LTRo5-8「Unforgettable」
2人が屋内にいる間に東京は日没を迎え、目の前には夜景が広がっている。あの日、2人を祝福した夜景は、しかしクリスマスだからか更に華やかに感じられた。
クリスマスイブ。正しくはクリスマスのイブニングで、24日の日没から日付が変わるまでを指す。
ユダヤ暦では日没が1日の始まりとされていて、今で云う24日の日没にユダヤ暦では25日を迎え、クリスマスが始まる。そしてユダヤ暦の25日の終わり、つまり25日の日没に終わる。そして今、日本はついにクリスマスイブを迎えた。
カラフルな地上のイルミネーションに、先刻台無しにされた時間の分だけ、2人を特別に祝ってほしいと願うのは、我が侭ではないと思いたい。
「……流雫」
澪は、ヘリパッドの上から空港の方角を見つめる少年の名を呼ぶ。流雫は澪に振り向く。
「澪?」
「……気になる?」
名前を呼んだ恋人に、澪は問う。流雫は
「……気になるよ」
とだけ答えた。
……何故自分が狙われるのか、全く理由が判らない。何処かですれ違ったワケでもない。ただ、それが通り魔の怖さだと思い知らされた。
今はこの話を避けたいが、そう云うワケにもいかない。
「……どうしてもね」
とだけ言って俯く流雫は、しかしそれよりも、やはり何故2人の時に限って遭遇するのか、それが気になっていた。
悉く運が悪い、その一言しか言いようが無いが、それで済ませられるなら苦労はしない。いや、それしか無いのだが。
思わず唇を噛んだ流雫の視界に、音を立てず舞う白い粒が混ざる。
「あ……」
澪が声を上げて空を見上げると、周囲もざわつき始めた。
「雪……!ホワイト……クリスマス……!」
澪は声を弾ませ、無邪気な笑みを浮かべた。
流雫自身は、無宗教ながらカトリック教会の影響が未だ強いフランス出身。それ故、クリスマスが日本では恋人たちの夜と云う風潮には、昔から違和感が有った。
しかし、クリスマスを流雫と一緒に過ごせることを、澪が幸せに思っているのを目の当たりにし、澪となら悪くないと思った。そして、天気と云う自然現象が呼び起こした奇跡が、2人に笑みを授ける。
「……」
流雫は何も言わず、空を見上げて微笑む。言葉なんて、思いつかない。
風に舞う白い粉雪が、世界中から掻っ攫い、掻き集め、降り注がせたかった愛と幸せの結晶のように、流雫には思える。何かに触れては儚く消える、それでも絶えず舞い降りる雪が、イルミネーションのアクセントになり、より2人の夜を幻想的に染めていく。
……ミオからの突然のメッセージに
「……僕の話でいいのなら」
とだけ返したあの日の僕に、そのミオと云う人が1年後僕の恋人になっていることを。クリスマスを祝うデジタルのメッセージカードをミオに初めて送ってみたあの日の僕に、1年後ホワイトクリスマスを東京で2人で祝っていることを。言ってみたところで、あの頃の僕は微塵も信じないだろう。
あの頃の僕が信じなくても、無理は無い……と流雫は思った。確かにミオは、1年前のクリスマスには既に唯一何でも話せる間柄ではあった。しかし、ただそれだけでしかなかった。
美桜の死を引き摺ったまま、ただその悲しみとリグレットを抱えながら、紛らわせようと必死で、少しだけ特別で複雑な感情を抱えることすら、有り得ないと思っていた。
しかし今、こうして2人で微笑んでいる。それが、もし周囲から見て粉雪の粒ほどの幸せでしかなくても、その1粒を手に掴めるだけで、流雫はこの世界で誰より幸せだと言える。
目を開いた流雫は少しだけ、粉雪が滲んで見えた気がした。
「流雫……?」
無意識にはしゃぐ澪は、その隣で何も言わない流雫に振り向く。……シルバーヘアの少年は、ただ空を見上げ、静かに泣いていた。
……この1年、誰よりも流雫は必死だった。自分が死なないため、何より澪が殺されないため、何時だって必死だった。その度に悲しみ、苦しみ、痛みを抱えて、泣き叫んで、それでもまた立ち上がって。
だから、流雫には幸せになってほしいし、幸せにならなきゃいけない。そう思い続ける澪は、だから流雫の彼女として、力になりたかった。誰よりも彼の近くにいれば、泣きたい時でも慰めて、苦しい時でも抱きしめてあげられる。
彼が自分を愛する以上の愛を、澪は捧げたかった。それが、死後の世界で永遠に支配される呪縛のような誓いだったとしても、このディストピアに咲いた一輪の花を、徒花にしなくて済むのなら、本望とすら思えるほどに。
澪は流雫の細い身体に腕を回す。
「流雫……あたしが、ついてるから……」
そう囁いた澪に向いた少年の、濡れたアンバーとライトブルーのオッドアイの瞳に、澪は吸い寄せられる。
……何度、あたしがついてると言っただろう?それでも澪は、偽りない言葉を何度でも囁きたかった。
「……サンキュ……澪……」
そう囁くように言った流雫は、澪の頬に触れながら滲んだ視界で微笑む。その表情に、頬と彼の手を濡らしながら澪は目を閉じる。互いの額が触れると、心臓の鼓動が少しだけ大きく、早く鳴った。
粉雪を装った愛と幸せが降り注ぐこの場所で、一瞬だけ時間が止まったような気がした。
シブヤソラを後にした2人は、澪の家に向かった。満員電車でも、強く握った手を離さなかったのは、リア充ぶりを周囲に自慢したいのではなく、ただ離れるのが怖かったからだ。
澪の母、室堂美雪が一通りの料理を用意している最中だった。近くの洋菓子店で購入したケーキは後に用意される。
その間、澪は先にバスルームに行った。流雫は澪の父、常願に呼ばれリビングにいる。今日は非番だったらしい。テレビはニュースを流していたが、渋谷の展望台の通り魔事件が報じられると、流雫は思わず唇を噛む。
「これか……」
と常願は言い、続けた。
「先刻所轄の連中から聞かされてな。……災難だった。俺の管轄外だが、奴の動機は聞き出した」
「え……?」
と声を上げた流雫に、常願は
「澪も狙われたと云う理由で、動機だけでも教えろと署の連中に突いたんだ。……流雫くんがただ幸せそうに見えた、それだけらしい」
と言った。
……たったそれだけの理由で?もしかすると、犯人は違えど3週間前の渋谷の事件のきっかけとして撃たれた人も、秋葉原で刺されたコスプレイヤーも、ただ幸せそう、楽しそうに見えたから被害に遭った……?
「澪と一緒にいる、それが端から見て幸せそうだからな。まあ、それは俺から見ても判る。ただそれだけが動機と言われると、日本がどれだけ危険な国かがよく判るよ。……それが真実ならばな」
と言った常願は数秒置いて
「まあ、折角のクリスマスだし、この話は此処までだ。それだけ、今が幸せだと云う証左だ。萎縮する必要は無いし、寧ろ自慢するといい。そうしないと、娘が悲しむからな」
と言って話を締めた常願は、ダイニングへ向かった。
今し方聞かされた犯行動機、しかし常願はそれが真実ならば、と言った。……昨今の日本なら有り得ない話ではない。やはり、娯楽代わりの犯行が増えているのか。
それについて思うことは多いが、今日は後回し。今はただ、澪といられることを誇りに思うだけだ、と思い直すことにした。
クリスマスディナーを愉しんだ後、流雫はバスルームに向かった。客人がいない、寧ろ出迎えられる側として過ごすクリスマスなんて10年ぶりか。
シャンプーを頭に載せた流雫は、溜め息をつきながら目を閉じる。しかし、頭を過るのは、やはり先刻のことだった。
……1人でいると、やはりふとした時に思う。何故こう云うことになったのか。
1年で色々なテロや通り魔に遭遇し、蝕まれていくのが自分でも判る。溜め息しか出ない。……これじゃダメだとは判っているのに。
挙げ句、幸せそうに見えるから狙われた。もし、それが正しければ、いよいよ日本は安全ではない。そして、流雫が日本に移住し鐘釣一貴、安莉夫妻に預けられた理由も霞んでくる。
吹っ切れた、決着を付けた。……そう思っているだけで、ふとした時に思い返しては、沈む。それでも澪は文句一つ言わないのだから、流雫は頭が上がらない。
シャワーを頭に当てると、シャンプーの泡が排水口に流れていく。今のこの重苦しい感情さえも流せるなら、どれだけ楽か。流雫は目を閉じ、頭を掻き毟りながら、今日ばかりは忘れていたいと思った。
恋人の部屋に戻った流雫の隣に澪が座り、クリスマスケーキとコーヒーで一息つく。……人気の店のケーキは落ち着けるが、何より澪が隣にいることが落ち着く。
「はい、これ」
と澪から渡されたプレゼントの袋を、流雫は開ける。ルームウェアだった。ネイビーをベースに、白と赤のアクセントが入っている。
「あたしの家で、ずっと普通の服ってのも何だから。此処に置くといいわ、来る時準備するから」
と澪は言った。尤も、これは母からの提案でもあったが。
流雫のイメージカラーに合うものを探そうとして、この配色に惹かれた。やはり、流雫と云えばネイビーがベースのトリコロールだったからだ。
「サンキュ、澪」
と言った流雫は、バッグから小さな箱を出す。澪が開けると、コーヒーカップだった。アウトレットでかなり迷ったが、無難にした。
……今更だが、シブヤソラでバッグが持込禁止だったのは、このプレゼントを割らなくて済むように、と云う意味で好都合だった。
「ありがと、流雫」
と澪は言った。
「でも、何よりのプレゼントは、澪と逢えたこと。……なんてね」
その言葉に、澪は顔を真っ赤にした。
クリスマスだからと少し身構えていたが、やはり流雫の不意打ちには敵わない。
「バカ……」
と少しだけ不貞腐れてみた澪に、流雫は
「でも、それが全てだと思ってる」
と言い、コーヒーを啜って続けた。
「何度でも思うし、何度でも言いたい。何が起きても、澪は僕を見捨てなかった。だから僕は、今こうしていられる」
その言葉に澪は
「流雫……」
とだけ囁く。
流雫の言葉は、澪に悉く刺さる。抱えきれないほどの悲しみと苦しみに藻掻いてきたあの半年が、彼を強くも弱くもした。そして澪の手を掴み、今度は抱えきれないほどの幸せを掴んだ。
彼の喜怒哀楽、その全てを目の当たりにした澪は、流雫を見捨てない。世界の全てを敵に回そうと、自分だけは彼の味方でありたい、そして2人で明日の世界に触れたい。
渋谷で夜景と粉雪に祝福された2人の聖なる夜は、東京の片隅に舞台を移し、静かに過ぎていく。ただ隣同士で、2人が生きていること、それだけを何度も感じては、世界一の安寧を感じていた。
2人は日付が変わるまで起きていた後、1つのベッドで背中合わせに寝た。寝るまで言葉は交わさなかったが、背中合わせになって、ただ目を閉じていた。
その時間が、流雫にとっては何よりほっとする。悲しみと孤独を重ねた時間だけ、背中に伝わるほのかな熱が、何よりも頼もしく思えた。
母アスタナを乗せた飛行機が、東京の空へ飛び立ったあの日、寂しいと云う感情を吐き出した流雫を、しかし泣き出したい感情を押し殺そうとした流雫の背中を、そっと抱いた澪の温もりに似ていていた。
だからか、流雫のルームウェアの腕に、小さな染みが浮かんでいた。流雫は隠していたと思っていたが、澪は気付いていた。
クリスマス。最初の目的地は、昨日に続いて渋谷だった。流雫が行きたいと言ったが、澪は2日続けてでも文句一つ言わなかった。流雫がそう言うのは、行きたい理由が有るからだと判っていた。
昨日の粉雪は、しかし積もるほどには降らなかった。そして今は、雲こそ有るが晴れている。
渋谷に着くと、流雫は駅前広場に向かい、シートが被された慰霊碑を囲むバリケードの前に立つ。
「美桜、誕生日……おめでと」
と言って、流雫は駅のコンビニで手に入れた、小さなペットボトル入りのグレープジュースを胸の前で揺らす。彼の言葉に、澪は問うた。
「流雫?今日って……」
「あ、言ってなかったっけ。……今日、美桜の誕生日だったんだ。グレープジュース、美桜が好きだったから。昼休み、よく飲んでたんだ」
流雫は言い、少し間を置いて続けた。
「一度ぐらい、生きてるうちに祝ってやりたかったけど……」
「でも、多分……美桜さんも待ってたと思う。今頃、微笑んでるかも。こうして流雫が忘れていないから」
澪は少し明るく取り繕って言った。
美桜と云う、かつての恋人を流雫が忘れない、いや忘れられないのは、寧ろ澪の願いだった。
流雫が、彼女が生きていたことを忘れない限り、美桜は死なない。そしてその存在を聞いただけ、夢で逢っただけの澪も、彼女を忘れない限り、美桜は死なない。澪はそう思っていた、思っていたかった。
美桜の死と云う悲しい過去が、2人を引き寄せた。その現実は、しかし2人が恋人同士として生きていくためには、目を背けることができない。だから、澪は彼女に向き合うことで、自分の中での決着を付けようとしてきた。
流雫は、薄い白いベールが掛かったような淡い青を纏う空を見上げ、言った。
「美桜がいた、だから今澪に向き合えてる……そう思ってる。だから、忘れられるワケがないよ」
その言葉に、澪は思わず微笑み、シートが掛けられた慰霊碑に向かって呟く。
「美桜さん……見守っていてください……」
何度もこの場所で言ってきたが、何度でも言いたかったし、願いたかった。彼女が何度も流雫と自分を救ってきたと思っていたから。
澪の言葉に被せるように、2人の少女の声がする。
「あれ?澪?」
「流雫くんも?」
その声に澪が声を上げた。
「結奈?彩花も?」
ジャケットを着た結奈と、トレンチコートを羽織る彩花。後ろめたいことは何も無いが、まさか渋谷でこの同級生2人と会うとは。
その隣で、流雫も軽く頭を下げる。共通項は澪と仲がよいことだけ。会った回数も2回だけ、しかもその全てでテロや通り魔に水を差された。
未だに距離感が掴めない上に、一緒にいる時に限って事件に遭遇している事への後ろめたさを、流雫は抱えていた。尤も、2人は微塵も気にしないのだが。
「クリスマスデート。澪は流雫くんと過ごすと聞いてたから、ボクたち2人でね」
「でもまさか渋谷とはね」
2人が続けて澪に言うと、更に彩花が続く。
「ところで、何してたの?」
「ちょっとね」
澪は彼女の問いに答える。
「しかし、これも酷かったね……」
と、慰霊碑を見ながら結奈は言った。
彼女はテレビで、12月最初の日曜日に何が起きていたか知った。しかし、そこに流雫と澪がいたことは知らなかった。
澪の隣で、流雫は表情を曇らせる。結奈は、ただ3週間前の事件以降初めて渋谷を訪れて、その感想を言っただけに過ぎない。彼女に悪気は無い、それは彼も判っている。しかし、本能が反応していた。
「どうしたの?」
彩花が流雫の顔を見て、問う。澪は少し心配そうな目を向けた。流雫は
「あ、いや……、残酷なこと、するんだなと思って……ちょっとね……」
と言って、2人からを逸らすように慰霊碑に目を向けた。
……全ては流雫と澪だけが知っている。同級生2人が知る必要も無い。
「ところで、何処か行く?折角だから少しはダブルデートなんてのも」
流雫は目を逸らしたまま3人に問い、行き先を任せる。……流雫がそう提案するのは初めてで、それには澪が少し驚いていた。ただ、流雫は澪が微笑むのを見ることができれば、それでよかった。
普段から仲がよい3人は軽く言い合った後、秋葉原にできた新しいカフェに行こうと言った。あわよくば、その後3人がハマっているスマートフォン用パズルRPGゲームのグッズに手を出したいのだろうか。
流雫も、ゲームはしていないが澪から少しだけ話を聞いていた。ロススタと略されるタイトルはロスト・スターライト、だったか。
そして、あのハロウィンの夜、複雑な感情に襲われた挙げ句流雫が失った、微笑と云う星の光を澪が取り戻そうとしているように見えた。
……そう云う、自分に献身的な恋人を殺されないためにも、もっと彼女の力にならないと。それが自分を追い詰めている、とは判っていても、そう思うしかない。
3人は
「じゃ、行こう!」
と言って歩き出す。流雫は一度慰霊碑に振り向き
「また、来るよ。美桜」
と呟くとペットボトルのフタを開け、グレープジュースを一気に飲み干す。そして一度だけ深呼吸すると、改札に向かう3人の背中を追った。
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