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#130 温かさのしっぽを掴む

夕方、習い事のお迎えに行き母友に会った。
抱っこ紐に1人、さらにもう1人の手を引いて現れたタフな彼女の顔を見て、「おかえり、私たちの日常…!」と胸アツになってぶんぶん手を振った。
わたしもすっかりお母さんになったもんだと可笑しかった。

あけましておめでとう、今年もよろしくお願いします、と挨拶を交わし、2秒くらい照れる。
お正月無事だった?と訊かれて「うん、おかげさまでなんとかー」と自転車を押して歩く。冷たい風に髪が巻き上げられて叫ぶ。
彼女のところは年末、保育園から持ち帰った胃腸炎スパイラルに両親も巻き込んで全滅だったらしい。「ほんっと悲惨だった。まだ蕎麦がそのまんま冷蔵庫に入ってるし、おせちも減らないし。」地獄絵図だったというトイレ争奪戦の件がホーム・アローンのてんやわんや具合そのもので、ひとしきり笑わせてもらった。
何はともあれ、どうにか乗り切って平常運転に戻れるのってありがたいね、給食ありがとう、と2人で手を合わせた。

・・・

長年そこで暮らしていたはずの実家がやけに広く寒く感じたり、家事がやりにくかったりして、やっぱり自宅ってわたしに最適化できてるんだなと妙に納得した。
洗濯のやり方や照明の考え方、家電の違いすらしみじみと「うちじゃない感」を醸し出してきて、“別な個人“と暮らすということを如何に許容して歩調を合わせられるかは一つ能力なんだろうかと思わされた。(ていうか家族なんだけどね)

休みの間、隙をついて1人の時間を取ろうと試みるのだけど、もしかしてこれは大変な贅沢品なのでは?と疑うほど手が届かない。それには家の間取りやお正月という特殊な期間というのもあるだろうけど、片付けを終えてぼーっと歯を磨いていてたら突然洗面所に父が現れたり、着替えようと入った部屋で夫がくつろいでいたりして「わたしの居場所はどこに…!」と拳を握って震えた。
いっそ駅やホテルのパブリックなスペースの方が孤独でいられる気がした。

家族が面倒なわけじゃない。とても大切に思っているし、顔を揃えていられることをありがたく慈しむような心持ちで会いにいくんだけど、途中から疲れてしまうのは小さい時からずっと変わらない。だからもういいか、そんなものだろうと諦めようと思っていた。

そういうわけだけど、学校が始まって仕事も通常モードに入り、わたしを取り戻しつつある。休みも何も関係ない息子は、日に日に成長していて眩しいくらいだ。そのうち「家族で出かけるとかめんどくさい」とか言い出すんだろうな、と夫と話していた。切ない。「ママだいすき」と可愛く言ってくれるうちに、彼の人生にいい感じに登場しておきたいというのは下心なんだろうか。
この間、エレベーターで彼が急に「よし、思った通りになってる」と自分の手をかざしながら言ったことがあった。「え?思った通りって何が?」と尋ねると、「ママの手が好きだから、あんな手になるといいなと思ってたらなってきたよ。」と満足げに教えてくれた。その小さな手を一緒に見つめ「本当だねぇ、ありがとう」と彼に言い、ぎゅっと握ってエレベーターを降りた。
この時間のことをわたしはずっと忘れないから、あなたは大きくなっていつの日か、自分の手を見て、ママと手を繋いで歩いた日のことを幸せな記憶として思い出してね、と心の中で言った。


わたしの両親も、気がつけばシニアクーポンが使えるお年頃になっている。
近い将来「そろそろ免許返納したら」などと言わないといけない日が来るのかと思うと、これまでは気が重かった。だけど息子と手を繋いでいたら、父の運転する車で流れていたユーミンの歌に重なる父の鼻歌や、母と遭遇したゲリラ豪雨で真っ白になったフロントガラスを思わず内側から拭おうとして泣き笑いした記憶がわたしの中を優しく温めた。


たぶん、わたしを含め多くの人は「今心配なこと」にあまりにも絡め取られて苦しくなっているのだと思う。
でも実は、忘れているだけでとても大切にしていたことや、感謝している気持ちがたくさん覆い隠されてしまっていて色を失っているだけなのかもしれない。そのしっぽみたいなものを見つけたら、時々引っ張って温かいものに触れたら「あぁ疲れた」と言う回数が少しは減らせるかなぁ。
実際しんどいことはこれから少なくないだろうけど、しんどいなぁと思いながら向き合うより「ありがとう」と思って接することができたら、ようやくわたしも大人/お母さんになれたと言えるんでしょう。

わたしの大人への旅はまだまだ続く。


るる


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