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#29 結婚生活と、あざとさ

人混みの中に彼を見つけるや否や、周りも見ずに彼の胸の中へ飛び込んだ。
クマみたいに大きな胸の中で、さっきまで耐えていた恐怖を解放して思い切り泣いた。
たしか、飛び込むまでは子供だった。でも「どうしたんだ」と声を掛けられた時わたしは大人だった、という夢の話。

あと先考えず、ある意味あざとさで最後に男性に甘えたのはいつだろう。若くて可愛い女なら許されるでしょう?と。たぶん結婚する、少し前かもしれない
そのくらい今のわたしには遠い感覚だったから、目が覚めてもしばらく驚いていて懐かしいその感覚の中にもう一度戻ろうとしてみたけれど無理だったので仕方なく体を起こしてカーテンを開けた。

赤ちゃんというのはすごいパワーを持っていると思う。
その絶対的にピュアで可愛くてか弱い生き物を前にすると、どんな女だって敵わないという気持ちになる。夫もそうかというとやや違う気がするけど・・・ともかく出産してからわたしは夫に甘えられなくなってしまった。だってこんなに可愛い子がここにいるのに、大の大人がこどものように泣いたり怯えたりしたら気持ち悪いでしょう?と。殊に”甘え”ほど不気味なものはないと決め付けたわたしは、可愛く甘えられなくなってしまった。
たとえば夜道で怖い目にあった時。仕事で疲れて何もしたくない時。
もうわたしは夫の胸で泣くことはしないし、「何もしなくていいよ」と優しく慰めてもらうことはせずに、「なんでわかってくれないの?もう!」とイライラする女になってしまった。全く可愛気がない。それどころか1人で怒っているだけの不機嫌ハラスメント女かもしれない(わたしが惧れていること)
妻より母のわたしが全体を分厚くコーティングしているから、滅多に剥がれない。

わたしが可愛気がなくなったことを全て息子のせいにするのも申し訳ない。
別な理由はないかと考えを巡らせてみたところ、ふと結婚したからかな?という当たり前すぎて、それでいて触れてはいけなさそうなものにぶち当たった。江國香織さんの「いくつもの週末」という結婚生活を覗き見るようなエッセイが好きだ。その中の表現を借りればわたしも「自分用の男のひとが欲しかった気がするし、また、誰か用の女でいたいと強く望んだ様な気もする」わけで、だけど今や「夫用の女」からさらに「息子用の母」の顔も持つ。夫とはある程度互いの狂気を見せ合った後なのでもはや「よその女」にわたしは戻れない。つまり彼の「よそゆきの顔」はわたしに向けられることはないし、礼儀正しく扱われることも望まないでいるのが暗黙の了解みたいになってしまった関係とでもいうか。切ない。
だけど本の中の女性は可愛く彼女の夫に甘えるし、互いに知らない顔を持ち、それをちゃんと自覚している。わたしにもそんな自覚があったはずなのに、いつの間にやらわたしだけの世界の境界は曖昧になった。そういうわけでわたしはどこへ行っても「1児の母」で、「生理前にイライラする面倒な女」でしかないのかもしれない・・・自分で撒いたタネなのか。

若い女性たちが「あざとい」をいい意味で尊ぶのは、彼女たちがそれが今の自分たちに赦された武器だと理解しているからかもしれない。あざとさはね、強さだと思う。世の中のあらゆるものを差し置いて「可愛いわたしを見て」と真っ向から言える強さ。自信。うまく持ち続けられれば大いに活用していいかもしれない。
わたしはそれをずっとずっと前に置き忘れてきてしまったらしい。

るる


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