかった。掴めなかった。だから」
そう言って、澪の瞳を優しく見据えた流雫は続けた。
「刑事か、叶わなければジャーナリストになろうと思ってる」
 「えっ……?」
澪は目を見開き、声を上げる。流雫が自分の夢、と云うか目標を語ったのは初めてだった。
「弥陀ヶ原さんのような刑事になって、何が人を犯罪に走らせるのか……追い掛けてみたいんだ。ジャーナリストだって同じで、何故テロでなければいけないのか、追い掛けてみたいんだ」
流雫が言うと、澪はその瞳に吸い寄せられる。アンバーとライトブルーのオッドアイの瞳を見つめ、澪は問うた。
 「でも、どうして……」
「見知らぬ誰かが、あの時の僕みたいに、犯罪やテロで泣かなくていいように」
流雫は澪に被せるように答えた、ほんの少し瞳を滲ませて。
 ……ただ、それは流雫だから言えること……だと澪は思った。
 テロから逃れるために、両親と離れて日本に移り住んだ流雫。しかしテロに恋人を殺され、生き延びるために銃を握り、見知らぬ人の死に際さえ看取って……。
 普通なら一生経験しなくていいことを、特にこの2年半で経験してしまったのだから、その言葉が重いのは当然だった。そして、澪に深く突き刺さっていた。
 SNSで知り合って2年半、顔を合わせ、そして恋人になってもうすぐ2年。その間、家族や親戚以外で唯一、彼の喜怒哀楽に触れた存在が澪だった。
 その彼女から見て最愛の人は、自分が思っているより遙かに強い。悲しみと絶望の底に叩き落とされても、必ず微かな希望を見出しては手元に手繰り寄せる。それができるのに、弱いワケがない。
 ただ、流雫は自分は弱過ぎると思い続けている。だから、誰かが泣かなくて済むために、自分が泣かなくて済むために、掴めなかったものを掴もうとしている。そのための答えが、今し方澪に語った夢だった。
 ……あたしは、その流雫を何時だって信じた。力になりたいと思ってきた。それは間違っていなかった、そう自信を持って言える。
「でも、流雫らしいわ」
と澪は軽く微笑みながら言う。流雫は微笑み返しながら、ラテが残った紙コップに口を付けた。

 遅めのランチが終わって、カフェを後に2人は、ペデストリアンデッキの突端にに向かった。やはり、この場所に立つと色々と思い出す。この2年半の全てを。
 澪が景色に見蕩れながらついた感嘆の溜め息、それから数十秒の沈黙の後で、流雫は言った。
「何時だって……僕は泣いてた気がする。美桜を失って泣いて、澪と出逢って泣いて、殺される恐怖と怒りに泣いて、澪が生きてることに泣いて……」
 澪はその言葉を、ただ黙って聞いている。デートに相応しくなさそうな重い話、だからこそだった。
「だから、泣かないようにならなきゃ……とは思ってた。でも、僕にはできなかった。何か、美桜や澪との愉しかったことすら、閉ざしそうな気がして。それって何か……寂しくて」
彼の言葉に、澪は思わずその名を呼ぶ。
「流雫……」
「だって、嬉しくて泣いたことさえ無かったことにするのは……僕には耐えられないから……」
と少し寂しそうな声で続け、恋人の切なげな表情から一度目を逸らした流雫は
「……だから、あれ書いてみたんだ。大学受験も終わってたから、暇なうちに終わらせたかったし」
と言った。
 ……ドキュメントファイルにまとめられた、1冊の無題のノンフィクション。それは、宇奈月流雫と云う少年が、高校に入学した時から、欅平美桜の死と室堂澪との出逢いを経て、卒業式の前日まで何を思い、銃を握っていたのか、10万字ほどで書かれていた。3ヶ月掛かりだった。
 昨日の夜、流雫におやすみと打つ直前に送られてきて、澪は少しだけ気になって開いた。それが少女の眠気を、一瞬で駆逐した。
 「最初だけ……と思ったけど止まらなくて、最後まで読んじゃって。少し寝不足だけどね」
と澪は言った。
 ……最初だけ、どころか気付けば3時間掛けて読み終えていた。そして、今までのことを思い出して泣いていた。だから、眠れるハズもなかった。
 「何もかも思い出さないといけなかったから、途中かなりきつかった。……でも、全て現実だったから、目を逸らすワケにはいかなかった」
と流雫は言い、目を閉じる。
 ……ただの自己満足と言われても、そのために書いただけだった。美桜が僕といたこと、そして美桜の死の上に、僕と澪の今が成り立っていることを忘れないように。
 それが、彼女があの日までこの地球にいた、生きていた証になるのだから。未だ色々と吹っ切れない僕が付けたかったあの日との、そして美桜との最後の決着だった。

 「……あたしも、読みながら色々思い出してた。……何もかも、懐かしいな。ほんの1、2年前のことなのに」
と言った澪は、彼の滲む瞳に触発されたのか、ドキュメントの中身を思い出したからか、自分の視界が薄ら滲むのに気付く。……泣きやすくなったのは、流雫といるからだと思った。
 「あれ、何処かに出すの?」
澪は気を逸らそうと、瞬きを増やしながら話題を少しだけ変えて問う。
「気が向けば、かな……」
と目を開けながら答えた流雫に、澪はもう一つだけ問うた。
「タイトル、決めてるの?」
「一応は」
そう答える流雫に、少し冷たい風にセミロングヘアをなびかせる少女は
「どんなの?」
と問う。
 「……ずっと泣いてた、狂ったように泣き叫んでた。だから……」
そう言った流雫は、ショルダーバッグから取り出したメモ帳にブルーのボールペンを走らせる。やはり、流雫はネイビー寄りのブルーが似合う、と澪は思った。
 「これかな?」
と言った少年が、メモを1枚切り離して少女に見せる。そのスペルを少しだけ凝視した澪は微笑みながら
「……流石はパリジャンだね、詩人みたい」
と言って微笑んだ。
 パリジャン……パリには物心ついた頃までしか住んでいなかったが、パリ出身と云う意味では強ち間違っていない。流雫は不意に微笑む。
 澪は、流雫が摘まむ紙を指に挟もうとした。しかし不意に襲ってきた強風に、華麗なまでに攫われていく。少女はセミロングヘアをはためかせつつ
「あっ……!」
と声を上げた。
 しかし、紙は手を伸ばそうとするより早く、地上から遠離っていく。
「はぁ……」
と思わず溜め息をついた澪に、流雫は言った。
 「……あれしか思いつかなかったけど、何か僕を表してるようで……」
「……あたしも、流雫と同じだよ。ずっと泣いてきたから……。でも、だからあれが何より腑に落ちるわ」
と澪は返す。
 ……初めて、流雫のことで泣いた日から今日まで、何度泣いてきただろう?ただ、だから今この瞬間のあたしがいる。
「じゃあ、あれで決まり」
と流雫は言って笑った。

 国際線に乗る時の空港着のデッドラインは、大体出発時刻の2時間前、と流雫は決めている。チェックインまでがスムーズでも保安検査とイミグレーションは航空会社の手を離れ、空港側の管轄だ。それ故多方面の渡航客が集中して混雑する。それが有るだけに、東京とパリは2時間有ればどうにかなる、とは思っている。
 ただ、それでも未だ2時間近く残っている。
 「……渋谷、行きたい」
と言った流雫に、澪は問う。
「美桜さんのところ?」
「うん。卒業したと伝えたいし。先に行けばよかったけど」
と答えた流雫に澪は
「いいよ、あたしも美桜さんに会いたいし。じゃあ、渋谷から空港だね」
と言って対岸の景色に背を向け、離れないように指を絡める。
 三日月とティアドロップ……2人のブレスレットのチャームが重なり、微かな音を立てた。

 渋谷の慰霊碑へ行き、空港へ向かい、保安検査で別れ、夜の展望デッキで流雫を見送りながら、流雫が日本にいない……会えないのは2週間だけなのに……ことに、また少しだけ泣くんだろうな……。
 澪はそう思いながら、流雫の隣にいることを、誇らしく思っていた。美桜さんにも、多分……いや、絶対笑って向き合える。
 アンバーとライトブルーのオッドアイの瞳とダークブラウンの瞳は、微笑み合う互いの存在を映す。そして一瞬だけ時が止まったような、心臓が少し早く鳴るような感覚が2人を包む。世界中から掻っ攫い、掻き集めても足りないほどの幸せを、2人は確かに感じていた。
 流雫には澪がいる、澪には流雫がいる。だから何も怖くない。今日までがそうだったように、明日からも。

 雲一つ無い、あの日に似た綺麗な蒼のスクリーン。未だ冷たさが残る東京の空に舞い上がった白い紙に、少しの深みを湛えたブルーのインクで書かれていた文字は、こう読めるハズだった。

 Lunatic Tears

と。


Fin.

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