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『すずめの戸締り』〜今日もまた生きていく糧に〜

新海誠監督の最新作『すずめの戸締り』を見てきた。
予告編から感じる『星を追う子ども』を彷彿とさせる雰囲気や「集大成にして最高傑作」などという煽り文句から、今年最大の懸念作でもあったのだが、一言で言ってしまえば、良かった。
料金以上の鑑賞体験をできると思うので、劇場で鑑賞することをお勧めする。

以下、ネタバレがあるので注意。
というか、映画を観てからでないと本稿の内容が理解できないと思われる。


ざっくり感想

映画の導入部について

母親を探すシーンから始まって、母親に何かあったことが分かる。荒廃した街と屋根の上に乗った船から、東日本大震災の津波を想起させる。先後は忘れたがモチーフの扉も登場。
夢から覚めた後、母親らしき女性は「すずめ」と下の名前で呼び捨てするのに対し、すずめは「たまきさん」とさん付けで呼ぶことから、二人の名前を紹介しつつその距離を表し、彼女が実母ではないことも判明。更に、「デート」との単語から父親の不在が分かる。
知識があればもっと情報が得られるはず(多分冒頭のシーンで舞台となっている地域等も分かるはず)だが、一般常識の範囲内でもこれだけのことが分かる。
特に尺が限られた映画で、こういう情報の出し方って大事だよね。
と、それだけ。
ここからが本題。

異色のアニメ映画

本作は、アニメ映画としての評価がやや難しい。
というのも、映画自体の印象はかなり強く残ったし、鑑賞後の満足度もかなり高かった気がするのだが、改めて振り返ってみると、特筆すべき何かがあるわけではないのだ。
ロードムービーということもあってグダる部分も無くストーリーはそれなりに楽しめるし、絵も綺麗で、声もさほど違和感は無い。音楽も悪くなかった。全体の水準はかなり高いと思う。
ただ、娯楽たる"物語"として見るなら、僕はセカイ系の到達点たる前作『天気の子』の方が好きだ。
※『天気の子』についてはこちらの過去記事参照。

それでも、"最高傑作"かはさておき、(少なくとも『君の名は。』以降の三部作の)"集大成"というのは偽りではなく、本作を見ると「ああ、これがやりたかったんだな」というのが分かった気がする。
謎の満足感の出どころはよく分からないので「実際に観てください」ということになるのだが、一つ考えられるのは、本作の強烈なメッセージ性だ。
勿論、作品にメッセージ性があるのは変なことではなくて、特にアニメ映画では無い方が珍しいと思うが、そういうレベルではなくて、本作は最早アニメ映画の形をした新海誠監督の被災者(とそれに類する人々)へのエールとでも言った方が良いくらいに、観客に強烈に訴えかけてくるメッセージがある。ここまで露骨なメッセージが説教臭さもなく伝わってくるのは凄い。

ということで、まだ劇場に足を運んでいない人は観ましょう。

一つだけ気になるシーン

鈴芽のとんでもない身体能力とか粗探しはしようと思えばいくらでもできるのだが、そういう無粋なことは置いておいて、どうしても文句を言いたいシーンがある。
それは、芹澤の車に乗せてもらい、鈴芽と叔母さんが東北に向かう途中、SAで叔母さんが鈴芽に感情を爆発させるシーンだ。

詳しいセリフは忘れたが、叔母さんがすずめに対し「貴女を引き取ったせいで自分の人生が滅茶苦茶になった」的なことをかなりはっきりと言う場面がある。
実際、叔母さんが内心でそう思ったことは何度もあっただろうし、人間である以上それ自体を咎める気はないのだが、これを本人に対し直接言ってしまうのは、越えてはいけないラインを越えている。少なくとも、物語上で母親(役)が言うセリフではない。
このセリフの破壊力というのは、一度口に出したが最後、二度と関係が修復できなくなるレベルであって、母と子という関係を破綻させるようなものだ。それ故、このセリフを入れるなら、物語において鈴芽と叔母さんの関係を深掘りすることが絶対に必要だった。
ただそこは物語の本筋と若干ズレる部分でもあり、本作に両者の関係についての深掘りは無い。この取捨選択は適切だと思うのだが、だからこそあのセリフは入れるべきではないのだ。

一応、その後に自転車ですずめの旧居跡に向かう途中、叔母さんが「それだけじゃないよ」と言うシーンがあって、リカバリーはされているのだが、破壊力に対して回復量が全く足りていない。物語の終わりに鈴芽が叔母の元を離れて独り立ちするならまだしも、そういう展開もない。
自転車のシーン自体は良いのだが……

演出的には、叔母さんが感情を爆発させるシーンはサダイジンが登場する場面なので、叔母さんのセリフはサダイジンに"言わされた"ということだと思うのだが、それにしてももう少し別のやり方があったのではないかと。
そもそも、サダイジン自体悪いキャラではなさそうで(寧ろダイジン含め"神"に近い存在)、不気味さを演出するにしても、叔母さんにあそこまで言わせる必要性は感じられない。
色々言いつつ、鈴芽はかなりおばさんに甘えていて、叔母さんのセリフに対する鈴芽の反応は納得のものだったし、あのセリフの重さは製作陣も間違いなく理解しているはずなのだが、どうしてああなってしまったのか……

まあこの辺は物語における母親役に過大な期待を寄せているだけなので、気にしすぎかもしれない。本稿とは全く関係ないが、岡田麿里氏の『さよならの朝に約束の花をかざろう』はおすすめです。
それから、叔母さんの声は花澤香菜氏があてているのだが、やはり同氏の演技は最高だった。
最近観た『ぼくらのよあけ』でも母親役で出ていたのだが、こちらも良い。


(追記)
……なんてことを思っていたのだが、この疑問を解消する解説を発見した。

リンクを踏みたくない人向けに改めて説明するとこんな感じ↓。

最初の方でダイジンが鈴芽宅に来た場面で、彼女がダイジンに対し「うちの子になる?」と言うシーンがある。
このセリフ自体は、鈴芽にとっては何気ない一言だったと思われるが、この言葉はダイジンにとってはとても大きな意味を持って、その原動力となった。
件のシーンにおいては、かつて鈴芽に対し「うちの子になろう」と声を掛けた叔母さんが、サダイジンのコントロールにより「あんたなんか引き取らなければ良かった」と言い放つ。
これは、ダイジンに対し「うちの子になる?」と言っておきながら、草太が要石となった後、皇居地下のシーンでダイジンを突き放し深く傷付けたすずめの行動と同じなのだ。
サダイジンは、叔母さんをコントロールすることにより、鈴芽に対し、自身のこの行動への自覚を促す。
まあ結局、鈴芽が自分の言葉の重さに気付くのは、終盤でダイジンが自ら要石となることを選ぶシーンまで待たなければならないのだが。

このように説明されると、あのシーンも合点のいくものである気がする。というか、鑑賞時叔母さんに「大人らしさ」を求めすぎていたのかもしれない。
なにはともあれ、セリフの重さを理解していなかったのは僕自身だったということだ……

(12/3追記)
先日配布開始された「新海誠本2」でこのシーンの解説がされているらしい。筆者は入手の予定はないので、気になる人はそちらで確認しよう。

鈴芽の成長

喪失を受け入れる/乗り越える物語……?

この物語には三つの柱がある。
1つは、2011年の震災で母を亡くしたヒロイン・スズメの成長物語。
2つめは、椅子にされてしまった草太と、彼を元の姿に戻そうとするスズメとの、コミカルで切実なラブストーリー。
3つめは、日本各地で起きる災害(地震)を、『後ろ戸』というドアを閉めることで防いでいく「戸締り」の物語。

『すずめの戸締り』企画書前文より

3つめは元ネタというかそっち方面の知識が乏しいので置いておくとして、ここに書いてある通り、本作は鈴芽の成長物語とラブストーリーという2つの柱がある……ことになっている。
鑑賞時には両者が渾然としている感じがしてよく分からなかったのだが、企画書の意図を推察するなら、(1)母の死を受け入れる・乗り越えるという成長と、(2)鈴芽と草太の恋愛要素ということになるのだろう。

しかしながら、鑑賞後の感想として、本作が「喪失を受け入れる/乗り越える物語」であるようには思えなかった。
というのも、鈴芽は映画の冒頭から母親の死を受け入れ、乗り越えて生きているようにしか見えなかったからだ。
そうでもなければ、「(母親の形見である椅子を)ちゃんと大事にしていたのはいつまでだっただろうか」なんて独白が出てくるはずがない。

ということで本作において(1)の要素は物語の前提としては存在してもストーリー展開には組み込まれていないと思うのだが、それとは別に主人公の成長が存在する。
それが、「死ぬのは怖くない」から「死ぬのは怖い」への変化だ。

前者は「死ぬのが怖くないのか」と問われた鈴芽が「怖くない」と答えるシーンがいくつかあり、後者も終盤において自分でそう言っているシーンがあった。また、これに半ば連動する形で、叔母さんに対し草太への恋愛感情を否定していた鈴芽が、「好きな人に会いにいく」と告げて草太の元に向かうシーンもある。

「死ぬのは怖くない」とか「死ぬのは怖い」というのは、つまりは「生きる理由があるかどうか」ということだろう。
作中における鈴芽の成長を雑にまとめると「好きな人ができて生きる理由ができました」ということになる。

鈴芽が冒頭から母の死を乗り越えているようにしか見えなかったと書いたが、「死ぬのが怖くない」のも震災の影響と言えばその通りで、そういう意味では彼女はまだ震災を完全に乗り越えていなかったことにはなる。
※彼女にとっては震災≒母の死だと思われる。

それでも、これは母の死の部分とは区別しなければならない。
死ぬのが怖くなくたって、彼女は"普通"に生きている。震災からは"立ち直って"いるのだ。因みに、恋人の存在により喪失と向き合えるという場合もあるので、両者は時としてセットになることもあるのだが、本作の場合、それをやってしまうと別の問題(後述)が生じる。

ということで、ここまでの理解をもとにすると鈴芽の成長は二段階に分けられて、①母親の死を受け入れられない状態②母親の死は受け入れたが生きる理由はない(死ぬのは怖くない)状態③好きな人ができたことで生きる理由ができた(死ぬのは怖い)状態、と推移している。
本稿では、①を"救われていない(大丈夫ではない)"状態、②を"大丈夫"な状態、③"救われた"状態としておく。
(1)の成長というのは①→②なのだが、映画冒頭で鈴芽は既に②の段階であり、作中では②→③への成長が描かれていることになる。

ここまで考えると、本作は鈴芽が草太への恋を通して「死ぬのは怖くない」から「死ぬのは怖い」へ成長する話であって、話の筋は「ラブストーリーとそれに伴う成長」ということになりそうなのだが、ほぼ全編を通して描かれる本作の恋愛要素はあくまでも副次的なものでしかない。鑑賞中もそこまで感じないだろうし、最後まで観終えたなら尚更のはず。
これは当たり前のことで、なんと、本作におけるクライマックスは、鈴芽が幼少期の自分と向き合うシーン、つまり①と②(延いては③)の対比なのである。

当初は女二人組という案だったとかいう噂もあるので、これは商業作品として恋愛要素を入れ込んだ弊害だと思うのだが、話の原動力は鈴芽の草太に対する恋心であって(2)でストーリーが進んできたはずなのに、最後は(1)に辿り着くという齟齬が生じている。
このズレが本作の脚本の最大の問題点で、特にクライマックスシーンにおいて監督が本来やりたかったであろうことが損なわれているような気もするのだが、これについては後述。

鈴芽は何故"大丈夫"になれたのか

鈴芽が救われるのも超越的な何かがあったからではなくて、震災後の12年間を彼女は普通に生きてきて、そのシンプルな事実が彼女自身を救うという話に出来ればいいなと考えていました。

新海誠本より

ここでの「救われる」というのはおそらく本稿における鈴芽の成長段階の①→②、すなわち"救われた"状態ではなく"大丈夫"な状態になることを指していると思われる。
多分「普通に」生きてきた中には、様々な出会いがあって〜ということになってしまうのだが、本作はそういうささやかなものの大切さに気付こうという話ではないので、それはさておき。

12年間を生きてきたシンプルな事実が彼女を救うというのは、結局「時間が解決した」ということになるのだろう。
実は、監督は企画書前文ですずめを「喪失の記憶を忘却した少女」と表現している。おそらく本来の趣旨とは違うのだが、この"忘却"こそが喪失を受け入れ、乗り越えて前に進むことなのではないかという気がする。
通常、喪失を受け入れると言っても完全に乗り越えることができるわけではなくて、その辛さ・痛みを内に抱えながら生きていくしかない。「喪失の記憶を忘却」したというのは、記憶を封印したということではない。鈴芽は、母親を探す当時の夢を見ても、朝普通に起きている。彼女は12年という歳月の中で、喪失を忘却するほどに内なる痛みに慣れた。母親の死は、ちゃんと"過去"の出来事になった。

そう考えると、当時の絵日記を掘り返したシーンや幼少期の自分と向き合うシーンで改めて母親の死と向き合えた、というパターンも考えられるのだが、それらのシーンで母親の死と向き合うような(カタルシスのある)描写は特に見受けられなかった。
母親の死を受け入れる話というと、『宇宙よりも遠い場所』の小淵沢報瀬が挙げられ、同作の12話などは、まさしく”カタルシスのある描写"と言える。こちらも素晴らしい作品なので、未視聴の方は是非一度見てみてほしい。

それから、言うまでもなく、震災のことを忘れず、過去の経験を将来に対する備えに生かすことは大事で、それとこれとは別の話。


震災後映画としてのメッセージ

本作のメッセージ

上の方で本作には観客に強烈に訴えかけてくるメッセージがあると書いたが、作中において、そのメッセージそのものがセリフとして出てくる。
本作を観たなら誰もが分かるだろう。終盤で鈴芽が幼少期の自分に語りかけるシーンだ。

あなたはちゃんとこの先大きくなっていく、人を愛し愛される、光の中で大人になる、世界はそういう風にできているんだと、鈴芽は過去の自分に語りかける。
※ここの正確なセリフは不明だが、調べてみると「光の中で大人になる」も「世界はそういう風にできている」も言っていないらしい……おそらく鑑賞時の自分がそのようなニュアンスを受け取ったのかと思われる。
正しくは、「今は真っ暗闇に思えるかもしれないけれど、いつか必ず朝が来る」という感じらしい。

「どんなことがあっても、あなたは大丈夫なんだよ」

多分これこそが、新海誠監督が『君の名は。』からずっと伝えようとしてきたメッセージだった。本作では、東日本大震災で母親を亡くした少女を主人公に据えることで、ストレートにこの"大丈夫"を伝える。作中で「大丈夫」という言葉を使っていたかは定かではないが……

"大丈夫"の意味

『天気の子』の記事では、"大丈夫"というのは「生きているんだから大丈夫」、つまり生の肯定なのだと書いた。
本作における"大丈夫"の射程は更に広い。「幸せになれる」「良い人生を送れる」という意味での"大丈夫"だ。
雑に言えば、「今は辛くても、貴方はちゃんと幸せになれるよ(だから前を向いて)」というのが"大丈夫"の意味だ。

この"大丈夫"の伝わり方は、被災者かどうか(鈴芽の言葉に対して想起しうる具体的な体験があるかどうか)、そしてその人の現在の状況によって、大きく異なっただろう。

・被災者以外の人々
みんな誰だって辛いとかいう話はさておき。あのシーン自体は本作最大の見せ場なので、だいたいの人は素直に感動できたのでは。

・被災者の人々
同じ被災者であっても、現在の状況によって"大丈夫"の受け止め方は様々だったと思われる。
取り敢えず、鈴芽の成長段階と合わせる形で、"救われていない人々"、"大丈夫になった人々"、"救われた人々"という3つの類型を挙げておく。

"救われた人々"は、多分これまでに「あなたは大丈夫だよ」と言ってくれる人がいた/いる人々だ。なんなら、『すずめの戸締り』を映画館で観るときにも隣に誰かいたのではなかろうか。
"大丈夫になった人々"は、「あなたは大丈夫だよ」と言ってくれる人はいなかったけれど、自力でなんとかしてきた人々だろう。この層にこそ、鈴芽の言葉は届いてほしい。
本作では、鈴芽自身が過去の自分に声を掛けるというところが大事で、あのシーンには、観客に対する「あなたはこれまで頑張ったよ」という労いも含意されているような気がする。

ここまではいいとして、問題は"救われていない人々"だ。
本来、"大丈夫"というメッセージはこの層に最も届くべき言葉だったはずである。しかしながら、彼等の中には、このメッセージが響かなかったどころか、不快感すら感じた人々もいたのではないかと思われる。
ここに、本作における"大丈夫"の根源的な問題が生じている。

"大丈夫"という結果論

本来最も「あなたは大丈夫だよ」という言葉が届くべき層に対して、このメッセージが刺さらないのは何故か。

理由は簡単で、「世界はそういう風にはできていないいつか必ず朝が来るとは限らない」からである。
鈴芽が幼少期の自分にかけた言葉は、所詮は"綺麗事"で、"嘘"だ。
(酷い言い方にはなってしまうが、)被災者で誰からも愛されることなく死んでいく人も当然いるだろう。辛い目にあって、救われないまま一生を終える人だっている。

それでは、何故鈴芽にあのようなセリフが言えたのか。それは、鈴芽自身が "大丈夫"だったからに他ならない。
この"大丈夫"は結果論だ。だからこそ、実際に"大丈夫"だった観客に響く。自分の過去と今が、鈴芽に重なるからである。
そして、この"大丈夫"は楽観論として、"救われていない"観客にも届くはずだった。今"大丈夫"じゃない人が前に進むためには、自分で"大丈夫"だと思えることが大事だから。

しかしながら、そう上手くはいかない。
鈴芽が「世界はそういう風にできているいつか必ず朝が来る」と言えたのは、彼女が震災から12年生きてきた人生そのものが証左だからだ。そして、これと同じように、「大丈夫ではない」ことも、救われてこなかった人々のこの11年間がその証左なのである。
それゆえに、"大丈夫"なんていう楽観論は響かない。だって、これまで"大丈夫"じゃなかったんだもん。
「生きているだけで大丈夫なんだ」という理論は、震災から10年以上経った今だからこそ通用しない。
彼等が "大丈夫"と思えるためには具体的な手助けが必要で、それはスクリーンの中のキャラクター達にできることではない。

それに、結果的に"大丈夫"になることが分かったとしても、現在の苦しい状況も、そこから"大丈夫"になるために自分が頑張らなければならない事実も変わらない。
「止まない雨はない」と言われたって、今降っている雨はどうにもならないし、止むまでは雨に打たれながら生きるしかないのと同じだ。
「そのうち止むんだ」と分かることによって、そこに向かって頑張れる場合もあるが、それだけではもう頑張れない人々もいる。そしてその割合は、震災から時間が経つほどに増えるはずだ。
本作は震災から10年以上経った今だからこそ作れた作品だと思うが、それと同時に、この11年で本作では救えなくなってしまった人々もきっといる。

それでは、鈴芽は彼等に対して何と言葉を掛ければよかったのか。
残念ながら、その答えはない。「君はこのまま救われないよ」なんて言うわけにはいかないし、何より、自分が"救われていない"状況で、同じ被災者でありながら比較的恵まれた環境で"大丈夫"になるどころか"救われた"鈴芽に何を言われたって響かないからだ。
鈴芽の言葉を素直に受け取れるだけの精神的余裕があるのなら本作を観ればいいが、そうでない人には本作は向いていない。
単純に勇気・希望を貰うだけなら、わざわざ本作を観る必要なんかなくて、『ウマ娘 プリティーダービー Season2』でも観た方が良い。


結局"君"が必要なのではないか

もう一つ問題がある。
『シン・エヴァンゲリヲン』でも感じたのだが、結局救われるためには"君"が必要で、"君"がいない人はどうすればいいんだ、という問題はいつまでも解決しない。

「自分自身に会う」ということ

ところが、実は監督が「自分を救ってくれる他人が存在するかどうかは分からないけれど、誰でも自分自身には会える」的なことをパンフレットで言っているらしい。

この「救ってくれる」というのはおそらく本稿における"大丈夫"になることを指している(そして多くの場合はほぼ同時に"救われた"状態になる)。
また、「自分自身に会う」の「自分自身」というのはおそらく「過去の自分」のことで、過去の自分を見つめることで、現在地を確かめるというか、来し方を振り返る、「私はここまで来たんだ」というのが分かるということだと思われる。要するに、「私は実はもう"大丈夫"になっていたんだ」ということが分かるということだろう。

ここで「喪失を受け入れる/乗り越える物語……?」で述べたことを思い出してほしいのだが、「恋人の存在により母の死に向き合えた」という展開にした場合に生じる別の問題というのがこれだ。つまり、本作において鈴芽が草太と出会うことにより母の死(震災)を乗り越えた("大丈夫"になった)話にしてしまうと、まさしく「他者に救ってもらう物語」になってしまうのである。

ということで、本作はおそらく「鈴芽が自身に会うことで実はもう"大丈夫"になっていたことを認識する」という話でもあるのだが、正直なところ、この映画から「自分自身に会う」という部分はあまり感じられない。
確かに、クライマックスで幼少期の鈴芽に声を掛けるのは鈴芽自身だ。それでも、どちらかというと本作も「他者に救われた話」に見えてしまう。
それは、あの展開では、鈴芽が草太によって"救われた"ようにしか見えないし、実際にそうだからである。
というか、恋愛要素を入れた時点で、どう足掻いても「他者に救われる話」に見える。RADの主題歌も、「すずめ feat. 十明」にせよ、「カナタハルカ」にせよ、明らかに「君と僕」の関係を歌っているし。正直どちらかは「自分自身に会う」ことについての歌にしたほうが良かったのではないかという気はするが。

鈴芽が草太によって"救われた"というのは「生きる理由を得た」という部分についてであり、一方で、自分自身に会った鈴芽の言葉自体には、「震災後の12年間を普通に生きてきたというシンプルな事実」により"大丈夫になった"部分と、草太により"救われた"部分の両方を射程に含んでいる。
先述したとおり、作中の展開は基本的に鈴芽と草太の恋愛要素で、"大丈夫"から"救われた"状態になる過程を映してきているのに、クライマックスでは"救われていない"から"大丈夫"になったことに焦点が当てられる。
これが問題で、ここまでのストーリーで「草太により救われる部分」を流し続けてきているからこそ、クライマックスで自分自身に会ったところで、「いや、でも君は恋人に救われたよね」という話になってしまう。他ならぬ鈴芽が草太に"救われた"以上、彼女が自分自身に会うこと部分はどうしても霞んでしまう。
※先程から草太を勝手に恋人扱いしているが、作中では付き合っている訳ではない。

自分自身に会えた先にあるもの

「他者に救われなくても自分自身には会える」ことを認めたとして、その先には何があるのか。
自分自身に会えたところで、"救われる"わけではない。あくまでも、"大丈夫"という現状を認識出来るにとどまる。これを前提とするなら、その先にあるのは「明日からまた(一人で)頑張らなければならない」という現実だ。

ついでに言えば、自分自身に会うためには「実はもう"大丈夫"だった」という状況が必要で、やはり処方箋としては大して役に立っていないように思われる。

本作においても結局、「"君"がいない人はどうすればいいんだ」に対する答えは「"君”を見つけるか自分で頑張ってね」だということになる。
恋人がいない人は、自分でなんとかするかマッチングアプリをやるしかないということだ

「恋人がいれば全て解決する」みたいな考え方は暴論ではあるのだが、物語において"君"に出会うことで"救われる"話はよくあり、リアルにおいても、恋人ができたことで文字通り人が変わったようになる人はかなりいる気がするので、一時的であれ"救われる"ケースは多いように思われる。
残念ながら、いくら美しい景色を見たって、美味しい物を食べたって、現状が変わるわけではない。基本的に、最後は自力でなんとかするしかない部分がある。外部要因は動機にはなり得ても、解決策にはならない
その数少ない例外が、恋人をはじめとする"君"の存在で、彼等は直接の解決策になってくれる。全てではないにせよ、恋人の存在により解決困難だった問題が容易に解決してしまうというのは事実なのではないかという気はする(問題は、その恋人ができるまでが難しいというところなのだが)。
ということで、恋人がいるのに病んでいる人は、相手が不適切なので別の人を探しましょう。

最後に

色々書いたが、それではこの映画は意味が無いのかと言われればそんなことはない。

「あなたは大丈夫なんだよ」と声を掛けてもらえる、一瞬でもそう言ってくれる人がいる、というのはとても大事なことで、それによって、(観客全員ではないとしても)「今日もまた生きていこう」と思える。一瞬でも「大丈夫」と思える。それが、前に進む活力になる。基本的には自分でなんとかするしかない人生だけれど、今日を生きる糧になる。

監督が企画書にこんなことを書いている。

スズメの旅が終わり、観客が映画館から出た時に、その生がすこしだけでも昂揚するといい。

 『すずめの戸締り』企画書全文より

監督の願いが、少しでも多くの観客に届いたことを願って。
それでは。

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