アポトーシスが聞けない自分は現実と向き合えないのか
この記事で書いた肉親との別れ
肉親が患っていた病気についてもかなり調べて、まぁ2、3年かな、とか病気との付き合い方を調べてこういう方向になってしまう前に別の原因でなくなるのが本人にとってはいいんじゃなかろうか、など色々考えを巡らせていたのだが、そんな思考の逡巡などぶっ飛ばす勢いでその日は突然やってきた。
私は理系研究者なので一次情報にあたること、物事を客観的に考えることを自分の主軸に置いている。
その上で現代医療で治せる病気の数なんてたかがしれていると思っているのでお医者さんの力量にはほとんど期待していない。
それでも肉親が原因不明で倒れてしまったあと、当然お医者さんの説明を受けるのだが、気休め程度の治療であることを把握しながらこれは当然のことを受け入れられない方々向けの説明だなぁ、そんな処置ならしなくていいのにと思いながら聞いていた。
(実際この時間は私以外の家族にとっては肉親の死をうけいれるのに必要な時間だった。)
なのでそれほどダメージを食らっていないと思ったのだが車の中でふと流れたOfficial髭男dismのビンテージに涙が止まらなくなり、アポトーシスはいまだに聞けない。これは深層心理では現実を受け入れられてない、ということなのか。多少早くはあったが私の理想的な形での別れではなかったのか。色々考えを巡らせている。
ふとスマホの過去の動画を振り返っている時に発見する元気だった時の姿をみてグッときたり…
やはり客観的には納得していても本質ではまだ受け入れきれていないことなんだろうな、と思う。
来週、春ぶりのOfficial髭男dismライブなのだが果たして私の心はどうなるのか。少し怖い。
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