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向き合うと言う事とOfficial髭男dismのアポトーシス

私は2回出産しているが、どちらもものすごく悪阻が重かった。
ご飯が食べられないのはもちろん、水を飲んでもすべて吐いてしまい、立ち上がれない。
ケトン体3+となり、最終的には点滴でなんとか凌いだ。
ひどい悪阻から脱却しても思うようには食べられなかった。

そんな時、どうしてもこれが食べたい‼︎と焦燥感に駆られる食べ物が幾つかあって、でもすぐには食べられなくて苛立ちが募った。
例えば実家で食べた休日昼のラーメン。
家族で足繁く通ったレストランのピラフ。
学生時代、友人と死ぬほど行った中華屋のあんかけ焼きそばやいわしコンビーフライス。

なんとなくラーメンが食べたい、ではなく、あのシチュエーションで食べるあの人の作った、もしくはあのお店のコレ。
ものすごく具体的。
舌が記憶している何かがそうさせるのだろうか。

Official髭男dismのアポトーシスをはじめて聞いた時、このことを思い出すと同時に、とても突然の別れとなった親族のことを思い出した。
新しい生命を育んでいたときの記憶と共に生きてきた生命との別れの記憶。

ひとときだって愛しそびれないように 

今目の前であんなに苦しんで産んだ子どもがママ大好きって抱きしめてくれることにちゃんと向き合ってるだろうか。
あの日とあるミュージカルを見て幸せな気分でベッドに入ろうとしていた時にかかってきた電話。
報せを聞いて、もっとちゃんと向き合い続ければ良かったと強く思った。
そんな事をアポトーシスを聞くたび考えていた。

そしてしばらく経って、最近自分の両親にも少しずつ確実にその日が近づいてきていることが分かった。
一番しんどいのは当事者なはずなのに、前向きに頑張ってる。
私は早熟で大人びた思考の子どもだったので両親とは常に対等の関係だった。
大好きと抱きついた記憶もないし、自分の将来を彼らに相談したこともない。逆はあったけれど。
それでも私なら心が折れてしまう状況になっていても前向きに頑張ると言っている姿に、改めて今尊敬の念を抱いている。
ひとときだって愛しそびれないように、そう言い聞かせながら私と彼らに残された時を過ごそうと思う。

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