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ヘルシンキには、「羊の島」があります。名ばかりではなく、夏になるとほんとうに羊がやってくるのです。 前回のコラムでは、ヘルシンキの中心地からから北東に抜ける6番線のトラムの秋の車窓をお届けしました。その終着点にあるのがイッタラ&アラビア デザインセンターで、さらにその少し先にあるのがLammassaari/ランマサーリ、フィンランド語で羊の島です。 トラムの終着点からさらに先へ。秋の小道を潜り抜けて、人びとの行方に身を任せていると大きな橋があらわれます。犬の散歩をするご近
秋の風がそよぐ美しい季節がはじまろうとしています。 実はこの言葉、過去に書いたとある文章の冒頭なのですが、いま、また同じことを思っています。 「時間」が線のように連続しているのか、あるいは点として離散しているのか……と、大きすぎる問いが頭を巡ることがよくあります。しかし、思考は宇宙の果てまでを巡ったのちに、結局いつも目の前の現実/現象(の確かさ)へと行き着いて、しまいには何を問うていたのかすら忘れてしまうのです。 人が、同じ季節に同じことを思うのだとしたら、人の生とは、
あの小さな月が、地球の海を引っ張っているだなんて。そう宇宙の不思議に想像を巡らすことがある。 月まで、38万キロメートル。それが“近い”のか“遠い”のかどうかは分からないけれど、月と地球がそれほどの距離のなかで繋がりあっているということ。それは、この孤独な宇宙の小さな希望だと思う。 地球と月——つまり水の惑星とそれをまわる小さな衛星のことを考えていると、日本とフィンランドの距離などちっぽけに思えてくる。結局は、ひとつ青い球体の西と東でしかないのだから。 波に目を凝らす。
少し冷え込んだ秋の朝。 霧が森を、湖を、包み込む。 フィンランドの、とある小さな田舎町。 空気は澄んでいて、空はもう十分に青かった。 遠くの景色はおぼろげで、歩けど、歩けど、見ているその「景色」には近づけていない気がする。霧は大きな波のように流動しているけれど、その行き先はわからない。 長い一本道を進んで、湖まで。 湖の表面を滑るように、霧が流れてゆく。 畦道を通って、湖畔まで歩く。 着々と昇る太陽は地と水と空気をあたためて、わたがしのような霧を溶かしてゆく。 あか
フィンランドの秋の森。 秋霧に包まれる小さな町。 ある日の、早い朝のこと。 朝、窓の外が白いとき、心は弾む。 春の霞と夏の雨、秋の霧と冬の雪。 季節は、窓を介してやってくる。 扉を開けて外に出ると、湿った空気が肌に触れた。視界はぼんやりとしていて、まだ少し眠たい目にはちょうどよい。夜ほど暗くはなかったけれど、昼ほど明るいわけでもない。すべてが曖昧で、抽象的な世界に迷い込んだようだった。 白い霧は視界の奥行きをぼかして、見ている対象は、いっそうはっきりと知覚される。風景
いつかの秋、フィンランドの森を彷徨った。 美しい泉のある森で、静かに雨が降っていた。 優しい風が、小さな葉をゆらしていた。 「ぶらぶらする」という日本語と、「Blah Blah Blah」という英語の関連について、深く考えを巡らすことがある。前者はあてもなく道を彷徨う様子を、後者は「◯◯など」というある種の曖昧さを示すときに使われる言葉だ。 辞書的には、もちろん両者の意味は異なっている。けれど、音は似ているし、その(根源的な)意味も、ちょっと似ている気がしてならない。
季節の巡りを感じるとき、 そこには祝福と空虚がともに存在している。 季節への祝福は、 人が自然と生きている証であり、 過ぎし時間への空虚、 それはノスタルジーである。 ふと、思い出したトゥルクの夏。 それは、たしかに夏であった。 夏の風が、吹いていた。 ヘルシンキと比べると、トゥルクの街はずいぶんと明るく、鮮やかに感じられた。地理的にも歴史的にもふたつの街には違いがあるのだから、その新鮮さはある意味当然とも言えるけれど、この街は、なんだか明るかった。 「トゥルクがあ
空港の朝は、なんだか心地がよい。 するどい光は大きな空間を明るさで満たし、忙しない朝の人びとはパンとコーヒーによって満たされる。 それはきっと、平和な世界だ。 早すぎるフライトや、持て余された時間が、かえって朝のひとときを豊かにする。偶然が出会いを導いて、開かれた空間があらゆる人びとを包み込む。 歩く人、休む人、食べる人、迷う人。 眠たい気持ち、晴れやかな気持ち。 夢見心地や上の空。
北へと向かう、白い翼。 星空の下、眠る街の上。 東京から、北極経由、ヘルシンキ行き。 夢現の夜間飛行をお届けします。 5月の東京、雨の夜。 夜から始まる旅は静かで好きだ。窓を染める大きな闇が、陸を離れる不安や旅への高揚を鎮めてくれて、日常は、闇夜の中でなめらかに旅へと移り変わってゆく。 濡れた窓から溢れる光はカメラを通って眼に映る。いくつものガラスの膜が、風景を静かに分解してゆく。 昼夜を隔てる境界線。 夜の終わりを追いかけて。 遠ざかる街の光、星屑のように瞬く光
lumikka shop及びlumikkaとしての活動は、4月15日に2周年を迎えました。ここまで様々なかたちで活動を支えてくださった皆さまへ、心より感謝を申し上げます。 「2周年」と言いつつも、活動のはじまりをどこまで遡ればよいのか、実際のところ定かではありません。それは、フィンランドとの関わりや、写真、執筆、企画、デザインなど一連の活動が予定調和にはじめられたわけではなく、いくつもの予期せぬ出会いや偶発性を含んでいるためです。 ただ、活動の大きなきっかけは旅の中にあっ
以前のコラム「光のかたち」でもご紹介した、フィンランドの古都トゥルク。今回は、市街地に残された古い美術館を巡りながら、かつての手仕事の痕跡を辿ります。 まずは、薬局美術館。 当時、この家には貴族が住んでおり、ある時期においては街の薬局でもありました。 家の中には18-19世紀のロココ様式やスウェーデンのグスタビアン様式のインテリアがいまだに現存しており、当時の生活を記録する場所として非常に歴史的価値が高いです。 薬局だった頃のノートや薬瓶。ひとつひとつに個性があり、「
羊の島、ランマサーリ島の夏のこと。 旧アラビアファクトリーの裏の海辺に、Lammassaari/ランマサーリという島があります。日本語では「羊の島」。その名前からも、のどかな雰囲気が溢れ出ていますが実際はもっともっとのどかな島です。 島への橋。ここは観光客よりも、地元の人たちが多い印象です。 この島は夏の時期にだけ、どこからか羊がやってきます。それだけでなく、島全体は湿地帯のようになっていて野生の鳥をはじめとする多種多様な生き物が生息してます。市街地に近いにも関わらず、
秋の風がそよぐ美しい季節がはじまろうとしています。フィンランドはもうすっかり夏が終わり、ひんやりとした空気に包まれている頃でしょうか。 少し季節外れになってしまうかもしれませんが、今年の夏に訪れたフィンランドの夏至祭のことを書こうと思います。すべり込みで2つの夏コラムを書きましたので、よければ合わせてご覧くださいませ。 ヘルシンキの西側の海に、セウラサーリ / Seurasaariという島があります。ここはフィンランドの伝統的な建築物が集合して(移築されて)おり、島全体が
ヘルシンキの中心部に、街を見下ろすことのできるルーフトップバーがあります。見晴らしの良い丘や山、高いビルのないこの街で、街の全貌を見ることのできる数少ない場所です。 ホテルのエントランスを抜け、エレベーターで12階まで。その後、とても狭い螺旋階段をぐるりと一周かけて登るとその場所へと辿り着きます。 よく行くおすすめスポット…と言いたいところですが、ここを知ったのは最近のこと。今年の夏の滞在中、偶然出会った日本好きのフィンランド人の方に教えてもらいました。 「高い」と言え