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こども好き ≠ 子育て上手

少子化の勢いが止まらない。
2022年に生まれた子供の数は80万人を切っている。
佐賀県の人口よりも、少ない。

その背景には、上がらないお給料、増えるばかりの税負担、名ばかり女性活躍推進、色々あるだろう。

ただ結局のところ最も必要なのは、親が「私なら育てられる」と思えることではないかと思う。

私は子供好きではない。
怖いもの知らずの若かりし頃は、いつ誰に聞かれても「子供は嫌い」とハッキリ公言していたくらいには、好きではない。

でも自分自身には子供がる。
子供のことは心の底から愛しているし、世界で一番ではないかもしれないけれども、そこそこ良い母親である自負もある。

私の子供嫌いは、自分自身が子供の時から始まっていた。私の母は専業主婦で、更に母は自宅保育派だったので年中の年になるまではずっと家で育てられていた。

私が3才の頃に父の海外赴任が決まり、両親そろって海外駐在研修のようなものに行かなければならなくなった時、初めて託児所に2日間預けられたことがあった。たった2日間だったが、これが30年近く経った今でも鮮明に思い出せるくらい、地獄の思い出である。

それまで母と離れたことがなかったので、預けられる時にどれくらい状況を理解していたかは定かではないが、その記憶はまず給食の時間から始まる。

初日の給食はコッペパンだったのだか、コッペパンを食べたことのなかった私はお箸でコッペパンを挟んで食べていた。するとそれを見ていた隣の子が「コッペパンは手で食べるんだよ」と言った。

その子は別に間違ったことは言っていないのだが、お箸で難なく食べていたのになぜわざわざそんなことを言ってくるのか、別にお箸でコッペパンを食べたって誰に迷惑がかかるわけでもないではないか、と3才ながらに不満に思った。

給食が終わると眠くもないのに無理やり布団に入れられ、起床時間になると私以外の子供は全員庭に出て遊び始めた。先生に「みんなと一緒にお外で遊んだら?」と言われたが、園庭で野蛮人の如く走り回るガキンチョと一緒に遊ぶなんてまっぴらごめんだ、と固辞した。

その後夕方になると、迎えが来るのを待ちながらアニメを観る時間になった。普段ほとんどアニメを見ることがなかった私は、なぜみんながそんなに必死にアンパンマンに夢中なのか解せなかった。そして園児の1人が、壁に掛かっていた私の手提げ袋をブラブラさせて遊び始めたのが非常に不愉快だった(かと言ってやめてと言えるほど肝は据わっていなかった)。

客観的に見るとただ私が可愛げのない3歳児だったようにと思うが、とりあえず2日間の一時保育で私はすっかり子供が嫌いになってしまったのだった。

だから大人になって異性とデートしている時でも、散歩している園児が通りかかり「やっぱり子供はかわいいな〜」等と相手が言っても「私は子供嫌いだから」とにべもなく言い放ってしまうほどだった。

今の夫も子供好きで、付き合っていた頃から「将来子供は3人は欲しい」等と言っていた。そんな夫にプロポーズをされた時にはその場でOKしたものの、実際に籍を入れる段階になって「子供を持つか持たないかは、結婚するかしないかよりも大きな決断なのに、私が彼と結婚してしまっていいのだろうか」とめちゃくちゃ悩んだ。

結局夫は、子供を持たない人生でも私と生涯を共にしたい、と言ってくれたので結婚することになったのだが、本当に私に子供を持つ選択肢はないのか、ということは常に自問自答し続けていた。

私は友人の中で一番くらい早く結婚したのだが、20代後半になると、結婚どころな彼氏さえいない(更にそもそも欲しいとすら思っていない)友人たちが頻繁に「結婚しなくていいから子供が欲しいわ…」とよく言うようになった。

子供を3人も欲しいと思っている夫がいる私が1人さえ産む気になれていないのに、結婚に興味がない友人たちが次々に「子供は欲しい」と言うこの奇妙な現実と向き合う必要があるように思った。

友人たちになぜ子供が欲しいのか聞くと「夫は所詮他人だけど、自分の子供は何があっても家族だから、将来淋しくない」など分かるようでイマイチ分からない(夫とうまくいかなくなるリスクを考えるなら、子供との関係性が険悪になるリスクは考えなくていいのか?という疑問が残る)理由もあれば「理由はない。本能的に欲しい。」という反論の余地もないものもあった。

特に結婚式に参列する機会が増えると、いやでも将来の自分の家族像を考えさせられるようで「子供を持たずして死ぬのはイヤ」という、ロジカルではないけど切実な想いを持つケースが多かった。

そうこうしているうちに30才を超えた先輩や友人たちから妊活や不妊治療の話を耳にする機会が増え、「子供が欲しいなら1日でも早い方がいい」「30の壁は大きい」等、求めてもないアドバイスをもらうこともしばしあった(結婚して3年以上子供がいなかったので、私のことをよく知らない人は勝手に不妊と思っていた節もあると思う)。

結局私が子供を持とうと思えるようになる大きなきっかけや転機は訪れなかったのだが、改めて本当に私の中に子供を持つ選択肢はないのか、2つの軸で考えてみた。
①40才、50才になって子供を「持てない」状況になった時に後悔する可能性はないか
②子供が嫌いな人は子供を持たない方が幸せなのか

①については、正直分からなかったし、結局子供を持った今も分からないままである。
ただ、子供を持っても、子供を持たない40才や50才の自分の生活を想像することはできるけど、子供を持たなかった場合、子供と過ごす人生を想像することはできないと思った。

私の親友のお母さんはバリバリのキャリアウーマンで、それこそ子供好きでもない。仕事LOVEな性格が故、実際に子供を産むとすぐに仕事に復帰し、可能な限り子育ては外注した。その結果、親友が二十歳を迎えた頃にようやく「もっと自分の子供と時間を過ごせば良かった」と思い直して、親友は社会人になった頃からやたらとお母さんと出かけたり旅行するようになった。

親友が「なぜそんなに仕事が大事なのに子供を持ったのか?」と聞いてみたことがあるらしい。すると「マネジメントとして出世していく中で子供がいないと、あの人は子供を育てながら働く人の気持ちが分からない、と言われたくなかったから。」と答えたらしい。

一見サイコパスじみた理由だが「子供を持たないと子供と過ごす人生を想像できない」という点では至極真っ当な理由とも言える。もちろん親友のお母さんは子供を持ったことで、自身のキャリアをスムーズに形成する以上の喜びや幸せを得たに違いないし、ましてや「もっと子供と時間を過ごせばよかった」と思ったわけである。

子供を産んでおいたからこそ子供と時間を過ごすという選択肢を取れるわけで、私は仕事が大好きだから、と子供を持たないでいたら、もしかしても悔やんでも悔やみ切れない想いを抱えることになっていたのかもしれない。

それを思うと、大して仕事が好きなわけでもなく、我を忘れるほど没頭できる趣味もない私がこのまま深く考えず子供を持たないと選択肢をとった場合、後悔する可能性の方が高いのではないか、と思った。

②の子供嫌いな人は子供を持たない方が幸せなのか、については非常に身近なところに答えがあって、私の両親は子供嫌いなのである。

かと言って虐待されたりネグレクトされたこともなく、単刀直入に「子供嫌いでなぜ子供を産んだの?」と聞いてみたこともある。答えは至ってシンプルで「自分の子供は別」とのこと。

こと母にしてみれば、大好きな人との子供の顔を見てみたいというこの上なく純粋な気持ちで、それ以上のことを考えることなく私を産んだそうだ。

思ってみれば私の子供嫌いは相手が子供だったからではなく、自分の常識と違う世界に住む人が自分に関わることが嫌なだけである。自分の子供は自分から産まれるわけで、全くの異世界から降ってくる存在ではないし、自分で育てる以上は(100%ではないにしろ)自分の常識の中で育つはずである。

子供が嫌いでも、自分から生まれてきた真っ白な概念を優しく根気強く自分の世界に誘えば子供は育てられる。逆に子供が大好きで仕方ない人でも、自分の子供となると上手く育てられなかったり、理想が高いが故にギャップに苦しんでいるケースもある。

子育てが上手な人を定義することは難しいが、少なくとも、(他人の)子供が好きか嫌いかは子育てが上手か下手か、向きか不向きかには関係ない。これは実際に子供を産み、日々闘っている子供嫌いな私が保証する。

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