「子どもを産む」という、人間のエゴ

先日友人達と、将来結婚したいか、子どもを産みたいか、ということについて話していた。

その場にいた男友達二人は、「早く結婚して子どもを産みたい」と言っていて、女友達の一人は「自分が子どもを産むことはまだ考えられない、自分のキャリアや人生を大事にしたいから。」とのことだった。

かく言う私は、法的に籍を入れる形での"結婚"には興味がないし、子どもを産むことも現時点では全く考えられない。

とは言え、結婚に関しては年齢と共に焦りが出てくることが容易に想像できる。焦っている自分を想像することは不愉快でならない。子どもを産むことに抵抗があるので、年齢を気にして急いで籍を入れる必要はないと思っているし、好きな人とのんびり同棲でも出来たらそれだけで幸せ、結婚はお互いが自立して自分の人生を歩めるようになってからでいいのではないか、と思ってしまう。し、そういう結婚観を共有できる人と、焦らずじっくり 地に足つけて生きていきたい。

子どもを産むことに関しては、先ほど述べた女友達とは異なる観点において抵抗感がある。

出生には子どもの同意を伴わない、ということが抵抗感の原因である。「子どもは親を選べない」ということはよく言われるものだが、それ以前に、この世に産まれたいか否かを選ぶことすらできない。

自分と結婚相手の独断のみで一人の人生を強制スタートさせてしまうことに、とんでもない戸惑いがあるのである。

例えば、仮にでも、成長した自分の子どもに「なんで私を産んだの?」と聞かれた時、私は答える言葉が見つからないだろう。「産んでくれと頼んだ覚えはない」と言われて仕舞えば、「そうだよね、ごめん」としか言いようがない。子どもにとっては ""気付いたら人生がスタートしていた""  のであり、将来自分の子どもが「産まれてきてよかった」と心から思える人生を送れる保証はどこにもない。

親が「あなたが産まれてきてくれて本当に幸せよ」と言うのは簡単だし、ある意味当たり前な話だ。だが、どんなに産んだ側が幸せを感じていようと、それは必ずしも産まれた側の幸せには直結しない。産まれてきた後の人生をどう歩み、どう捉えるかどうかはその子次第であって、産んだ側は全責任を負うことはできない。

極論を言ってしまえば、子どもを産むという過程は、そこに全く相手の意思を介在しないという点でペットを飼う原理と同じであるのに、産み落とされた人間はいつまでもペットのように面倒を見られる存在ではなく、「人格」をもった「一個人」として生きなければいけない。その矛盾に、言葉にし難い気持ち悪さや違和感を感じてしまうのである。

子どもを産みたいという理由は多種多様あるだろうが、いずれも親のエゴだなと思わざるを得ない。子育てをしてみたいから、親になりたいから、愛する人との子どもがほしいから、孤独死したくないから、幸せな家庭を築きたいから、親孝行のため、、、いずれも「自分」や「自分の周り」を幸せにするため、「自分の人生」を豊かにする手段としての出産であると思ってしまうのは、私の歪みなのだろうか。

もちろん幼い子どもは本当に愛しいし、他人の子を見ることは大好きだ。しかしそれはあくまで「一切の責任を伴わないから」であって、自分が子ども好きであることは子どもを産む理由にならない。

このようなことを深く考え過ぎず、愛する人との結婚・出産・子育てなどをシンプルに楽しんでいける人は幸せだと思う。だが、自分の中にこういったものの見方が根付いてしまっているのはどうしようもないことだし、ここに述べたことが歪みきった価値観だとも思っていない。(確かに極端ではあるし、大多数の人とは異なる考えであることは分かっているが。)

まだ私は若く、結婚や出産が社会的に急かされる年齢でもないので生きやすいが、今後のことを考えると少し憂鬱になってしまうのであった。

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