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お絵かき教室のキキ先生

子供の頃、近所のじゅんくんが、スケッチブックと絵具セットを持って向こうからやって来た。
じゅんくんのお母さんは、「お絵かきに行って来たの。」と言った。
私が4歳になる少し前の話なのに、その場面だけ、鮮明に思い出せる。

「私もやりたい!」
母のスカートを掴んで叫んでいた。

ピアノは練習がいや!バレエもやりたくない!と母の後ろに隠れていた私が、初めてうらやましい、と思ったのが、じゅんくんの緑のスケッチブックと斜めがけにした青い絵具セットだった。

それじゃあ、と連れて行ってもらうと、長い髪にタイダイ染めのスカーフをした若いキキ先生と、ノト先生がいた。
ジャニス・ジョプリンのようなテイストのジャラジャラネックレスもしていた。

たくさん子供が来ていて、何を描いてもいいのだけれど、
「何もないのもなんだから」とお題がある。
たまに静物もある。

幼稚園に入る前だったが、そこならば母に置いていかれても楽しめた。
クレパスで描いて、絵の具の混色をパレットで楽しませてくれて、自由に塗った。

キキ先生もノト先生も、その他の先生たちも美術系の学生で、
先生というより、かっこいい大人の人に見えた。
決して、優しいお姉さんではなくて、ツン!としていて、細い体にぴったりとしたベルボトムジーンズを履いていた。
子供にも、大人に話すのと同じ口調で話していた。

子供の絵に手出しはしない。泣いている子は放っておく。良いとか、悪いとか評価もしないし、上手くしようなんて、さらさら思っていない。


それが、子供心に心地よかった。
自由に描いて、終わりたい時だけ、先生にきく。
聞いても、

「ここ、もう少し塗ったら終わり。」

程度のコメントで、だからといって、ちゃんとみてくれている。
お絵かき教室にかける熱意は、子供に伝わっていた。

そして、その後がよい。
水道が近くにないので、バケツに水が汲んであり、パレットに残った絵の具を混ぜながらその中で洗う。
すると、何色と何色が混ざると、この色ができる!と自然に覚えていく。
教えてもらったのは、肌色の作り方だけ。つまり、白を混ぜる色は教えてくれる。

スケッチブックは、立てて乾かし、乾くと裏にコメントを書いてくれることになっていた。
日付と一言。
それも、親に向けてではなくて、描いた子供に向けてのメッセージだった。
踊るような、流れる絵のような字で、さらっと書いてくれる。
帰ってから読むのが楽しみだった。

何年続けただろう・・・。
多分、6、7年通った。
上手くなろうと思ったことはなかった。
楽しみに通っていた。
しかし、キキ先生やノト先生とじっくり話した覚えがない。
ベタベタしていない感じが私には心地よく、長く続けられた理由だったのかも知れない。
一回だけ、静物の形が上手くとれずに、新しい先生が手を入れてくれたのだが、
私の絵なのに・・・と泣きそうになったのを覚えている。
その感覚を、時間をかけて育ててくれたことは、今更ながらすごいことだと思っている。


交代で休む時、キキ先生は煙草を吸っていた。カッコ良かった。
今から思えば、海外の美大ではLSDを試したり、そんな時代だったと思われる。
サイケデリック、フラワーチルドレン、そんな言葉が思い浮かぶ。
当時は子供なので、知らなかったけれど。

そして、その頃のスケッチブックが今、宝物となった。
何を考えていたのか、どう成長したのかが、絵の変遷でわかる。
絵画療法を学んでから、自分の絵を見て、
「この頃の私はまずいなあ・・・。」というのもある。
兄弟が生まれて、親の愛情をとられたと感じた時、子供の絵の色、描くものがガラリと変わったりする。
それがなんと、自分の絵でも起きていた。

実に面白い。

大人になった私が、自分の絵を読むことがあるなどと、子供の私は考えてもみなかった。
自由に表現することで、私が救われたことはたくさんあったのだと思った。
キキ先生のお絵かき教室は、私の感情の発散場所になっていたのだ。

何も言わないで、上手くしようともせずに、感じるままに描かせてくれたお絵かき教室に感謝である。
じゅんくんのスケッチブックがきっかけとなり、ご縁でその後も絵を描いて、仕事になったのは、偶然ではないような気もする。
重要な出会いだった。












書くこと、描くことを続けていきたいと思います。