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感受性と孤独と知床

仕事や学業に忙殺される日々を送っていると、ふと足を止めた時に自分の感受性が息を潜めていることに気がついて、愕然とする。

街中を歩く時、いつもだったら点字に息づく人の気配や、エスカレーターの前に立っている人の少しプリンになった髪の生え際、梅雨らしく澄ました顔でしとしとと降る雨の音、そんなことに小気味良くなったり、癒されたりしている。微かな息遣いで、しかしたしかに世界にある証に気付くことで、私は幸せでいられる。

仕事をする上で、ある程度心を麻痺させることは自衛にもなる。この世の中には理不尽なことがたくさんあって、私たちは生きていく上でそれを避けることができない。だが、それを理性と呼ぶとしても、そんな生き方はきっと動物の中では人間しかしていない。

北海道の森が好きで、一年に一度は季節を変えながら足を運んでいる。中でも知床の森は、森そのものが人の立ち入りを許していないかのような厳然たる領域を持っているような気がしている。
この森に息づく動物たちは、決して人の手による保護を必要としていない。そして同様に、この地に住む人たちは、自然を前にして人間がいかにちっぽけな命であるかを知っている。森と命がどのように巡っているのかを熟知しているようだ。この生き方を、都会に住む人たちはすっかり忘れているように見える。

空から山、そして海にまで繋がる大地に足を運ぶと、たとえ厳冬期に厚い雪に覆われて動物たちの姿が見えなくても、その森のあちらこちらから命の気配を感じる。
1キロ先から聞こえてくる、木が凍裂を起こす音や、雪上のちいさな足跡、雪を少し掘れば、春に芽吹くためにじっと耐え忍ぶ草木に出会い、早春に産まれた仔鹿が顔を出せば、あぁ、私もまたこの世界の細胞のひとつなんだなと思う。

知床の地で命の気配を感じることは、東京の雑然とした都会で、知らない人たちの行き交う中ひとりで立っている時の痛烈な孤独感を癒してくれる。深い森で、ひとりで立って目を閉じる瞬間ほど孤独なものはないはずなのに、人に囲まれている方がずっと孤独だ。

人間は、コミュニティに属していなければ自分の存在意義を認識できないのだという。そして、最大の幸福は全体感を得ることであり、それにより自分が生物として稼働していること自体を認められることこそが真の幸福なのだとアドラー心理学は説く。

たしかに、知床で私が得ている満足感は、大地との一体感とも呼べるのかもしれない。
そして、その満足感を人間のコミュニティから得られない不健全さをずっと抱えて生きていくのだろう。

感受性と孤独は、私にとっては密接な関わりを持つらしく、感受性が息を潜めた途端、私はひとりぼっちなのだと思ってしまう感じがする。
好きなものを好きと認知する時、そこには必ず心の動きがある。嫌いなものを嫌いだと言う時、嫌という程心は動いている。それはもしかしたら心を殺さずに生きている証であるかもしれない。

「自分の感受性くらい自分で守れよ」

もうすぐ夏至だ。
一年で一番太陽が長く顔を出している。
幸せな気持ちで見届けられるだろうか。

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