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「生きている」実感がほしければ


率直そして個人的な意見に過ぎないけど、日本では「生きているなあ」という実感を抱くことがつくづく少ないように感じる。それに反比例するように、「死にたい」と感じることは多い。

ニュージーランドにいた頃は、逆だった。悪く言えば田舎で何もない、良く言えば素晴らしい自然に囲まれている国。

電車もなく不便だし、「時間がもったいない」と思うことも多々あった。日本にいたらいくらでも予定を埋められるのに。電車でどこへでも行けるのに。


ただ、自然は誰が見ても美しいと感じるものだった。ニュージーランドのティーンエージャーはこの国を誇りに思う反面、退屈さはやはり感じていたようだった。


同級生の女の子に、
「Do you like New Zealand? Why? (ニュージーランドが好き? なんで??)」と聞かれたので、

「Because it's a beautiful country. (とても綺麗だから)」と答えたら、

「Huh? It's not beautiful, it's just muddy. (綺麗?? 泥まみれなだけよ)」

と返された。雨上がりだったので、近くにあった泥濘んだ水溜まりを指差しながら。


こんなエピソードもある。ニュージーランドはとにかく空が綺麗で、天の川が見えることもよくある。また変わりやすい天気から、虹はもちろんのこと、ダブルレインボーを眼にすることも少なくない。

ある夜、友達と夜歩きながら、「Omg, beautiful stars!! (わあ、星が綺麗!!) 」と感嘆すると、「 What? Oh, stars. (ん? ああ、星ね。)」と冷たくあしらわれたり。


「虹だ〜!」とスクールバスから窓の外の写真を撮ると、手前の席に座っていた男の子が、「なんだ、虹ね。僕の写真を撮ってるのかと思ったよ。」と勘違い。そんなの日頃から見慣れている彼らには、ありがたみが薄い。


でも、気持ちはなんとなくわかる。
大学時代の学生寮で、同じ寮のルームメイトが大騒ぎしていた夜。叫び声が何度も聞こえて、外への扉が開く。

火事か事件でも起きたのかと思って見に行くと、雪が降っていた。マレーシアやシンガポール、インド出身の留学生の彼女たちにとって、生まれて初めて見る雪だったようだ。

「るる!雪!雪!」と動画を撮りながらきゃっきゃしてる姿を見て、「あぁ、雪ね」と冷めた態度をとってしまったっけ。


脱線してしまったけど、そんな風に自然が身近にある環境。人口も少なく、土地は広い。まるでBGMかのように、小鳥のさえずりが聞こえ、雑草だって花屋さんで売られていそうなレベルに洗練されている。

天空の視界を遮る高層ビルもほとんどなく、人混みもない。ここでは、落ち込むことはあっても、「死にたい」と思うことはなかった。




ニュージーランドでは、街にひとつは割と広めの公園か植物園がある。そして、平日は踊ったり歌ったりしても恥ずかしくないくらいに人がいない。

分母が少ないせいか、すれ違う赤の他人が挨拶してくれることもよくある。知らない人と会話することも圧倒的に多かった。

バスツアーで隣になったアメリカ人男性と3時間喋り通したりとか(笑) 多い時は週に3〜4回くらいの頻度で知らない人に声をかけられることもあった。

このくらい人と人との距離が近い世界だと、フリーハグやヒッチハイクも特別なことではなくなるのかもしれない。


ところが日本では、声をかけてくるのはキャッチかナンパ。もしくは勧誘かアンケートがほとんど。

たまに老人や外国人が道を尋ねてきたり、若い女の子かカップルが写真撮影のお願いをしてくるくらい。怪しい何かの可能性が高いことから、ほとんどの人は無視か苦笑いか、驚いた表情をする。

これは、日本に帰ってきて少しショックだったこと。「すいません」と声をかけただけなのに、目を見開いて驚く人なんかもいて。人と人との距離の遠さを実感した。私は東京生まれ東京育ちなので、地方の方はまた違うかもしれないけど。

これだけ人が多いと、一人一人に対していちいち気を配っていられない。他者に対して無関心になるし、時には人を疑ったり怪しんだりすることも必要だと思う。


けど、リアルではそんな状態なのに、代わりにスマホを握りしめて、SNSで寂しさを埋めようとすることも普通で。そこに切ない矛盾を感じてしまう。

同期の留学生も口を揃えて言ってたけど、日本に戻ってまず衝撃的だったのが、電車の乗客の虚ろな表情だ。全員が全員ではないにしろ、ほぼほぼ寝てるかスマホを見てるかのどちらか。仕事帰りと見受けられる服装をした人の顔は疲れ切っている。


今では立派に自分もその一員だし、じゃあ他に何するのって意見もあるだろうけど。(ちなみにその頃の私は、窓の外を眺めたり、本を読んだり、勉強したりしていた。家族に「電車の中でニコニコしてるのあんただけよ」と言われたこともある)

でも真正面を向くと前に座っている人と目が合ってしまうし、向き合って座るスタイルの日本の電車だと目のやり場に困るじゃないけど、変にジロジロ見てると勘違いされたくない。

だから最初は、電車に乗ることがなんとも息苦しく感じた。運が悪ければ、酔っ払いが乗っていたり、うるさい学生がいたり、なんか変な臭いがしたり。

今ではそんな空間にも慣れ、私もバリバリにスマホを見てるか寝てるかだ。本を読む機会も減ってしまった。それでも、最初に感じた違和感は覚えているから、良くも悪くも適応した自分がちょっと悲しい。




ビルに囲まれ、狭い空の下、座れない電車に乗るのも当たり前。電車通勤の人は毎日満員電車に揺られて、職場に着く頃にはぐったりなんてことも珍しくないこの社会。そんな中、「生きている」なんて感じることはなかなか難しいのではないかと思う。

ニュージーランドだけじゃなく、カンボジアでボランティアした時も、南米で旅行した時も。ジェットラグと寒暖差に苦しみつつも、どこか生き生きしていた。


それは未知の世界が新鮮に映っていた部分もあると思う。けど、何よりも、「自分の力で行動を起こすことや、何かを生み出すこと」が大事なのではないかと考えた。例えば、知らない土地を歩いたり、少し手の込んだ料理をしたり。自然の中で走ったり、歩いたり、歌ったり、絵を描いたり。

そうする中できっと、自分と向き合うことになるし、自分の声がよりクリアに聞こえて、自分のことをもっと知ることができる。自分を振り返り、人に感謝し、願いを明確にする時間。

知らない土地に行くと感じること。それは、多少の不便さなんかは、「生きている実感」を構成する要素だということ。全て機械任せで自分は動かなかったり、利便性や効率を追求すればするほど、「自分の力で生きている」気持ちは薄れていくのではないか。


自分で行動すること。

自分と向き合うこと。

不便な道を選ぶこと。


これらが今のところ、私なりに導き出した、
「生きている実感」を得るための3原則だ。



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