#125 トリハダドライブ
ただ断ればよかったのだ。
なんで断らなかったのよ自分…と思っているのがバレないように「車内すごく広いですね!」とか言うのが精一杯だった。
社会人になって1年目の記憶。
病院勤務や当直にもようやく慣れてきた頃だった。
毎日の遠距離通勤にはほとほと嫌気がさしていて、かと言って職場の近くに住むなんてごめんだと思っていた。つまり、わたしは何も考えていなかった。
日々若さを垂れ流して漫然と生きていた。
当直を終えた安堵感から、わたしはうっかり「帰るのめんどくさいなぁ」と口走ってしまった。
携帯には、彼から「今日のデートは行けなくなった」と言う旨のメッセージがあった。仕事が終わったら迎えに来てくれると言っていたのに。
当時お付き合いしていた人は、意識高めな研修医だった。平日休日関わらず、度重なる呼び出しにも即対応。こんなドタキャンもあったし、食事中や夜に1人取り残されたこともあった。基本的に仕事>恋人というスタンスだった。
やれやれ、とフロアの戸締りをしていたら「面倒なら、送って行こうか?」と声をかけられた。にこやかに声をかけてきたのは先輩、と言えば聞こえはいいけど、60手前の男性だった。わたしとさほど歳の変わらない娘さんがいるのは知っていた。
普段なら絶対に断っていたと思う。でもちょっとやけくそな気持ちになっていたわたしは、二つ返事でついて行ったのだった。
何せ自宅まで電車とバスを乗り継いで2時間かかることだけでも気が滅入るのに、その上デートも無しになったのだ。うららかな日曜日を無駄遣いする虚しさがわたしの頭を鈍らせていたに違いない。うん。
天気の良い日曜日の真っ昼間に何も起こるわけがない、というおめでたいほどの思考停止っぷり。
果たしてわたしは、大して親しくもないおじさんの車に乗り込み、しばしドライブすることとなった。
どう考えても正気の沙汰ではない。
助手席に座って1分も経たないうちにわたしは後悔した。
おじさんはどこからともなく大きな虫眼鏡を取り出して、ナビを操作し始めたのだ。そんな人はこれまで見たことがなかった。
わたしは完全に引き攣っていたと思うけど、尋ねられるがままに自宅付近の住所を伝え、今更やっぱりいいですとは言えずにベルトを締めた。「知らない人について行ってはいけません」と習ったではないか。じゃあおかしな状況に両足突っ込んしまったらどうしたらいいのか。死んだふりでもしようか。
そこからの記憶があんまりない。
でも「彼氏いるんでしょう?」と聞かれたのははっきりと覚えている。
ここぞとばかりにわたしは彼氏の話を一生懸命にした。
黙るのが怖くて喋り続けるわたしを乗せて、おじさんは高速にのってくれた様だった。1時間足らずで自宅の近所まで来ていた。
高速の降り口で止まると、また虫眼鏡でナビを確認する。かけている眼鏡を下にずらして、上目遣いで虫眼鏡を覗いている様子だけれど、怖くて直視できない。
おじさんの話ではどうやらこの辺りにはちょくちょく来ているらしかった(趣味関係で)。いつもは右に出るけど、ここを右でいいかな?と訊かれた。
急に道を尋ねられて頭が真っ白になった。右か左かも分からないのに、またその虫眼鏡どこから出てきたんだとか考えて、1分でも早くこの状況から解放されたい気持ちと、ナビを覗くたびに縮まる顔との距離がわたしを一層パニックに駆り立てるから頭がちっとも働かない。
「だっ大丈夫です」
みたいなことを言った気がする。
次の記憶は、自宅近くの公園の前で停車した時だった。
「はい、お疲れさんでした。また明日。」とか言われて
「こんなところまで送っていただいてありがとうございました!どうぞお気をつけて!」と言ってそそくさと車から降りた。
走り去る車を見送って、しばらく立ち尽くしていたけど
我に帰ったら全身びっしり鳥肌が立っていたし、鞄を胸の前で抱きしめたままだった。変な汗が急に出た。
見慣れた景色にほっとして、やっと息を吐き出した。
・・・
悪い人じゃないのだろう。後で聞いたエピソードや、時折見せる言動から、確かに少し変わってるとは思った。
車で送ってもらって、別に何かされた訳でもなければ、自宅までついて来たのでもない。ただ好意で全然方向の違うところに住んでいる新入りを、ちょっくら送って行ってやろうと考えただけなのかもしれない。
でも実は、続きがある。
後日、謎の写真入りカレンダーやアルバムをプレゼントされた。
一応言っておくと、もらったのはわたしだけではなかった様で、若手の数名も皆、自分が沢山いるカレンダーを見てギョッとしていた。いや、そりゃ怖いよね、、
写真は飲み会の時のものや、HP作成などのために撮られたものを私用のパソコンに移して編集されている様だった。各々の写真以外には、どういうわけかおじさん家族の海外旅行の写真なんかも散りばめられていた。結構しっかりしたカレンダーだったけど、退職の日までデスクの引き出しにしまっていた。なんのためにそんなものを作って配っているのか、終ぞ分からなかった。
幸いおじさんとは部署が違ったので、普段顔を合わせることはほぼなかった。それなのにどういうわけか、突然旅行のお土産や珍しいお菓子、季節の果物なんかを持ってふらりと現れるのだった。どうもわたしは気に入られていたらしい。
数年後、おじさんは定年を迎えて円満に退職された。
もう会うこともない。
結局わたしは、車で送ってもらったことを誰にも言えなかった。
どう説明していいのか分からなかったし、オチもない。
いつか笑い話になるかなと思っていたけど、なんだかおじさんに悪い気がしてできなかった。
あの日、何があった訳でもない。だけど未だに虫眼鏡を見る度、あの時の記憶が蘇って自分の愚かさに鳥肌が立つのだった。
るる
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?