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花に還る――おやゆび姫からのことづて



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 四月、ある乙女から薄紅の紗がかかった花びらの薔薇をいただく機会がありました。“てまり”という名のその薔薇をティーカップに浮かべ、本来の純白さと透明さに還ってゆくみたいに日ごと白くなってゆく花を眺めながら、わたしはアンデルセンの『おやゆび姫』のことを思い出していました。

 おやゆび姫がこの薔薇のなかで花びらを寝台として暮らしていても不思議ではなさそうなほどに、ロマンティックな風情のある薔薇だったから。もっともおやゆび姫が生まれたのはチューリップの花からだったけれども。でもチューリップでなくとも薔薇からだって、桜からだって、百合からだって、その蕾がひらくときちいさな女の子が生まれてもおかしいことなんてない。そんなふうに感じさせてくれるような、夢心地の薔薇だったから。


 去年の春から夏にかけてアンデルセンの著作をあらためて読み返す機会があり、そのとき『おやゆび姫』とも子供のころ以来ほんとうにひさしぶりに再会したのだけど、それはおやゆび姫の物語においても、アンデルセンのほかの作品においても幼かったころには気づかなかったこと、感じなかったことに想いを馳せる時間をわたしにあたえてくれました。

 おやゆび姫や人魚姫、アンデルセンの綴った女の子たちが焦がれる“空”への憧れと憂いを感じとった夏のひととき。


 「『東京には空がない』と高村智恵子はいった。『私のなかで La mer ――――――女性名詞の海が亡ぶとき、私ははじめて人を愛することを知るだろう』と寺山修司はしるした。」というはじまりで遠い昔、“空のかなたにいる誰か”という文章を書いたことがあって、そのなかでわたしはやっぱりおやゆび姫についても触れており、自分という人間は変わっても自身が養分にしてきたものたちを根幹として嗜好と思考が重ねあわさり軽やかな円環を描くとき、わたしはもういないはずの過去の自分自身とおなじ場所を巡っていることに気がつくことがあって、それが興味深くもある。わたしの変化とともにその螺旋はおおきくなりはしても、そこにある根幹と養分は変わらないのだということが。


 “空のかなたにいる誰か”で、当時のわたしはこんなことを書いていた。


 東京には空がない。

 あの愛の歌をはじめて知ったとき、わたしがとっさに思い浮かべたのは、子どものころに読んだ『親指姫』だった。

 「空」を諦めきれなくて、もぐらとの生活を拒んだ花びらのような女の子のお話。もぐらと結婚することは空を失うこと。それはそんなにかなしいことなのかと、幼いながらに感じたことを、わたしは覚えている。

 土のなかという「地下都市」で空と隔てられても、きっと幸福に生きていくことはできる。しかし親指姫には「空がない」ことは耐えられないことだった。彼女は逃げる。太陽の光を彼女から遮断しようという蜘蛛の糸が絡む罠のような婚姻から。

 そしてつばめの背にのって《空》を渡り、たどりついた南のうつくしい花の国で、自分だけの伴侶と出逢う。

 彼女は自分の空を見つけた。



 「定められた枠組み」のなかで充分に幸せを感じて生きてゆくことができるひともいる。世間の掟や、自らが所属する世界の指針によってつくられる枠組み、その掟や世界から見て「これが幸せ」という枠組みがあるとして、自分自身がその枠のなかにぴったりと収まることを、「幸福」であると感じることもある。

 「それが幸せ」だと思われている枠組み。しかしその枠を窮屈だと感じるひともまた存在して、アンデルセンが綴った物語は、自分がいる「枠組み」を疑う者たちの自身との戦いの側面を秘めてもいる、とわたしには感じられます。


 モグラと結婚すれば一生困ることはないと野ネズミのおばあさんはおやゆび姫にいいふくめる。モグラはお金持ちで、一緒にいると何不自由ない生活ができるのだそう。でも、おやゆび姫にとってはモグラと婚姻を結ぶことで「空が見れなくなること」のほうが“自由”を奪われることだった。

 野ネズミのおばあさんはおやゆび姫に「これが幸せ」なのだと常識という名の枠を教え、それにおやゆび姫は疑問をもち、彼女はその枠組みをこえていった。

 枠組みをこえてゆくひとは同時に、いま自分がいるのは「定められた枠」のなかであるのかもしれないと疑いをもつひとでもある。


 おやゆび姫の介抱によって瀕死のツバメがふたたび空を飛べるようになったとき、「あのツバメとともに空を飛び、別のところにいきたい」とおやゆび姫は内心では思いつつ、自分がいなくなったら野ネズミのおばあさんがどんなに寂しいだろうと思い、「ぼくと一緒にきませんか」というツバメの誘いを一度は断った。

 凍える冬をまえにひとりぼっちで放浪していたおやゆび姫に手を差しのべ、あたたかい場所に招いてくれた野ネズミのおばあさん。そのおばあさんに寄り添うことで受けた恩とおなじあたたかさを相手にお返ししたいとおやゆび姫は思ったのかもしれない。

 自分が困っているときに助けてもらったことを忘れないという気持ちも、相手に対する愛をもちつづけることも、人間としての高貴さだとは思う。けれどもその高貴さと愛ゆえに「自分がこうしたい」と感じることに「でも」という接続詞がつき、そのあとにつづく迷いの天秤が「あのひとはどう思うか」という考えに傾いて、その相手を優先しそうになったとき、「自分はどうしたいか」に立ち返って自身に問うことの大切さが暗示されていて、これはやはり童話なのだとアンデルセンと再会した夏に、わたしは感じたものです。

 「童話」というのは、子供が親しみをもって読むことができながら、そのあとその子が生きてゆくうえで重要な鍵となるものをつたえてくれているものだから。


 春が巡りふたたびやってきたツバメは、おやゆび姫の本心。

 なにかを選ぶとき自らの「ツバメ」に添えることが、おやゆび姫が最後に辿りついた“南の国”に象徴される“幸せ”へのしるべなのではないかと、わたしには思われるのです。


 そしてもしかしたら“自らの「ツバメ」”に添うことは、「これまで」とは異なる選択をすることを自分に認めなければいけない、赦さなければならないときかもしれないこと。

 「これまでの自分」が「これからの自分」と入れ替わるとき、おおきくなにかが変わるとき、まだ知らぬ世界、未知にむかって羽ばたきたいという自分の気持ちを大切にしなければいけないときがあること。

 自らの意に添わない結婚を拒みツバメの背に飛びのって高い空へとむかったとき、おやゆび姫を突き動かしたのもきっとそのような感情だったように。

 空になにがあるかわからない。でもそこにはそれまでの自分では知ることのなかった「なにか」があるはずで、その「なにか」はおそらくいまの自分では想像もおよばないもの。

 わたしたちは「これまでの自分」が経験したものの範囲であれこれと思いを巡らせ、「これから」を決定しようとする。だからおやゆび姫が一度はツバメの誘いを断ったとき、いまいる安全だけども窮屈な場所と、なにが待っているのかわからない空へ飛び立つこととのあいだでせめぎあう気持ちもあったのかもしれない。

 自分が“知らないこと”は想像できない。だから“怖い”。

 それでも彼女は自身の心を偽ることができず、空にむかって羽ばたいて、そして花の王国へと辿りついた。


 果てもなく限りない空に、制限はない。

 おやゆび姫は自分を狭め、縛ろうとするものの重力から放たれて空に羽ばたいてゆく。空の彼方にいる「だれか」、空に誰もが見る「なにか」は解き放たれた自分自身なのではないかと、わたしは思ったりします。


 自分の還る場所というものを誰もが探しているのかもしれなくて、それを「故郷」と呼ぶのだろうと、いつか考えたことがある。「ふるさと」という響きは、「自分がそこで生まれた」という事実だけで語れるものではなく、ひどく懐かしく、だから自分が自分であることを赦される場所でもあるのだろうと。

 それは目に見える特定の場所であるかもしれないし、もしかしたら誰かの存在そのものを「自分が還るところ」だと想うひともいるかもしれない。だからこれから出逢う、あるいはこれまで出逢った“まだ見ぬ”場所や人に、自らの「故郷」を感じることがあっても不思議なことではないのだと思う。それはきっとその場所や人をとおして、「ほんとうの自分」に近づく気配を嗅ぎとっているがゆえの郷愁なのだろうと。


 おやゆび姫は、花から生まれた女の子が花の王国に還るお話。

 花から生まれたおやゆび姫は、おひさまの光のない場所に幸せを感じることができなかった。植物とおなじように陽射しや緑の風、四季の恩恵のなかに生きたいと願い、その自らの幸福にしたがって飛びたち、そのようにして辿りついた南の花の王国は自分とおなじ姿をした花の天使の暮らす場所だった。

 おやゆび姫の旅は彼女自身も気づかぬまま「まだ見ぬ故郷」を目指してはじまり、困難のさきに「ほんとうの居場所」を見いだす、花から花に還る旅であったのだと思う。そして「ほんとうの居場所」に還るためには自らの「ツバメ」に添わなければいけないね、そういうことをつたえてくれている物語なのだと。


 睡蓮の葉にのり蝶にみちびかれてはじまった、おやゆび姫の旅。

 彼女が自分とおなじおおきさの少年と出逢うとき、終焉を迎える物語。

 金の冠をかぶり背にはまっしろな翼が生えたその少年は、花の王国の住人で、おやゆび姫はそのひとが頭上にかかげていた冠をいただき、美しい翅をいただいて、花の女王さまになった。

 その王国は花の天使の住む場所で、住人の誰もが王であり女王だった。

 誰もがそのひとだけの、自分自身の王国のあるじ。それはつまり、誰もが王であり女王であるということで、そしてそのとき、王であり女王である自分を取り巻く他者、親しみをかわすひとたちも、王であり女王である人々でなくてはならない。自分が王として、あるいは女王でありながら、相手も王であり女王である、そのように交流できるひとたちだけを自らの「王国」に招くこと、それがそのひとだけの玉座と王冠をいただく「花の王国に住む」ということ。

 

 自分自身の制限から解き放たれ空にむかって飛ぶことで、「ほんとうの自分」となり、だから「ほんとうの居場所」である南の花の王国へと還り、そして花の女王となって、自らとおなじ王や女王たちの住む世界に辿りついた女の子の物語。花から生まれた女の子が花に還ったお話。あらためて読む『おやゆび姫』を、わたしは去年そんなふうに感じたものでした。


 一輪の薔薇からはじまったおやゆび姫の回想、長くなってしまったけれども、夢心地でロマンティックな薔薇のこと、そしてそこからつながる連想のこと、記しておきたくなったので。



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