LTRo4-15「Excessive Codependence」
翌朝、看護師が病室を訪れたのは7時頃だった。
「宇奈月さん、眠れました?」
と云う流雫への言葉に、高校生2人は寝ぼけ眼で白衣の男を見る。
……21時の消灯後、澪は流雫に
「おやすみ、流雫」
とだけ言い、律儀に机に伏せたが、目を閉じて十数秒もしないうちに意識を失った。それだけ、体と云うより脳が満身創痍だったのか。夢も見ず、気付けば朝だった……と云うのはそう云うことだろう。
患部を看護師に見せるタイミングで、一旦部屋を追い出された澪は、既に開いている売店へ向かった。売店と云っても、ミニタイプのコンビニで、澪のような見舞客のために食料品も扱っていた。
澪はボディシートとタマゴサンドを手に入れて戻り、病院食の流雫と一緒に朝を過ごした。……こんな形で朝を迎えるとは、2人は思っていなかった。
流雫は患部の問題で、部屋のシャワーを使えない。だからと言って澪が使うワケにもいかず、澪はシャワールームに入るとソープの香りのボディシートで身体を拭いた。その間、流雫は澪からシートを1枚受け取り、身体を拭きながら、スマートフォンで昨日の事件のニュースを見ていた。
……昨夜澪が見ていた頃からの進展は、犯行動機ぐらいだった。とにかく大きな騒ぎを起こせれば何処でもよく、ただオープンしたばかりで密集するアウトレットが最適だと思っただけ、と云うものだった。
……社会への不満なのかは判らないが、怒りがエンターテイメント化しているのは土曜日に澪が言ったばかりだ。ただ、またしてもそれが起きたと云うのか。
それなら、語弊を招く言い方をすれば、やはりトーキョーゲートの方が背景としては判りやすい。何か、秋葉原のハロウィン事件と云い、釈然としない。
「はぁ……」
流雫は溜め息をついた。
澪の両親が流雫の病室に訪れたのは、9時ちょうどだった。挨拶もそこそこに、早速流雫の取調が始まる。
取調と云っても、中身は銃を撃った時のこととその前後で何を見たか、だった。今まで受けてきたそれと何ら変わらない。ただ、今回は3人撃っただけに、話は長くなる……と思っていた。
上半身だけ起こした流雫のベッドを挟み、机側に父の常願が立つ。その反対側に澪が座り、その隣に座った母の美雪が娘の肩に触れている。それだけで澪は安心していた。
ショルダーバッグに入れてあった細書きサインペンで、昨日エントランスで1部手にしたフロアマップに矢印や記号を書きながら、経緯を細かく説明する流雫。
奥で1人を撃ったことを証言した後、2人目の話になったところで、澪の目が細くなる。やはり思い出しているのか。ただ、母が後ろから支えている。だからどうにか泣かなくて済みそうだと思っていた。
開始から1時間半ほどが経過して、銃を撃った件については終わった。大人2人はドリンクを用意し忘れたと言って、1階の売店へ向かった。今この727号室には高校生2人しかいない。
「流雫……平気?」
「……平気だよ」
と流雫は澪の問いに答え、軽く微笑む。少しだけ、撃たれた時のことを思い出すと太腿が疼くが、仕方ない。
……6人いた犯人で、生きているのは2人のみ。1人は流雫を撃ったが彼に反撃され、もう1人は澪に撃たれた。……流雫が最初に撃ち、踏み台にした男は、その後別の来場客に正当防衛として射殺されたらしい。
別の目撃者の話だと、シルバーヘアの少年……流雫が男を踏み台に階段を超えると、取り残された男は激痛に顔を歪めながら立とうとした。しかし、別の2人の男に立ちはだかれ、
「負け犬が!!」
と罵声を浴びながら数発の銃弾を胸部と腹部に受け、その場に倒れた。ほぼ即死だったようだが、その亡骸を見下ろした2人はガッツポーズをし、一部から歓声が沸いたらしい。
恋人の父から聞いた話に、流雫は思わず唇を噛む。
……やはりそうだった。一部とは云え、デスゲームを見ているような錯覚に陥り、撃ち殺さなかった少年に代わり、敗者を処刑した。思えば、流雫が上階に逃げた時に聞こえたヤジも、男を殺さなかったことが理由だった。
生き延びるために逃げ切る、だから殺す必要は無く、戦力と戦意さえ削げればよかった。甘いのかもしれないが、流雫はそれだけは譲れなかった。……全てはデスゲームじゃない、その分別もつかない連中の思い通りにはならない……。
「流雫……」
と名を呼ぶ少女の表情は暗かった。……何時しか泥沼に嵌まっていた流雫の目は、澪はやはり苦手だった。
「あ……」
とだけ声に出した流雫は、自分の弱さに苛まれ始めていた。
その小さな声に重なるように、ドアのノック音が殺風景な部屋に響く。
「ルナ?入るわよ?」
ドア越しに突然聞こえたその声に、流雫は目を見開く。まさか、いや何故?
「7ヶ月ぶりかしら?」
と、流暢な日本語でそう言って殺風景な病室に入ってきた、眼鏡を掛け、大きなグレーのコートを羽織った綺麗な女の人。大きな三つ編みにしたロングヘアの色はシルバー、そして瞳の色はライトブルー。
澪は彼女に、一瞬流雫を重ねた。……まさかこの人が……。
「母さん!?」
突然のことに、流雫の声が裏返る。2日前にビデオ通話で話したばかりだが、日本にやって来るとは一言も言っていなかった。
「どうして此処にいるの?でしょ?」
そう言った母、アスタナ・クラージュは、バッグを床に置き、コートを脱ぎながら続けた。
「昨日、安莉さんから連絡が有ってね、ルナが撃たれたと。5時前の話だったけど、そこから準備して。あの人も行ってこいと言ってたから。……一番早く着く便にしたけど、24時間も経ってないのに、もう河月にいるなんてね」
アスタナは連絡を受けた後、夫に日本行きを伝えながら慌てて準備をし、大きめのバッグ1つだけを手にした。妻に叩き起こされた夫はその間、アスタナの名義で航空券の購入手続きを済ませる。最も早く着く飛行機は11時半発の日本の帝国航空便だったが、コードシェアのシエルフランス便の枠に空席が有り、そこに予約を滑り込ませた。
アスタナはレンヌを早朝6時半に発つ高速鉄道TGVに乗り、パリ郊外のシャルル・ド・ゴール空港には9時前に着いた。それから11時半発の飛行機に乗り、12時間超のフライトを経て、東京中央国際空港に着いたのは今朝8時前。入院中のルームウェアが必要だろうからと、ターミナルで早朝から開いているファストファッションのサテライトショップに立ち寄って、河月へ向かった。
……今日本は11時前だから、フランスは夜中3時前。レンヌを発って20時間半で着いた。しかし、息子のためとは云えその行動力には、我ながらただ驚くばかりだった。
「……撃たれたと聞いたけど、大したことは無さそうね」
と言う母に
「右の太腿だけで、命に別状は無いらしいよ。一瞬死ぬと覚悟したけど。……久々に会ったのに、最初の話がこれじゃね……」
と返して溜め息をついた流雫は、ばつが悪そうな表情をした。
その遣り取りを見ていた澪は、その美しさに見取れていた。遺伝はもしかすると母親の方が強く、だから流雫が中性的な顔立ちになるのか、とさえ思った。
その目線にアスタナは気付き、顔を向けると
「……もしかして、ルナが言ってる彼女って……?」
と問う。そのストレートな問いに、澪は顔を真っ赤にしながら立ち上がると頭を軽く下げ
「……澪、と、言います。室堂、澪……。は、はじめまして……」
と、しどろもどろに名乗った。恋人の親に、経緯が経緯とは云え会うのは流石に緊張する。しかし、澪が緊張する様子を流雫は初めて見た。それはそれで新鮮な気がする。
「ミオさんね。……緊張しなくてもいいわよ?私は、アスタナ・クラージュ。ルナの母よ。何時もルナが世話になっているようで、礼を言うわ。有難う」
と言って頭を下げたアスタナに澪は
「いえ、あたしの方が……。……何時も、彼に助けられてばかりで……」
と頭を下げ返す。頭を下げないといけないのはあたしの方なのに、と思いながら。
その時、売店から室堂夫妻が戻ってきた。手にはコーヒーのボトル缶が握られている。
「……客人ですかな?」
と問うた常願に、
「……ルナの母です」
と答え、名乗ろうとしたフランス人に反応したのは、美雪だった。声と顔立ちで判ったらしい。
「アスタナ!?」
「え?ミユキ!?」
2人の母親の驚きように、寧ろ流雫と澪が目を丸くして互いを見合う。
……アスタナは20年以上前に日本に留学していた時、東京の大学に通っていた。その頃に仲がよかったのが2歳上の美雪だった。しかし、彼女がフランスに帰って以降、もう20年近く会っていなかったし、連絡先も変わっていた。スマートフォンも無ければインターネットの接続速度も遅く、SNSも無い。電子メール以外に有用な連絡手段が無かった頃の話だ。
しかし、まさか意外過ぎる形で再会するとは。
「……折角だ、ロビーで話してくるといい。俺は取調を続ける」
と常願が美雪に言うと、アスタナは問う。
「……警察の方、ですか?」
「警視庁の室堂です。うちの澪が、何時も世話になってます」
と名乗った常願は続けた。
「……流雫くんが昨日事件に遭ったので、見たことを全て伺おうと。……今までも何回か、彼を見てきました。何故か、彼がよく遭遇するんですよ。ただ、彼の推理力や記憶力は大したものだ。個人的には、その部分で有力な情報を得られるのではと、期待していましてね」
「……簡単な経緯は、私から話すわ。少し出てくるわね」
と美雪は夫に言い、アスタナを連れて病室を後にする。
「しかし、まさか母親同士が知り合いだったとはな……」
と常願は言った。室堂夫妻の馴れ初めは臨海署だったから、あのフランス人の存在すら知らなかった。別にそれにどうこう言いたいワケではないのだが、意外過ぎる。
「……さて、仕切り直しといこうか」
と常願は言い、缶コーヒーを飲み干した。
「……ニュースで日本のこと、よく見るけど。何か、私がいた頃とは大違いね」
美雪から一通りの経緯を聞いたアスタナは、溜め息をついた。
病院のロビーと云うのも何だからと、2人は小さな庭園に出て、紙コップ入りのホットココアを手にベンチに座っていた。肌寒いが、秋晴れで日差しが有り、そこまで寒いとは感じない。
……今の日本で起きていることは、一人息子からも話を聞いているし、ニュースでも何度も見る。しかし、実際に我が子が被害に遭って初めて、フィクションであってほしいと願っていたことが甘かったと思い知らされる。
「この数年で大きく変わったもの。我が子まで遭遇するとは、流石に思っていなかったけど」
と、美雪は思わず愚痴を漏らした。
自分の娘の恋人、その母親が大学時代の知り合い。その偶然には驚いたが、だから余計に2人が遭遇した事件への怒りは収まらない。
「……でも、ルナには悪いことしてるわね」
とアスタナが遠い目をして言うと、美雪は
「悪いこと?」
と問う。彼女は溜め息をついて言った。
「1人だけ、日本で暮らさせてるんだから。親戚が河月でペンションを開いていてね、そこに預けてるの」
「ユノディエールでしょ?昨日泊まったけど、過ごしやすくていいわね。澪が何より気に入ってる」
と美雪が言った。尤も、夫婦に勧めた張本人は昨日は病室で寝ていたが。
「ルナがあのペンションで暮らすようになって、もう10年かしら。……日本の方が何かと好都合だからと、主人と話して決めたし、ルナもそれでいいとは言ったわ。でも、未だ小さかったから、よく判ってなかったと思う。何が好都合なのか、それすら判らないまま……」
アスタナは、最後に再度溜め息をついた。
10年以上前の話を、今更自分で蒸し返しても、どうしようもないことは判っている。ただ、ビデオ通話をする度に、罪悪感が襲ってくる。
10秒ほど経って、フランス人の母親は言った。
「……それでも、ルナは歪まなかった。我が子ながら、その心の強さは流石だと思うわ。……ただそれも、ミオさんの助けが有るからだと思うの。……僕の力になってて、とにかく助かってる……一昨日もそう言ってたわ」
アスタナの言葉には、重みが有った。
美雪には、娘の恋人は彼自身が抱える大きな穴を、我が娘で埋めようとしているように思える。何度か彼を家に泊めた時、その仕草を見ていてそう思えた。その穴が何か、それは彼と娘だけしか知らないことだが、自分から問い質すのは違うと思っている。
しかし、助かっているのは流雫だけではなかった。
「……逆よ。澪は流雫くんに救われているの。見ていて判るわ」
と美雪は言い、ココアに口を付けて続ける。
「あの子、正義感だけはすごく強いの。警察一家に生まれれば、イヤでもそうなるけど。でも、時々それに押し潰されそうになってる。……流雫くんと知り合ったことで少しは落ち着いたけど。でも今度は彼の力になりたい、ならなきゃと……」
「自分よりも、好きな人を真っ先に思うのはいいことではあるけど、だからって自分を後回しにしたがるから……。流雫くんに対しても、何時も遊ぶ同級生に対しても……」
彼女の言葉にアスタナは、ふと浮かんだ言葉を呟く。
「……まさか、共依存……?」
その言葉に美雪は頷き、続けた。
「それも、過剰なほどにね」
……流雫は澪に、澪は流雫に、自分の居場所を求めた。テロと云う死と隣り合わせの環境に晒された2人にとって、生き延びるための原動力が、互いの生だった。
……流雫が撃たれたことで、澪は彼を失う恐怖に押し潰されかけた。そして流雫は、澪を残して死ぬと云う罪の意識に苛まれた。
幸い命に別状は無かったが、一瞬でもそう思ったことは澪にとって、そして彼女にそう思わせたことが流雫にとって、浅くない爪痕を残したことは容易に想像できる。
「危険だけど、でも歯車が噛み合えば何より強いわ」
と言ったフランス人に美雪は
「……噛み合っていれば、ね。歯車が、ズレないことを願うしかないわね」
と言いながら、突発の来日ながら時差ボケの様子が無いアスタナのタフさに感心していた。
淡々と進んだ取調は、看護師が昼の病院食を運んできたタイミングで終わった。
澪の父、常願はこの件を署に持ち帰るために先に東京に戻るが、妻と娘は夕方まで残ることにした。特に互いの母親同士で話したいことが有るらしい。2人はそれぞれの我が子を病室に残して、再び庭園へと出た。
2人きりになった部屋で、流雫は切り出す。
「……トーキョーゲートとの関連性、有るのかな?」
「有っても驚かないわよ?」
と、澪はベッドの縁に椅子をくっ付け、座り直しながら答える。事実は小説より奇なり、とはよく言ったものだが、トーキョーゲートはその範疇を超えている。
「……でも、有るとは思っていないわ。これも、怒りの捌け口と云う娯楽でしかない気がする……。だって、トーキョーゲートの標的になりそうなものが無かったもの」
と澪は言った。
……事件が起きた場所と云う意味で、昨日の件に最も近いのは、流雫と澪の初対面だったアフロディーテキャッスルでのデートで遭遇したテロ事件だと思える。その時は、SDGsのイベントが開かれていて、その世界的な潮流をよく思わない連中の仕業……のように思えた。それの罪自体は別として、SDGsに対してよく思わないと云う明確な意義が有った。
ただ、秋葉原駅前のハロウィンでも昨日のアウトレットでも、事件前に偶然現場となるエリアを1周していたが、そう云う標的になりそうなものは無かった。単に人が密集する中で起きた、劇場型の犯行でしかない。澪は昨日、ニュース動画を見ながらそう思っていた。
……やはり、怒りの捌け口と云う娯楽として起こした、と見て間違いない。そうでないことを何度も願いたかったが、刑事の娘の頭ではそれ以外の答えが、どうやっても見つからなかった。
「人の命を……一体何だと思ってるの……!?」
と澪は呟きながら、流雫のベッドのシーツを掴む。流雫はその手を握った。
……命を軽く扱われていることへの怒りは、恋人を泣かせようとしていた。その声で判る。
「流雫……」
彼の名を呼んだ澪に言える言葉を、流雫は見つけられない。
しかし、澪は言葉など欲しくなかった。ただ、この怒りが自然鎮火するまで、手を握っていてほしかった。それだけで、あたしは泣かなくて済む……と思っていた。
夕方前、澪とその母が帰る時間になった。母親2人はメッセンジャーアプリの連絡先を交換していた。これで、アスタナがフランスに帰っても昔のように話せる。
澪は今週末も見舞いに来たいらしく、事実上流雫に拒否権は無かった。結果として3週連続会うことになるが、母の美雪は反対しなかった。
室堂母娘が帰った後、病室には流雫とアスタナの親子が残る。流雫は母との7ヶ月ぶりの再会が、まさか自分が入院する病室でとは思っていなかった。
流雫は母から渡された、真新しいブルーのルームウェアに着替える。下半身の着替えは思うように動かせず、母の介助が必要だった。
「……ミオさん、すごくいい人じゃない。大切にしないとね」
母の言葉に、流雫は頷きながら言った。
「僕には、澪しかいないから……」
……大切にしないと。美桜の時のような過ちは二度と……。その悲壮感が顔に出ていたのか第六感なのか、アスタナは諭した。
「でも、自分を追い詰めてはダメよ?」
「追い詰めてはいないよ」
と、母に言い返した流雫は軽く微笑んだ。しかし、取り繕った表情の僅かな陰りを、母は見逃さなかった。
「僕は……強くないから……強くならなきゃ……いけないのに……」
そう言って流雫は、思わず唇を噛む。思い出すのは、やはり昨日のことだった。
「ほら、そうやって追い詰めて……!」
母は言い、溜め息をついた。……図星だった。
「仕方ないじゃないか……」
そう言った流雫は、俯いて続けた。
「……澪は、何時だって僕のために……僕が泣かないように……。だから、僕だって……澪の力になりたい……もっと……」
「……そうすれば、澪は泣かなくて済むのに……。昨日だって、僕が撃たれたから……澪は……」
流雫は真新しいルームウェア越しに、腕を目に押し付ける。
……太腿の痛みに悶える少年の名を、泣きながら叫ぶ恋人を思い出していた。
「流雫ぁ……!!流雫ぁぁ……っ!!」
あの澪の声が、表情が、美桜の死を聞かされた時の自分とリンクした。
「澪が泣いたのは……僕が……」
と細い声を出す流雫を見ながら、母は
「……ルナは優しい子だから……」
と言いながら、息子のシルバーヘアの頭を撫でる。
「優しく……なんかない……」
そう呟くように言った流雫の声は、詰まっていた。
……ルナは歪まなかった。ミオの母ミユキと話した時に自分が言った言葉は、しかし半分間違っていたとアスタナは思った。
自分の一人息子は、孤独感の反動から犯罪に走るようなことは無かった、それは褒めたい。
しかし、ルナはミオのためと云う言葉で、もっと簡単に言えばミオへの愛で、目を背けたい空虚を埋めようと必死になっていた。思い詰めている自分のことを弱いと言って、更に追い詰めていると云う、不都合な真実から目を背けて。
「優しく……なんか……」
細い声を絞り出した流雫は、精一杯右腕を伸ばして母の体を抱き寄せた。太腿に痛みが走るが、今はそれぐらいどうだってよかった。
「ルナっ!?」
「……っ……ぁ……」
一瞬驚いたアスタナは、しかしルナが声を殺して泣いていることが判ると、自分の胸の下に触れる息子の肩を抱いた。
……彼女が最後に見た、ルナが泣く様子は、彼が未だフランス人だった頃の話だ。それからは、ビデオ通話でもフランスに帰ってきても、我が侭も言わず、甘えたりもしなかった。
周囲からは、一見手が掛からない優秀な子だと思われているだろう。聞こえはよいが、しかしそれはただ感情を殺した子のようにしか、アスタナには思えなかった。未だ幼かったとは云え、最終的に家族と離れ、1人日本で親戚と暮らすことを選んだのは自分だから、甘える、泣き言を洩らすなど今更できない……と。
そうやって押し殺していた10年分の感情が、優しい子の言葉を引き金に大爆発を起こした。……しかし、母にとっては、それでよかった。
アスタナは、自分に抱きついて泣きじゃくるルナの最も人間臭さ、人間らしさに漸く触れることができた。ルナを愛しくないと思った瞬間は寸分も無かったが、今この瞬間が、最も愛しく思える。
エレベーターを降りた黒いロングヘアの少女は、727と札が貼られた個室病棟の端の病室のドアを叩こうとした。見舞い相手の恋人には今日、彼の見舞いに行くとは言っていた。しかし、思ったより別件が長引いて、夕方になった。
少女……笹平は
「此処ね……」
と呟き、ドアをノックしようとする。
……中から泣き声が聞こえた。彼女はノックせず、音を立てないように数センチだけドアを開けて、病室を覗く。
病室の奥で、ベッドに座ったままの流雫が女の人に抱きついて泣いていた。澪とは違う人だが、彼と似ている。もしかして、フランスにいるハズの母親だろうか、と笹平は思った。息子のために、日本に急遽駆け付けたのだろうか。
その美しさに見取れつつも、今はタイミングが悪過ぎると思った笹平は、そのまま引き返した。思いがけぬ形とは云え、家族と再会したのだ、部外者が邪魔するべきじゃない……そう思っていた。
病院を後にする少女は、一気に憂鬱になる。
……明日から、どれぐらいの間になるか判らないが、流雫がいない学校生活が訪れる。黒薙を含む同級生が、この事情を知ると更に流雫を標的にしかねない。それが何より気懸かりだった。
澪が乗る予定の帰りの特急列車は、3連休最終日の夜前とあって、都心に帰る人で満席だった。室堂母娘が昼間にネット予約で確保したのは、その最後の2席だった。しかし、大体なら離れ離れになるハズが隣同士だったのは、奇跡としか言いようが無かった。
病院を後にした2人は、河月駅ビルで早めのディナーにした。選んだ店は、半年前に澪が流雫と行った最上階のレストランだった。理由は彼女自身が気に入っていたからだったが、母にも好評だった。尤も、同じメニューなら鐘釣夫妻が手掛ける方が、更に美味だと云うのは秘密だったが。
何より、母娘の2人きりで何処かの店に寄ることは数年ぶりで、それも嬉しかった。
腹を満たした2人は駅の改札に向かった。しかし、流雫の見送りは無かった。改札の奥から振り返っても、あのシルバーヘアの少年はやはりいなかった。そのことが、彼が今入院していると云う事実を改めて澪に突き付けた。
だからか、動き出した列車の窓に反射する澪の顔は、虚ろな目で遠くを見ているように母には見えた。
「……あたし、流雫の彼女でいられるのかな……?」
列車が最初の通過駅に差し掛かった頃、澪が発した突然の問いに、美雪は怪訝な表情を浮かべた。
「澪?」
「……昨日、流雫が病院に運ばれる時……ふと思ったの。あたし、彼女でいられないと。流雫の前で、ただ泣き叫ぶことしかできなかったから……」
娘の弱気な言葉に、
「今はどう思うの?」
と美雪は問うた。澪は外を向いたまま、スカートの裾を強く握って言った。
「……今は、あたしがいなきゃ……そう思ってる。でも、あたしはあまりに弱過ぎる……。何時も流雫に、護られてばかりで」
「流雫はあたしの騎士……だと思ってる。でも、あたしを護ろうとしたから流雫は……。だから、あたしも強くならなきゃ……そう思うの。二度と流雫が苦しまなくていいように」
と澪は続け、悲壮感が滲んだ表情を母に顔を向けて、最後に呟くように言った。
「……そうじゃなきゃ、あたしは流雫の彼女でいられない……」
最愛の恋人が目の前で撃たれたことで、彼女としての自信を失い、今も揺れている。そして、浅くない爪痕を隠そうとして、無理して強がっている。流雫の隣に立ち続ける、たった一つの理由のために。
美雪の目には、澪が悲壮感に縛られているように見えた。それでも、ただ混乱して泣きじゃくっているだけだった昨日よりは、断然頼もしく見える。
……そうやって、澪は少しずつ、悲しいことや苦しいことさえも経験しながら、大人に近付いていく。その背中を見守ることしか、美雪にはできない。
自分の膝の上で絵本を読んでいたり、今も大切に持っているぬいぐるみで遊んでいたり、反抗期で喧嘩していたりした頃の澪はもういない……。そのことを、美雪は母として思い知らされていた。寂しくもなるが、娘がこの世界に生きる以上は避けられない。
美雪は娘の手を優しく握り、言った。澪は優し過ぎる、だから壊れないようにと願いながら。
「……今の澪は、彼女として十分相応しいと思うわ。でも、だからって抱え過ぎてはダメよ?それが流雫くんを、不必要に縛り付けることになるんだから」
その言葉に澪は、少し間を置いて頷く。
「……それでこそ、私の娘だわ」
と美雪は微笑みながら言った。澪は
「あたしは、室堂美雪の娘だもん」
と言い、微笑んでみせた。
……昨日病院で再会して以降、初めて見た娘の微笑みは、未だ少しだけ目が曇っている。ただ、それも時間の問題……だと母は思っていたかった。
流雫は母から離れようとしなかった。そして母アスタナも、何も言わなかった。気が済むまで、このままでいさせること、それが今、自分が我が子にできる唯一の事だと思っていた。……それは、言わば一種の贖いだった。
甘えられるうちに、甘えたいだけ甘えること。それは子の権利だったし、そうさせるのは親の義務だ……と、アスタナは思っていた。
ただ、その権利をルナに捨てさせることになった。それに至らせたのは両親の罪だと思っている。夫のマサノリ……宇奈月正徳も、その部分で同じ意見を持っていた。ただ、如何せん話すタイミングが皆無に近く、それに頭を悩ませていた。
ルナの怪我は、彼自身が忘れていた……或いは捨てたと思っていた、甘えたい感情を思い出させるための、一種の試練だとアスタナは思っていた。ただ、その爪痕は恋人のミオをも抉るほど深過ぎた。そして、その贖いにルナは苦しんでいる。
……ルナは優し過ぎる。だからミオに居場所を求めていた。昨日ミユキが言っていたように、その歯車がズレないようにと願い、見守るしかない。
ルナの吐息だけが聞こえるが、抱きつく力は少しだけ強くなる。
「母さん……、……っ……」
そう呟いたルナは、母の温もりをその体に焼き付けているように思えた。
退院すれば、またアスタナとは日本とフランスで離れて暮らすことになる。だから寂しくならないように、何時でも思い出せるようにと。
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