女先生の本棚

祖父母の住んでいた懐かしい家を、ある日思い出した。
「これは、女先生の本棚だよ。」
という祖父の言葉も、一緒に思い出した。

小さい私の視線で、玄関までの道を辿る。
庭の金木犀の木が大きく見えた。

木のサッシに、捻って閉める鍵。
玄関を開けたところに架けられていた絵も思い出した。

祖父の部屋は、天井まで本で埋め尽くされていた。
木でできた本棚がどこからどこまでなのかわからないくらい、ぎっしりと。
新聞記者をしていた祖父のスクラップブックからは紙の匂いがして、
アラジンの薄いグリーン色のストーブの、灯油の匂いと混じり合っていた。

祖母の部屋には大きな机があった。
一段目には万年筆や、黄色いBiCのボールペンや原稿用紙。
下の方の引き出しには、アクセサリーが入った小箱と、オレンジ色と扇のデザインのコティの紙管の白粉があった。
当時の資生堂アイブローペンシルシャープナーは、重たい金属で出来ていた。
祖母が真剣な顔で眉を描くのを、息を詰めて見ていたものだった。

菫の香りがする香水があって、小さい私はよくいたずらに開けて遊んだ。
菫の香水は、瓶がぴったりと入る白い別珍の巾着袋に入っており、金色の細い紐で縛るように出来ていた。
ある時、香水が袋に染みてしまい、綺麗な白が薄茶色になってしまった。

着物用の桐の箪笥の隙間から、樟脳の匂いがうっすらとしていたけれど、
祖母は着物というものを一枚も持っていなかった。
そこにはコートが横にしてしまわれていた。
祖母の世代は洋服は仕立ててもらって大事に着たもので、銀座にあったリヨンというお店には、一度連れて行ってもらったことがある。
モネの絵画のような淡い色合いと柄のフランス製生地の端切れと、美しいボタンをもらって、宝物にしていた。
祖母は帽子も合わせて作ってもらっており、丸い帽子入れの箱が箪笥の上にいくつかあった。
その横の壁に、鈍い銀色の小さい額に、ブルーグレーのマウントを付けたパリの街並みの絵があった。
墨絵のような建物の絵で、ブルーグレーと濃淡のある黒のバランスが好きで眺めていた。

祖母の本棚も木で出来ており、こちらもぎっしりと本が詰まっていた。
入り切らない本は立てた本の上に横にして差し込まれていた。
大らかな性格そのままだ。
84歳まで現役で仕事をしており、元気でもあった。
画集や美術展の図録は、高さが合わずにたくさん横積みされていたことを思い出す。
私には人が多くて疲れる美術展にも、暇を見つけては足を運んでいた。

本棚の本の手前にできたスペースには、陶器でできたキューピッドの三つ子や、写真立てや、伯父の海外土産の三つ編みをした人形などが無造作に並べられていた。
着なくなった服から外したアンティーク調のボタンやブローチをそこかしこに転がしておき、その横に壊れたオルゴールがあった。
開けたら音楽に合わせて回るはずのバレリーナは、回らなかった。
なんとも面白い本棚だった。

「本棚を見ればその人がどんな人かわかるわ。」

と母は言っていたけれど、祖母がどんな本を読んでいたのかは覚えていない。
しかし、興味を惹くような本棚を持っていたことを覚えている。
祖母が綺麗だと感じたり、気に入ったものを、今まで読んで好きになった本と一緒にまとめた棚だった。

青い缶の香りの良い紅茶を、薄手で花柄のティーカップに注いで飲みながら、本を読んでいたことを覚えている。
そして、「ルーは?」と聞くのだった。
祖母に「ルー」と呼ばれていたのは、Lou Doillonのルーみたいで、今となっては素敵だったのに、とたまに思い出すことがある。



ある日、祖父が言ったのだった。
「これは女先生の本棚だよ。」

あの家にあったのはすべてが古い木の本棚であり、どれ?と私は聞いたと思う。
後ろに板がなく、棚だけであるが頑丈な印象の本棚。
「女先生ってだぁれ?」
と聞くと、与謝野晶子のことだった。

父の家族は、南荻窪に住んでいた。
小さかった私は、その当時のことも女先生も知らないし、どんな経緯でここにあるのか聞きもしなかった。
桃井二小に父が通っていた、ということだけは知っていた。
小学校の校歌を作詞したのは与謝野晶子であり、その碑が校庭にあるという。


あの本棚は、どんな風情で女先生のおうちにいたのだろうか。



私は、友人の家や本がある店で、ついつい本棚に吸い寄せられてしまう。
好きな本棚は・・・
並んでいる本がバラバラでもいい。
縦でも横でも、綺麗に並んでいなくていい。
むしろ無造作に積まれていると、宝探しがしたくなる。

その人らしい本棚であれば、嬉しくなって質問をする。
その人の興味のまとまりを知ることができたら、
「この人は、これでできているのか!」
と大発見したような気持ちになる。












書くこと、描くことを続けていきたいと思います。