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#137 ぼくのチョコを母の視点から見る

男の子の母になってみて思う。
バレンタインというイベントは「めんどくさくはないけど、ざわざわする」。

あげる人だったわたしが、もらう人側になる日が来るとは。
くるりと立場が入れ替わる経験というのは、時々してみるもんだな。意識しないとわからない気持ちというのはこんなにたくさんあるということに、この歳になっても毎回新鮮に驚く。


・・・

中学、高校とクラスがほぼ持ち上がりだったのもあり、わたしには女子だけでなく男子の仲の良い友人がいた。今も互いに連絡し合ったりする。ただ、終ぞ誰にもチョコをあげることはなかった。ドキドキしながら準備したり、「本命じゃないよ(ハート)」と含みを持たせて渡したりする高尚なテクニックが許されるほど、自分は可愛いらしいタイプじゃないと自粛していた。それに「自分専用の特別な人」も本当のところ要らなかった。
女子の友人らが作ってきてくれた、売り物と見紛う完成度のお菓子にひたすら感心して作り方を教わり、エプロンしてメレンゲを泡立てる自分を想像してみるのだけど、まぁお父さんにあげるんだよな、と我に返って「もうちょっと簡単なレシピにしよう」とか心の中で思案していた。

友人の中には「これ買ったやつなの。包んだだけ」なんてしゃあしゃあという子がいて、なるほどその手があったかと思った。(そんな彼女はモテた)

中身よりもラッピングに興味があったわたしは、ちょっとやってみたくなって
適当に選んだチョコを自分の好きなように包んで塾の先生にあげた。
学生アルバイトだった先生に「えっこれ作ったの」と感動されていたたまれなくなって、「買ったやつ、包んだだけ。ごめんなさい」と謝った。それなのに翌月デパートの袋に入った綺麗なハンカチとクッキー缶をもらった。チョコの値段は忘れることにした。

大学生になって初めて彼氏に手作りのお菓子を渡した。なるほど、楽しいイベントだと思った。でも翌年から今年は何が良いかなと考えるのが至極面倒だと思っている自分に気がついてしまった。そして彼女のいる男性たちが「お返しって正直面倒だよな。なんでチョコがネックレスになるんだよ」と言っていて、過去の一件が思い出されて「確かに」と思った。
それで彼氏と絶賛喧嘩中だったわたしは、自販機で買ったココアの紙パックに「ハッピーバレンタイン」とマジックの太い方で書いて彼の部活のバッグに突っ込んだのだけど、それが卒業するまで彼らの恰好のネタになったことは言うまでもない。

・・・

こうして今振り返ってみてもつくづく、わたしの思考は「贈られる側の男性の心中を想像すること」が悲しいほど欠落しているなぁと呆れる。「好意を寄せていると思われてしまっては面倒だな」とか「あの人が好きなんだ、と友人たちから言われて否定するのも変かな」とかそんなことばかり考えていたと思う。彼女たちのように「振られたらどうしよう!」とキャッキャしたりしてみたかった。

そして現在。
1年生の息子がクラスの女の子に「⚪︎⚪︎くんのお家ってどこか知ってる?」と聞かれて教えてやる小さな背中に、「きみじゃなかったね、気にするなよ」とテレパシーを送る。
わたしの胸がきゅうと締めつけられているのを彼に気づかれないといいな、と願いつつ。
いつか(期待を込めていつか)彼が想いのこもったバレンタインチョコを持ち帰る日が来たら、わたしもきっと嬉しいんだろう。
それは彼が人気者でやったーとかではなく、誰かに想いを寄せられるという経験を身をもってして、過去の微かな心の傷が癒され、強くなることを喜ぶのだと思った。
きっとまだ小さな彼はこれから全部経験する。思いが届かなかったり、どうしたら良いかわからず冷たくあしらわれたり、逆にあしらってしまったり
傷つけ、傷つくことがあるんだろうけど
「頑張れよ、相手の女の子は案外何も考えてないぞ」と言いたいのをグッと堪え、黙って毎年母チョコをあげようとお節介なことを考える。

願わくは、わたしみたいに「バレンタインで盛り上がってみたかったなぁ」と外野から野次るような大人にはならんでくれよな、と夫が持ち帰ったチョコを食べながら思っている。


るる


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