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ずっと見ないふりしていたもう一人の私

仕事で、学校で、家族と、友人と、お客さんと、一言だけ話した人と、
そこそこ普通の一日を過ごした中で、ほんのささいな何かがきっかけで、心が重たくなる。
でも、泣けない。
これぐらいで情けない、と思うのに、何か傷ついたり、不安になったり、とにかくどこかに籠もって一人きりになって動きたくなくなる時がおそいかかってくる。
人生のうちに何度も何度も。

その不安や恐れは、もしかしたら、今さっき起こった出来事がきっかけで、生まれたものではないかもしれない。
ずっとずっと昔に経験した痛みが、些細なきっかけで浮かび上がってきたのかもしれない。

見ないふりしていた、苦しむ自分が、心の中に隠れていませんか?

その子はよく、インナーチャイルドと言われる子だったり、幼いアダルトチルドレンだった自分の子供時代とも言えるかもしれない。

呼び方はなんでもいい。
大事なのは、自分の中に、苦しいよ、悲しいよ、でも生きることを許されるために、がんばるね、と歯を食いしばっている小さな小さな守られるべき子がいないか知ること。
いたら、今まで見ないふりをしていたのなら、ごめんねと、謝り、手を取り、声を聞くこと。
できるのなら、ぎゅっと抱きしめてあげること。

泣くになけない、なんだかもやもやした1日でした。
そんな日は珍しくなく、私にはむしろ日常的。
でもその日常が、ティク・ナット・ハンの「和解 インナーチャイルドを癒す」を読み、少しずつ変わり始めました。
もやもやを感じた時が、チャンスとばかり、一人になれる時間までそのモヤモヤを抱え、一人になったときに、どこかで生きる価値なんてないんだ、と落ち込んでいる幼い私を探します。
幼稚園ぐらいの幼い私。
どうして生きているのか、死ねばいいと毎日のように言われ続け、
私が死ねば食費も浮いて家族が幸せになるのに、私が恐ろしくて死ねないばかりに、親は喧嘩をし家族は不幸なのだと、本気で思っていた幼い子。
些細な失敗やひらがな等の間違え、おねしょ、食わず嫌い、全てが殴られ、死を望まれるきっかけになる恐ろしい世界。
よくぞ、その中でも、山の緑の美しさや風の心地よさ、夜の家々の灯り、外から聞こえる一家団欒の声に、心を和ませ、愛しく思い、生きる縁にしてくれた。

あの時の苦しみはまだ霞にかかったように、実際の親とのやりとりは覚えていない。
それでも、重苦しい痛みはずっと残っていた。
一緒にその痛みに触れ、涙を流し、そして傷ついた自分を愛しく思う。素直に思う。認める。

痛みを見ないふりしていると、どうやら私は泣けないらしい。
日常の、些細な出来事に心がもやっとする時こそ、その背後に隠れた大きな傷に触れる扉が開いたチャンスなのだ。

とりとめもない、文章を、ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。

考えるより感じることを。
大丈夫。心も身も安全なところにある。
古傷が痛むのは、むしろ、今が安全だからだ。


ありがとうございます。