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【小説】やっと結婚できたと思ったら妻は家事をしない怒る女だった #21

 引っ越した年の七月半ば過ぎ、会社から帰ると、涼子はテーブルの椅子にいて燻った煙草のようにぶすっとしている。目をぼんやりと伏せ、べそっかきのように下唇を突き出し、押し黙っている。そういう風采でいる時はたいていは「金がらみ」で、小遣いをもっとよこせとか何々を買えと言ってくる。だから、私は涼子の口を開かせないようあえて無視をし、さっさと料理の日の料理に取りかかり、話すつもりもなかったどうでもいい話題を口にし、心の中の何かの不満から涼子を引き離そうとした。しかし、涼子は適当に相槌を打つものの、食事になっても箸の運びが悪く、どんよりとした表情を崩さない。私は息が苦しくなり、しかたなく聞いてあげた。

「どうしたの?」

 すると、まったく予想もしない答えが返ってきた。

「このマンション、花火がぜんぜん見えないじゃない」

「うん」

「うん、じゃないわよォ。景色だって前のほうがよかったわ。窓の外が、いっつも円山ばっかりじゃ、飽きるわよ。引っ越しは、完全に、失敗だわァ!」と言い出したのだ。

 札幌では七月半ばから八月にかけて週末に豊平川花火大会が行われる。涼子の話によると、幌平橋付近に分譲マンションを購入した友人夫婦のマンションからは鮮やかな花火の大輪が見えるという。涼子はそれを羨ましく思ったようだ。

 私は涼子の価値観が時々わからなくなる。それとも、こだわりなど鼻からなく、なんでもよく見えて、なんでも欲しがるという性格が身に付いているせいなのだろうか。

「でも、ここを選ぶ時は花火が見えるという条件ではなかったよ。最初からそういう条件なら、豊平川近くの物件を探さなきゃッ」

「何よ、それ。私が悪いみたいな言い方じゃない。もとはと言えば、田島さんが積極的にマンションを探さなかったからいけないんじゃないィ」

「だから、誰が悪いとかじゃなくてさ」

「いいや、田島さんが悪いのッ。田島さんがひと言でも花火が見えるマンションはどう? って言ってくれれば、私はそっちを選んでいたかもしれないじゃないィ」

 私はもう涼子と話をしたくなかった。

「そんなに花火が見たいのなら、今度、花火大会へ連れていってあげるよ」

「いやよ、面倒臭い」

 涼子はそう言って一度は断ったけれど、食事がすみ、風呂から上がってくると、

「車で行くんでしょう。どうせなら小樽の潮まつりへ連れてってよ」と言った。

 七月最後の日曜日、車で札樽バイパスを走り、小樽へ行った。

 潮まつりの大花火大会は夜八時からだが、午後五時には港についた。空いている駐車場がなかなか見つからず、港からちょっと離れた寿司屋通近くのパーキングに車を入れた。車から降りると、ぷんと潮の香りがした。

 三波春夫が歌う「どんどこざぶん」の潮音頭が街頭スピーカーから流れ落ちてくる。涼子は「ああ、うるさいィ!」と声に出して怒り、なんで小樽へ来る前に駐車場の目星をつけておかなかったのかと言って、私を責めた。

「小樽の街を歩いたって面白味もないし、早くどっか休めるところを探してよ」

「じゃあそこらの喫茶店に入ろうか」

「なんで小樽くんだりまできて、そこらの喫茶店に入んなきゃいけないのさァ。何、考えてんのォ」

「じゃあ港まで歩こう」

「えっ、タクシーでいかないのォ」

「だって、すぐだよ」

「ああァ、けちくさい男だァ!」

 という具合に、涼子は歩きながら文句を垂れ続けた。

 いつもそうだ。私達がどこかへ出掛けて、涼子が文句を言わなかったことは一度もない。着くなり、すぐに疲れたとか、休みたいと言い出し、その希望に親切に対応しない私に、結局はキレて、「帰る!」と怒鳴る。

 寿司屋通を臨港線の道路まで下ると、私達は浅草橋の袂を左に折れ、中央橋方面へ向かって石畳の散歩道を歩いた。右側には運河が夏空を映し、対岸に蔦のからまる小樽倉庫、煉瓦壁の大同倉庫を改装した店々が並んでいる。

 辺りの風景をビデオで撮っている観光客風の中年男、浴衣を着た高校生の男女グループ、露店で買った綿あめ、ビニールのキャラクター、お面などを手に持った子供達、似顔絵描きの絵を覗きこんでいる初老の夫婦、デジタルカメラで記念撮影をしている中国人のカップル。いろいろな人のそばを私は涼子の棘のある声に刺されながら通り過ぎた。私は歩調を遅らせたり、立ち止まり天を仰いだりして、ぶんとしつこく飛んで来るものを除けようとしたが、そういう惨めそうな態度をみせると涼子はますます私を攻撃してくる。ストレスなのかなんなのか、何かの塊が腹から口までいっきに昇ってきて、私は石畳の道で、ああああああああああァ! と叫び出しそうになった。

 その時、向こうから歩いてくる家族がふと目に入った。夫婦は仲睦まじく腕を絡め、小学生の兄妹が親に纏わるようにして歩いている。そういう家族の形が羨ましく、私は見入ってしまった。夫人は白のポロシャツに、膝下丈の生成のスカート。シンプルな服装だったが、小顔で風姿がよく、遠くからでも素敵に見えた。その奥さんの存在が、明らかに家族を眩しく輝かせている。天上の光がそこに集まっているかのように、彼女は他の人間よりも格段と煌めいていた。だから、自然と目がいったのだろう。

 一家は徐々に近づいてきた。私はあんまり見てはいけないと思い、夫人の顔を確かめることなく目を反らした。が、すれ違う瞬間、夫人が私を見て、私に軽く会釈をするのが目の端で見えた。

 あっ!

 不意打ちでバッサリ斬られたように、胸が痛みもなく割れ、甘い傷口から二十歳の森高美佳が飛び出してきた。私は、歩きながら振り返った。夏の西陽に半ば溶け込むように、美佳は人ごみの中を夫と子供達とともに歩いて夢のように消えた。

 体の中で心臓の音がどきん、どきんと響きだした。長い間止まっていた胸の中の時計が再び動きだし、一秒一秒を力強く刻み始めたかのようだった。遠い昔に成仏したはずの恋愛感情が幽霊のようにむくっと起き上がり、まるで命のあるもののように体の中をさまよい始めた。美佳のメモリーがどくどくと血のように傷口から垂れてきて止まらなくなった。

「ねえ、まだァ」

 荒っぽい声で言う涼子は、私の胸内の感情の変化に気付いていない。

 美佳がこっちへ向かって来ることを予知していれば、目は彼女をよく見るために準備をしていただろう。彼女の旦那がどんな顔をしているのかしっかりと目に焼きつけていただろう。擦れ違う瞬間に、彼女の匂いを吸い取ろうと胸の中の空気をからっぽにしていただろう。そして、やかましく私に何かを言っている涼子のそばを離れただろう。かつては他人に見せびらかしたくてたまらなかったのに、この女とはなんの関係もないのだというふうに、私は涼子を美佳から隠したいと思ったのだ。 

 潮まつりのメーン会場は、普段は観光駐車場に使われている港湾合同庁舎そばの広場で、ピンクの提灯が飾られた中央ステージの周辺に露店が並んでいる。その向こうはすぐ海だ。花火は観光船乗り場の向こう色内埠頭側から打ち上げられる。私達は花火が始まるまで、運河沿いの店を巡り、海鮮どんぶりを食べ、コーヒーを飲み、ガラスグッズや雑貨を眺め、時間を潰した。

 午後八時。色とりどりの火の色が黒い空を染め、強い音が空に穴を空けるように響いた。温い夜に包まれた港に、目眩を覚えるほど多くの見物客が集まってきた。私は涼子がはぐれてしまわないよう、彼女の手首を軽く掴んだ。すると、

「さわんないでよォ!」

 涼子はキッと眉を吊り上げ、自分の腕を殴るように振り上げ、私の手を払った。

 それから涼子は、足を踏まれたァ! 人がぶつかってくるゥ! と叫び続けた。

 涼子は十分もそこにいることはできず、私を含むその場にいるすべての人間に宣戦布告をするように、

「もう帰る!」と花火を負かすくらいの大声で怒鳴った。

 車の中でも叫び通しで、踏まれた足が痛いィ! なぜ前に立って守らないのだァ! 役立たずゥ! セクハラするみいに急にさわってきたから、気分が悪くなったのだァ! どうしてくれるんだァ! と言いがかりの尖った言葉を執拗に私にぶつけ続けた。

 私はもう涼子の話なんてどうでもよくなっていた。夜の暗い札樽バイパスを走行しながら、森高美佳のことばかりを考えていた。


#小説 #連載小説 #怒る女

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