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「黒い司法 0%からの奇跡」レビュー

夕食を食べながら何気なく観てみた黒い司法。
以前から名前は見たことがあった気がしている。
最近「グリーンブック」や「最強の2人」などを見返したところであり、今回もそのようなストーリーであろうと、軽く構えていた。
映画の題名からして結論は見えている。人種差別にあった人間が奇跡的に裁判をひっくり返すのだと。そして、実話に基づいた話ということもあり、それでしかないだろうと。
しかし、いつの間にか私は涙を流していた。胸が熱くなっていた。手に力を込めて、胸が苦しくなって、共に喜び、共に安堵し、この世界に私も何かを訴えかけたくなった。
そのくらい入り込める映画であった。

あらすじは、ブライアンというハーバード出のエリートがわざわざ冤罪をかけられた死刑囚たちを助けるための弁護士となり、共に闘うというもの。
1980年代のアメリカ アラバマ州、黒人であることを理由に殺人の冤罪をかけられたジョニー・Dを救うためにブライアンが立ち上がる。ブライアンも黒人であり、幼少期に似たような経験をしたという。その想いを糧に様々な圧力がかかりながらも健闘していく。
死刑囚、ジョニー・Dの家族、ブライアンと共に闘うみんなの描写が丁寧に描かれていた。
何よりも私を虜にしたのは、マイケル・B・ジョーダンが演じるブライアンであった。彼の表情、話し方、立ち振る舞い、全てが私を引き込んでいく。一緒に応援させていく。
ずっと積み重なった名演技、屋根に降り積もった雪が一気に滑り落ちるように、最後の感動へと私を落としてくれた。

また、裁判時のブライアンの言葉も綺麗である。人を引き込む話し方なのはもちろんであるが、言葉も我々を綺麗に誘導していく。裁判は理屈も大切であるが最後は感情だという。決めるのは人であるからだ。このシーンは何度観ても飽きないだろう。
私の中で話し方が参考になる映画は、本映画と「ウルフ・オブ・ウォールストリート」の二大巨頭となった。

我々が学ぶべきことは人種差別といい様々であるが、本映画では権力の圧力というものも大きな原因であり、考えるべきことである。差別があっても権力を濫用する人間がいなければここまで大きな話にはならない。人種差別をする人間が、何か行動を起こすことで問題となる。
よって大きな問題は二つあると考える。一つ目は差別、二つ目は不当な権力の濫用である。
私は黒人は黒人、白人は白人、黄色人は黄色人であり、それでしかない。見たら分かるものだ。視覚という五感の一つ持つ限りそこに嘘偽りはない。ただそこに優劣はないということだ。つまり、黒人だから、白人だから、という特別な理由はないのだ。
一方で、感性に嘘をつく必要もないと考える。黒人がかっこよくて好き、白人が好き、それは人間である以上偽ることができないし、みんな異なった感性を有している。国内でも日焼けしてる人が好き、色白が好き、その程度の話である。人間である以上、それは抗えない。話すスピード、声のトーン、仕草、すべて理論ではなく、日々感性で判断している。無意識なのだ。フェロモンもその一種であり、本能である。もしその五感すら偽らなければならないのであれば、それこそ差別である。心の中で勝手に同情し、それを表面に出さないように振る舞う。それでは差別はなくならない。
社会的に評価される場で、人種を理由に判断をしてはいけないということだ。社会は我々が存在するから成立するものであり、それが個人を脅かす存在となってはいけない。顔が見えなくても、声が聞こえなくても、誰であろうと社会の中では平等に判断される。それが我々が求めるべき社会であると考える。ここでいう社会とはルールであり、国や司法のことである。

二つ目の問題である権力の濫用、これはあまり注視されないが、差別並に重大な問題であると思う。これは先ほど取り上げた社会よりもミクロな社会、所謂、日々の生活で関わる社内や人間関係で発生する問題である。つまり、ルール化しづらい問題なのだ。このルール化しづらいというのが大きな根っことなっている。
例えば、「Aさんをあの部署へ異動させろ」。これは日々我々が生活する社会で起こり得る話ではなかろうか。命令された側は従わなければならない。なぜなら権力を持っているのは命令した側であり、従わないと命令された側が次の被害者となり得るからだ。理由はいくらでも付けることができる。声をあげれば次の被害者になるのだ。
最近はこういった権力の濫用やルール化しづらい問題を防ぐために、個々でコンプライアンス教育があったり、協同組合を設置したりという動きがある。
正義感や行動力のある人材を、無能であるにも関わらず権力だけを持った人間が潰してしまえば、組織として将来的に衰退していく。ただそれはマクロ的に見た場合であり、結果がでてもそれが原因であるとは誰も気づかない。
私には解決策がわからないが、人間である以上完全に公正な判断はできないと考えている。いつかAIが解決してくれるのであろうか。

ただAIも元はデータであり数値である。数値化でき、過去の様々な事象結果から判断を行う。つまり、正解として導かれるのは過去の成功例に倣ったものでしかないように思える。
いつか全ての事象を数値化でき、それを処理することができる世界がくるのであれば、結果は無機質なものとなり、正解は一つというわかりきったものばかりになってしまうのだろうか。ただその正解を読み、対抗するため一発逆転の別の行動を起こす人間も現れるだろう。先を読めれば、さらにその先を読んで行動すればいいだけというものだ。しかし、そのデータ上で異常な行動を起こす確率を数値化し、更に先の結果を読むこともできるだろう。ここにはAIのジレンマが存在し得る。ある人間が自分だけ有利なポジションを獲得しようとする限り、このジレンマは消え去らないのではなかろうか。AIはこういう結果を導き出す、それならばB君はこの行動を取ればA君に勝てる、ただA君はそれを読んで更に先の行動を、、、と。最終的にAIが導き出す解答はA君を消すという結果にならないだろうか。しかしここにはまた大きな社会ジレンマが発生する。それは社会は人間がいなければ成立しないというものだ。人を消せば社会が成り立たなくなる。しかし自分が優位に立つには人を排除しなければならないのだ。
人間が生きる理由は欲求にあり、欲求を満たすには、他人の欲求よりも満たされる必要があり、そのために人間は他人を潰し欲求を満たす、これが人間の正体なのだろうか。

話がだいぶ逸れてしまったが、この映画を観てよかったと思えたし、また時間が経ってから観たいと思う。

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