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【ぼくの超日常#01】茶の湯の世界(平常心是道)

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ぼくはお茶(茶道)を習っていて、かれこれ10年以上経つ。

茶道というと、堅苦しいイメージがあるかもしれない。
まぁぶっちゃけ堅苦しい。ただ、それは基本の型を大切にしているからであって、道と名のつくものは大体そうではなかろうか。

茶道や剣道には「守破離」という言葉がある。
まずは基本をきちんと守る。それができたら次はそれを破る。するといつの日か、型から離れて自身の新しい型ができあがっていく。そのような営みが道なのであって、道は基本を知ってからが奥深く面白い。

たかだか10年そこそこでお茶を語るのも気が引けるが、今回はぼくがお茶をやってる時に考えていることを書いてみる。
茶道ってマジで面白いから、もしよかったらぼくのお茶を飲んでいってほしい。

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茶道は「思いやり」を学ぶ道だとぼくは思っている。
お湯の温度、お抹茶の量、掛け軸、お花、茶道具、炭の種類などなど、茶道ではお客様にお茶を楽しんでもらうにはどうしたらいいかを究極まで考え抜いて行動(おもてなし)する。

そんなわけで、茶道ってガチガチに型があるくせに、最終的にはこうあらねばならぬというものが存在しない。結局のところその日のお客様に合わせて、型はいかようにも変化するからだ。
極端な話、ガラス製のコップでお茶を立てても問題はない。お客様がそれによっておいしいお茶が飲めるならば、むしろ正しいおもてなしだと言える。

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お茶と禅は古くから密接な関係がある。

禅語に平常心是道びょうじょうしんぜどうという言葉がある。(びょうじょうしんこれどうとも読む)
禅語の「平常心」には、わたしたちが通常使う「普段の状態」とは多少異なるニュアンスがあって、ぼくは「一切を天にまかせる状態」みたいに捉えている。
つまり、上の言葉は「一切を天にまかせる状態、これこそが道である」と、そんな様なことを表している。

ゆえに茶の道においても、相手のことを思いやりつつも一切をあるがまま天にまかせて一杯のお茶に没頭する。これが理想だ。


……いや、ムズ過ぎである。

実際のところ、相手を思いやる時点で相手のことがけっこう気になる。もうちょっとああすれば良かったかな?とか、上手くやれたはずなのになんかリアクション薄いな…とかそういうことが気になる。
しかしだ、そういう欲だとか、不安だとか、期待だとかも一切を天にまかせてこそ、それが真に相手を思いやっていることになる。のかもしれない。


……いや、だからムズ過ぎである。
どうしても自分軸で気になってしまう。

─── でもね。時々思うのだ。

もしそんなことができる人がお茶を立ててくれたら、そのお茶はきっと心の底から一服できるお茶なんだろうなーと。
まだまだ修行が足りませんなー。


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100円→今日のコーヒーを買う。 500円→1時間仕事を休んで何か書く。 1,000円→もの書きへの転職をマジで考える。